聖書の言葉 7:12 ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなた方も同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。マタイによる福音書 7章12節 メッセージ 試練について聖書から続けて学んでいます。 苦しんでいる人自身が心に留めるべき教えもあれば、苦しむ人を支えるために周りの者が心すべき教えもあります。7回目の今日は、後者の方の御言葉の一つを学びます。それはマタイ福音書7:12の主イエス・キリストの御言葉です。「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなた方も同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。」 ご存じのように、これは昔から黄金律、ゴールデン・ルールと呼ばれてきた、とても大切な教えです。 これと似た教えは他にもあります。孔子は「汝の欲せざるところ、他人にも施すなかれ」と言いました。旧約聖書外典のトビト書4:15は「自分がイヤなことは、他の誰にもしてはならない」と言います。これらは主イエスの教えと似ています。しかし、大きな違いは、それらは皆「あなたがイヤだと思うことは、他の人にもするな」と消極的な教えであるのに対して、イエスの教えは「人からしてもらいたいことは何でも、あなた方も同じように人にしなさい」と、積極的であることです。 これは、私たちが試練に苦しむ人を支える上で、とても大切です。言い換えますと、「自分の身に置き換えて、苦しむ人のことを考える」ということです。「人からしてもらいたいことは何でも…人にしなさい。」これを実際のケアに当てはめたいと思います。 先程、積極的と言いましたが、当然そこには消極面、すなわち、してはならず、言ってはならないことも含まれます。今日はその消極的な面を三つばかり上げたいと思います。 第一は、苦しみのさ中にいる当事者を、頭からその人の責任という面から諭(さと)さないことです。 折角、良いことに挑戦したのに、うまく行かず、苦しみにあえぎ、或いは、食べ物や生活習慣のために病いで苦しむ人もいます。確かに原因は彼らにもなくはありません。 しかし、励まし、諭す目的ではあっても、苦しんでいる人に「それはあなたが選んだものだ。仕方がないでしょ」と自己責任論で諭したら、どうでしょうか。論理的には合っていても、言われた側の者は、突き放されたように感じ、立ち上がれなくなりかねません。これは立場を変えて考えると、よく分ると思うのです。苦しむ本人が自分の責任に気付くのは良いことですし、大切ですが、本当に人を支えたいなら、周りは、最初から自己責任論を押し付けない方が良いでしょう。 二つ目は、他の人の苦しみと比較して「あなたはまだましだ」と言うことです。 痛みや苦しみの感じ方は皆違い、客観的に数値化して、「あなたは誰々より軽い」などと言えるものではありません。また苦しみの中にいる人は、他人と比較されてもどうにもできませんし、比較されること自体、辛いものです。辛い時、私たちは、自分の辛さを分析されたり人と比較されたいのではなく、ただ辛さを分ってほしいのです。「あなたの方がまし。頑張りなさい!」こう言われますと、すごく距離を感じ、突き放されたようで、一層惨めな気持になります。自分の身に置き換えて考えてみると、よく分ると思います。 避けたい三つ目は、誤解のないことを望みますが、最初から聖書の御言葉で、説教をしたり苦しみの意味付けをすることです。 無論、人を更に苦しめる積りで、私たちはそういうことをするのではありません。どんな苦難にも意味があることを理解することで、苦しむ人が力付けられ、支えられることを願って、そうすると思います。 けれども、本当に体も精神も疼(うず)くような、或いは、切り刻まれるような激しい痛みに苦しみ、ヘトヘトになっている時、人はその痛みの意味を受け入れる余裕が、まだありません。たとえ聖書の御言葉であっても、聞ける余地がない位、限界に近い状態にいることも、人にはあるのです。そんなことも分ってくれない人から聖書の御言葉を教えられるのは、非常に辛いものです。これも自分の身に置き換えて考えると、よく分るでしょう。 辛い時、人は自己責任を指摘されるのも、苦しみの度合いを他の人と比較されるのも、苦しみの意味を一方的に諭されるのも辛いものです。それより、まず辛さを分ってほしいし、辛さに耐えている自分を認めてほしいものです。それは必ずしも不信仰で罪深いエゴでもありません。自分の身に置き換えてみると、よく分ると思います。 「人からしてもらいたいことは何でも、あなた方も同じように人にしなさい。」主イエス・キリストがこうお教えになったことの意味は、何と深いでしょうか。私たちも是非、試練に苦しむ方々の状況や気持に自分自身を置いてみて、主の御心を慎重に尋ね求めた上で、人を支えるというこの尊い奉仕に是非、共に与らせて頂きたいと思います 次回は積極面を学びます。 関連する説教を探す 2024年の祈祷会 『マタイによる福音書』
