2024年07月14日「幼子のような者の幸せ」

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幼子のような者の幸せ

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 11章25節~27節

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11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現して下さいました。
11:26 そうです、父よ。これはみこころにかなったことでした。
11:27 すべてのことが、私の父から私に渡されています。父のほかに子を知っている者はなく、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者は誰もいません。マタイによる福音書 11章25節~27節

原稿のアイコンメッセージ

 暫くマタイ福音書の説教から離れていましたので、少し振り返ります。

 イエスの一行は町々で福音を伝え(11:1)、救いを切望する人々も現れました。しかし、冷やかな反応を示す人たちもいました。それどころか、20~24節から分りますように、イエスの伝道の本拠地であったカペナウムなどの町の住民は、イエスの教えを聞き、力ある御業(みわざ)にも沢山触れましたのに、悔い改めず、残念な結果に終りました。

 ところが、イエスは25節「天地の主であられる父よ、あなたをほめ讃(たた)えます」と父なる神に祈られました。「ほめ讃える」と訳されている元のギリシア語には、「同意する、感謝する」という意味もあります。イエスは父なる神に同意し、感謝して、賛美されたのでした。

 残念な結果でしたのに、これはどういうことでしょうか。私たちは何より神の御心(みこころ)を問い、御心をこそ考えることの大切さを教えられます。

 イエスは言われました。25節2行目~26節「あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現して下さいました。そうです、父よ、これは御心に適ったことでした。」

 「これらのこと」とは、福音とそれが与える救いの恵みを指します。神の前に自分の罪を悔い改め、救い主イエスを心から信じるなら、神は必ず罪を赦し、永遠の救いを下さるということです。

 「知恵ある者や賢い者」、つまり、当時のユダヤ教の専門家や自分に自信のある人は、福音を拒みました。しかし実は、それは神が主権をもって彼らに福音をお隠しになったということなのです。

 一方、神は「幼子たち」に福音を現された、とイエスは言われます。ここの幼子とは、自分の罪を悔い改め、イエスによる神の赦しの愛を素直に受け入れる人を指します。自分の罪を心底悲しみ、神の憐れみ以外、自分に希望はないという人を、神は顧みられるのです。

 自分を賢くて正しいとする傲慢な人に、神は福音を隠し、一方、自分の罪を心底認め、悔い改める幼子のような素直な人に、神は福音の素晴らしさを現される!神はそういう主権をお持ちだということです。

 私たちには、伝道の成果がなく、ガッカリする時が多々あります。無論、私たち自身の欠けや不熱心を思い、自分を吟味すべきです。けれども、ただ落胆するだけでなく、私たちから意欲を奪おうとするサタンによく注意し、Ⅱテモテ4:1、2の御言葉、「神の御前で、また、生きている人と死んだ人を裁かれるキリスト・イエスの御前(みまえ)で、その現れとその御国を思いながら、私は厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい」にこそ従うべきことを教えられます。

 次にイエスは、幼子のような者の幸せに更に触れ、27節「全てのことが、私の父から私に渡されて」いると言われます。事実、主イエスは私たちの救い主として、全てを父なる神から任されておられます。

 第一にイエスは、私たちを神から引き裂く罪と自我の奴隷状態から私たちを救い、解放し、神のもの、神の子とするために必要な贖いの力を百%お持ちです。イエスの十字架の血には、その絶大な贖いの力があります。

 第二に、私たちが死んで終りではなく、神と共に生きることのできる永遠の命をイエスは与えることがおできになります。イエスは言われます。ヨハネ福音書11:25、26「私は甦りです。命です。私を信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていて私を信じる者は皆、永遠に決して死ぬことがありません。」

 この永遠の命をご自分がお持ちであることを、イエスは復活によって証明し、今、聖霊により信仰者に与えて下さいます。

 第三にイエスは、羊のように弱い私たちの羊飼いとして、苦難の時にも必ず共にいて下さり、魂の最大の危機、すなわち、死の時も私たちの魂を堅く守ることができます。詩篇23:2~4は歌います。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場(まきば)に伏させ、憩いの水際(みぎわ)に伴われます。主は私の魂を生き返らせ、御名(みな)の故に、私を義の道に導かれます。たとえ、死の陰の谷を歩むとしても、私は災いを恐れません。あなたが私と共におられますから。」

 第四に、人生の究極の目的、すなわち、私たちを造られた真(まこと)の神を知るために必要なことが、全てイエスにはあります。

 宗教改革時代の1542年に作られましたジュネーヴ教会信仰問答は言います。

 「問1 人生の主な目的は何ですか。 答 神を知ることです。」

 

 私たちを愛をもって造られた神を、知的にだけでなく、体験的にも生き生きとリアルに知り、神ご自身をますます喜ぶ者となる!人生の究極の目的、最高の幸せに私たちが与(あずかれ)るための全てが、イエス・キリストの内にはあるのです!イエスは言われます。ヨハネ14:9「私を見た人は、父を見たのです。」コロサイ2:9は言います。「キリストの内にこそ、神の満ち満ちたご性格が形をとって宿っています」と。

 イエスがマタイ11:27で「全てのことが、私の父から私に渡されています」とわざわざおっしゃったのは、イエスを救い主とするクリスチャンの幸せを改めて教え、励ますためなのです。

 それに加え、イエスはマタイ11:27の2行目「父の他に子を知っている者はなく、子と、子が父を現そうと心に定めた者の他に、父を知っている者は誰もいません」と述べ、幼子のような信仰者の幸せを更に重ねて教えられます。

 前半の「父の他に子を知っている者はなく」は、説明の必要がないでしょう。父なる神以外に御子イエスを完全に知る者はありません。

 しかし、それぐらい父なる神と特別な関係にあるイエスが、父なる神を知るという最高の特権をクリスチャンに与えておられ、それが如何に幸せかを示すために、イエスは言われます。「子と、子が父を現そうと心に定めた者の他に、父を知っている者は誰もいません。」

 天地万物を創られた生ける真の神が、ご自分を知る特権を、御子イエスにより私たちクリスチャンに与えておられるのです。何という幸せでしょうか。

 如何に頭が良くても、それこそIQ(知能指数)が200以上でも、それだけで神を知ることはできません。当時、最高の学問を積んだパウロも、復活されたイエスと出会い、初めて、本当の意味で神を知る幸せを味わいました。

 ですから、Ⅰコリント1:20以降でパウロは言います。「知恵のある人はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。」

 26節以降も見ます。「兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち、無に等しい者を神は選ばれたのです。肉なる者が誰も神の御前(みまえ)で誇ることがないようにするためです。」

 私たちは、人間の最高の幸せである創り主なる真(まこと)の神を知ることを、今、許され、それどころか、永遠に神を知り続けることを許されています!神は余りに素晴らしい方ですので、神を知り尽くすのに永遠を要するのです。そのような素晴らしい真の神を、クリスチャンはもう既に知り始めているのです。

 しかし、決してこれは私たち自身の力によるのではありません。ただ御子イエスが私たちをお選び下さったからに他なりません。何という幸せでしょうか!

 この世の賢い人や偉い人ではなく、自分の罪と無力さをよく知っていて、イエスにすがりつき、神に自分を明け渡す真(しん)にへりくだった素直で従順な幼子のような信仰者!そういう人に、イエスはご自分がお持ちの最高のものを御言葉と御霊によって与え、最後まで導き、やがて永遠の天の御国で、ご自分の栄光を纏(まと)わせて下さるのです!

 この驚くべき特権をよく覚え、幼子のようにますます御言葉に従順で、主イエスから離れず、主に一切を委ね、明け渡す者に、皆でされていきたいと思います。

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