聖書の言葉 13:3 牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやりなさい。また、自分も肉体と持っているのですから、虐げられている人々を思いやりなさい。ヘブライ人への手紙 13章3節 メッセージ 続けて試練について学んでいます。今日は、試練に苦しむ人を如何にして支えるかという点で、大切なことを一つ学びたいと思います。 紀元1世紀も後半になりますと、キリスト教はローマ帝国の各地に広がっていましたが、それに伴い迫害も起っていました。この手紙は、そのような頃に書かれました。クリスチャンでいることが大変なため、ユダヤ教に戻るユダヤ人たち(ヘブル人たち)もいました。とにかく、この手紙は、大変な状況にいる人々に宛てて書かれました。そして13:3などは、更に困難な状況にある人たちを支えるべきことを教えています。著者は言います。3節「牢に繋がれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやりなさい。また、自分も肉体を持っているのですから、虐げられている人々を思いやりなさい。」 試練にも色々ありますが、どんな試練であろうと、苦しむ人を支える上で大事なことが、ここに一つ教えられています。それは苦しむ人を「思いやる」ことです。 「思いやる」というギリシア語のミムネースコマイは、英語のミミック mimic(真似をする)の語源になる言葉を元にしています。ですから、誰かのことを単に思うだけではなく、その人に自分の気持も体の状態も似る位、深く考え、グーッと気持を寄せることと言えます。 著者は3節「牢に繋がれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやりなさい」と言います。「自分も同じ牢獄の仲間であるかのように、牢で苦しんでいる人々のことをもっと深く思い巡らしなさい」と。 また3節「自分も肉体を持っているのですから、虐げられている人々を思いやりなさい」と、更に具体的に思いやることを教えます。「自分も肉体を持っているのですから」と言うところが、すごいと思います。虐待され拷問されているかも知れない人たちの肉体!どんなに辛くて痛いことでしょうか! 体があるのは素晴らしいことですが、それが暴力を受ける時、どんなに痛くて苦しく、辛いでしょうか。ただ呻き声か悲鳴しか出てきません。それを、自分の体で想像してみるのです。すると、試練の中に苦しむ人の辛さ、恐ろしさ、絶望的な思いが、身に迫って分ると思います。聖書の言う「思いやる」とは、ここまでのことを言っているのです。そして、こういうことが「共感」ということなのだと思います。 以上は、特に迫害という試練に苦しむ人たちを支える上でのことですが、他にも病気や体や心の障害、職場や社会で精神的に苦しむ方々、また災害の被災者の方々を支える上でも、まず私たちが自分に課すべき第一ステップと言えます。こうして、人の苦痛を少しでも自分の身に置き換え、よく理解した上で、次に「自分はどうして上げられるか」という具体的な支援の第二ステップに進めるのだと思います。 今申し上げました「思いやる」という第一ステップを飛ばし、すぐ自分の気持だけで第二ステップへ安易に軽々しく進むと、どうなるでしょうか。例えば、相手の大変さが想像を超えていたため、私たちは驚き、恐れをなし、何もして上げられずに終るかも知れません。自分も惨めですが、何より相手を失望させ、気の毒なことになりかねません。 ですから、第一ステップの「思いやる」ということをしっかり行うことで、無論、そうは言っても、私たちには限界がありますが、それでも、できる限り想像力を働かせ、体まで含めて人の辛さを深く考え思い巡らすことで、それだけ人を支えることがより可能になるのだと思います。ですから、今日教えられた聖書の言うこの「思いやる」というのは、とても大事なことなのです。 無論、第一ステップはするものの、事実とは違う想像を勝手にどんどんしたり、人の辛さを想像するだけで自分自身が辛くなって逃げ出すようであるなら、私たちは人を支えることはできません。正しく想像し、また弱さはありますが辛くても逃げない自分であってこそ、初めて責任ある支え方ができると言えるでしょう。 私は昔、病院で多くの患者さんの世話をさせて頂きましたが、ここの御言葉を調べていて、果たして私は彼らの精神的、肉体的辛さ、痛み、不安、人知れず流される涙、漏らされる呻き声、叫びなどを、どこまで「思いやる」ことができていただろうか、と大いに反省させられ、申し訳ない思いでいっぱいになりました。 今は病院とは違う所で、辛い方々のお世話をさせて頂くこともありますが、今日の御言葉を是非、皆様とご一緒に心に刻み、尊い奉仕を更にさせて頂ければと願っています。 主イエス・キリストがマタイ25:37以降で、飢えや渇き、裸や病気、牢で苦しむ人を具体的に助けた人たちに対し、特に40節「あなた方が、これらの私の兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、私にしたのです」と言われたことの意味は深いと思います。 関連する説教を探す 2024年の祈祷会 『ヘブライ人への手紙』