試練について聖書から続けて学んでいます。
苦しんでいる人自身が心に留めるべき教えもあれば、苦しむ人を支えるために周りの者が心すべき教えもあります。7回目の今日は、後者の方の御言葉の一つを学びます。それはマタイ福音書7:12の主イエス・キリストの御言葉です。「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなた方も同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。」
ご存じのように、これは昔から黄金律、ゴールデン・ルールと呼ばれてきた、とても大切な教えです。
これと似た教えは他にもあります。孔子は「汝の欲せざるところ、他人にも施すなかれ」と言いました。旧約聖書外典のトビト書4:15は「自分がイヤなことは、他の誰にもしてはならない」と言います。これらは主イエスの教えと似ています。しかし、大きな違いは、それらは皆「あなたがイヤだと思うことは、他の人にもするな」と消極的な教えであるのに対して、イエスの教えは「人からしてもらいたいことは何でも、あなた方も同じように人にしなさい」と、積極的であることです。
これは、私たちが試練に苦しむ人を支える上で、とても大切です。言い換えますと、「自分の身に置き換えて、苦しむ人のことを考える」ということです。「人からしてもらいたいことは何でも…人にしなさい。」これを実際のケアに当てはめたいと思います。
先程、積極的と言いましたが、当然そこには消極面、すなわち、してはならず、言ってはならないことも含まれます。今日はその消極的な面を三つばかり上げたいと思います。
第一は、苦しみのさ中にいる当事者を、頭からその人の責任という面から諭(さと)さないことです。
折角、良いことに挑戦したのに、うまく行かず、苦しみにあえぎ、或いは、食べ物や生活習慣のために病いで苦しむ人もいます。確かに原因は彼らにもなくはありません。
しかし、励まし、諭す目的ではあっても、苦しんでいる人に「それはあなたが選んだものだ。仕方がないでしょ」と自己責任論で諭したら、どうでしょうか。論理的には合っていても、言われた側の者は、突き放されたように感じ、立ち上がれなくなりかねません。これは立場を変えて考えると、よく分ると思うのです。苦しむ本人が自分の責任に気付くのは良いことですし、大切ですが、本当に人を支えたいなら、周りは、最初から自己責任論を押し付けない方が良いでしょう。
二つ目は、他の人の苦しみと比較して「あなたはまだましだ」と言うことです。
痛みや苦しみの感じ方は皆違い、客観的に数値化して、「あなたは誰々より軽い」などと言えるものではありません。また苦しみの中にいる人は、他人と比較されてもどうにもできませんし、比較されること自体、辛いものです。辛い時、私たちは、自分の辛さを分析されたり人と比較されたいのではなく、ただ辛さを分ってほしいのです。「あなたの方がまし。頑張りなさい!」こう言われますと、すごく距離を感じ、突き放されたようで、一層惨めな気持になります。自分の身に置き換えて考えてみると、よく分ると思います。
避けたい三つ目は、誤解のないことを望みますが、最初から聖書の御言葉で、説教をしたり苦しみの意味付けをすることです。
無論、人を更に苦しめる積りで、私たちはそういうことをするのではありません。どんな苦難にも意味があることを理解することで、苦しむ人が力付けられ、支えられることを願って、そうすると思います。
けれども、本当に体も精神も疼(うず)くような、或いは、切り刻まれるような激しい痛みに苦しみ、ヘトヘトになっている時、人はその痛みの意味を受け入れる余裕が、まだありません。たとえ聖書の御言葉であっても、聞ける余地がない位、限界に近い状態にいることも、人にはあるのです。そんなことも分ってくれない人から聖書の御言葉を教えられるのは、非常に辛いものです。これも自分の身に置き換えて考えると、よく分るでしょう。
辛い時、人は自己責任を指摘されるのも、苦しみの度合いを他の人と比較されるのも、苦しみの意味を一方的に諭されるのも辛いものです。それより、まず辛さを分ってほしいし、辛さに耐えている自分を認めてほしいものです。それは必ずしも不信仰で罪深いエゴでもありません。自分の身に置き換えてみると、よく分ると思います。
「人からしてもらいたいことは何でも、あなた方も同じように人にしなさい。」主イエス・キリストがこうお教えになったことの意味は、何と深いでしょうか。私たちも是非、試練に苦しむ方々の状況や気持に自分自身を置いてみて、主の御心を慎重に尋ね求めた上で、人を支えるというこの尊い奉仕に是非、共に与らせて頂きたいと思います
次回は積極面を学びます。