続けて試練について学んでいます。今日は、試練に苦しむ人を如何にして支えるかという点で、大切なことを一つ学びたいと思います。
紀元1世紀も後半になりますと、キリスト教はローマ帝国の各地に広がっていましたが、それに伴い迫害も起っていました。この手紙は、そのような頃に書かれました。クリスチャンでいることが大変なため、ユダヤ教に戻るユダヤ人たち(ヘブル人たち)もいました。とにかく、この手紙は、大変な状況にいる人々に宛てて書かれました。そして13:3などは、更に困難な状況にある人たちを支えるべきことを教えています。著者は言います。3節「牢に繋がれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやりなさい。また、自分も肉体を持っているのですから、虐げられている人々を思いやりなさい。」
試練にも色々ありますが、どんな試練であろうと、苦しむ人を支える上で大事なことが、ここに一つ教えられています。それは苦しむ人を「思いやる」ことです。
「思いやる」というギリシア語のミムネースコマイは、英語のミミック mimic(真似をする)の語源になる言葉を元にしています。ですから、誰かのことを単に思うだけではなく、その人に自分の気持も体の状態も似る位、深く考え、グーッと気持を寄せることと言えます。
著者は3節「牢に繋がれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやりなさい」と言います。「自分も同じ牢獄の仲間であるかのように、牢で苦しんでいる人々のことをもっと深く思い巡らしなさい」と。
また3節「自分も肉体を持っているのですから、虐げられている人々を思いやりなさい」と、更に具体的に思いやることを教えます。「自分も肉体を持っているのですから」と言うところが、すごいと思います。虐待され拷問されているかも知れない人たちの肉体!どんなに辛くて痛いことでしょうか!
体があるのは素晴らしいことですが、それが暴力を受ける時、どんなに痛くて苦しく、辛いでしょうか。ただ呻き声か悲鳴しか出てきません。それを、自分の体で想像してみるのです。すると、試練の中に苦しむ人の辛さ、恐ろしさ、絶望的な思いが、身に迫って分ると思います。聖書の言う「思いやる」とは、ここまでのことを言っているのです。そして、こういうことが「共感」ということなのだと思います。
以上は、特に迫害という試練に苦しむ人たちを支える上でのことですが、他にも病気や体や心の障害、職場や社会で精神的に苦しむ方々、また災害の被災者の方々を支える上でも、まず私たちが自分に課すべき第一ステップと言えます。こうして、人の苦痛を少しでも自分の身に置き換え、よく理解した上で、次に「自分はどうして上げられるか」という具体的な支援の第二ステップに進めるのだと思います。
今申し上げました「思いやる」という第一ステップを飛ばし、すぐ自分の気持だけで第二ステップへ安易に軽々しく進むと、どうなるでしょうか。例えば、相手の大変さが想像を超えていたため、私たちは驚き、恐れをなし、何もして上げられずに終るかも知れません。自分も惨めですが、何より相手を失望させ、気の毒なことになりかねません。
ですから、第一ステップの「思いやる」ということをしっかり行うことで、無論、そうは言っても、私たちには限界がありますが、それでも、できる限り想像力を働かせ、体まで含めて人の辛さを深く考え思い巡らすことで、それだけ人を支えることがより可能になるのだと思います。ですから、今日教えられた聖書の言うこの「思いやる」というのは、とても大事なことなのです。
無論、第一ステップはするものの、事実とは違う想像を勝手にどんどんしたり、人の辛さを想像するだけで自分自身が辛くなって逃げ出すようであるなら、私たちは人を支えることはできません。正しく想像し、また弱さはありますが辛くても逃げない自分であってこそ、初めて責任ある支え方ができると言えるでしょう。
私は昔、病院で多くの患者さんの世話をさせて頂きましたが、ここの御言葉を調べていて、果たして私は彼らの精神的、肉体的辛さ、痛み、不安、人知れず流される涙、漏らされる呻き声、叫びなどを、どこまで「思いやる」ことができていただろうか、と大いに反省させられ、申し訳ない思いでいっぱいになりました。
今は病院とは違う所で、辛い方々のお世話をさせて頂くこともありますが、今日の御言葉を是非、皆様とご一緒に心に刻み、尊い奉仕を更にさせて頂ければと願っています。
主イエス・キリストがマタイ25:37以降で、飢えや渇き、裸や病気、牢で苦しむ人を具体的に助けた人たちに対し、特に40節「あなた方が、これらの私の兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、私にしたのです」と言われたことの意味は深いと思います。