聖書の言葉 42:5 わが魂よ、何故(なぜ)、お前はうなだれているのか。私の内で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔(みかお)の救いを。詩編 42篇5節 メッセージ 試練について学んでいます。これまで、試練の原因、意義、試練への備えなどを学んできました。今日は、人生で起る試練という危機を如何に乗り越えるかを学びます。聖書には多くの教えが見られますが、今日はその中の一つを学びたいと思います。 詩篇42篇は、今から2千数百年前、古代イスラエルの一人の信仰者が、何かの重い病気にでもかかったのでしょうか、とにかく大変辛い思いをし、その上、彼に敵対する心ない人たちからも色々攻撃され、苦しんでいた中で歌った、魂の苦悩を表した歌です。 彼の苦悩の深さは、1、2節によく表れています。彼はこう歌っています。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ、私の魂はあなたを慕いあえぎます。私の魂は、神を、生ける神を求めて、渇いています。いつになれば、私は行って、神の御前(みまえ)に出られるのでしょうか。」 では、彼はこんな中で、ただ気落ちし、力なく肩を落し、何度も溜め息をつき、この世や周りの人、また自分の置かれた境遇などに恨みごとを言い、絶望しながら崩れるままだったのしょうか。そうではありませんでした!ここでこそ彼は、神から自分に与えられている信仰を発揮したのです。 彼は自分の気持をこう記しています。5節「わが魂よ、何故(なぜ)、お前はうなだれているのか。私の内で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔(みかお)の救いを。」 これとほぼ同じ言葉を、11節や、元は42篇と一つでした43:5にも記しています。彼はこのような意識で、少なくともある期間、過ごしたのでした。 彼の言葉から教えられることの一つは、彼が自分に向って呼びかけ、何故自分は信仰のない者のようにしているのかと自分に尋ね、自分と論じていることです。5節「わが魂よ、何故、お前はうなだれているのか、思いうなだれているのか。」 ここに私たちは非常に大切なことを教えられます。私たちの良くない所は、しばしばあまりにも自分の言いなりになることです。そして「私は不幸だ。損ばかりしている。何故こんな人生に私は生れたのか」と、ただ自分の不幸を嘆くことです。生れながらの私たち人間には、このようにすぐ自分を可哀想に思う自己憐憫(じこれんびん)の傾向があります。確かに、辛い時には、これは致し方ないことなのかも知れません。とはいえ、実際のところ、そこからどんな積極的な力や希望が生まれ、自分を支えることができるでしょうか。自分を殊更(ことさら)不幸に思う自己憐憫からは、周りの人や自分の人生への、それどころか、神への不満や愚痴、恨みごとは生れても、残念ながら、自分を本当の意味で支え、強める力は生れません。 私たちはむしろ、この詩篇作者のように、溜め息ばかりついてうなだれ、打ち沈み、あるいは呻いている自分に正面から向き合って、「何故うなだれるのか、私の魂よ。何故思い乱れているのか」と、信仰によって自分に問いかけ、信仰によって自分に尋ね、自分と論じることの大切さを教えられます。 もう一つ教えられることがあります。それは、続いて詩篇作者が「神を待ち望め」と、今度は自分で自分に神への信仰を教え、神への信頼、神への期待を促し、命じていることです。これも非常に大切なことだと思います。 「私の魂よ、何故うなだれているのか、私の内で思い乱れているのか」と自分に質問し、自分と論じた後、私たちも是非、「神を待ち望め」と、信仰によって自分自身に命じたいと思うのです。 クリスチャンは、人生の色々な場面で、御言葉(みことば)によってしっかり自分に命令するのであり、自分の言いなりになっていてはいけません。自分に御言葉を教え、命じ、自分で自分に説教をし、実際、神を仰ぎ、神を待ち望み、神に期待するのです。そのように、自分に神への信仰と信頼をはっきり促すのです。そうして、一切を神に委ね、その中で自分のできることはキチンと果たしていくことを教えられます。 この詩篇作者は、その後どうなったでしょうか。無論、試練を乗り越えたでしょう。これを書くことができたのですから。とはいえ、困難がすぐ去ったとか、なくなったとは書いていません。ということは、困難そのものはなお続いたけれど、彼自身が変えられたということなのでしょう。そうこうする内に、気が付くと、試練を乗り越えていたということなのだと思います。 神がこういう詩篇を聖書に残されたということは、この人と同じようにすることにより、神は私たちにも試練を乗り越えさせようとしておられるということです。私たちも是非、イエス・キリストへの信仰を堅く持ちつつ、詩篇作者に倣い、そうして天に召される時まで、この世で必ず遭遇する様々な試練を、是非、皆で乗り越えることを許されたいと思います。 関連する説教を探す 2024年の祈祷会 『詩編』
試練について学んでいます。これまで、試練の原因、意義、試練への備えなどを学んできました。今日は、人生で起る試練という危機を如何に乗り越えるかを学びます。聖書には多くの教えが見られますが、今日はその中の一つを学びたいと思います。
詩篇42篇は、今から2千数百年前、古代イスラエルの一人の信仰者が、何かの重い病気にでもかかったのでしょうか、とにかく大変辛い思いをし、その上、彼に敵対する心ない人たちからも色々攻撃され、苦しんでいた中で歌った、魂の苦悩を表した歌です。
彼の苦悩の深さは、1、2節によく表れています。彼はこう歌っています。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ、私の魂はあなたを慕いあえぎます。私の魂は、神を、生ける神を求めて、渇いています。いつになれば、私は行って、神の御前(みまえ)に出られるのでしょうか。」
では、彼はこんな中で、ただ気落ちし、力なく肩を落し、何度も溜め息をつき、この世や周りの人、また自分の置かれた境遇などに恨みごとを言い、絶望しながら崩れるままだったのしょうか。そうではありませんでした!ここでこそ彼は、神から自分に与えられている信仰を発揮したのです。
彼は自分の気持をこう記しています。5節「わが魂よ、何故(なぜ)、お前はうなだれているのか。私の内で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔(みかお)の救いを。」
これとほぼ同じ言葉を、11節や、元は42篇と一つでした43:5にも記しています。彼はこのような意識で、少なくともある期間、過ごしたのでした。
彼の言葉から教えられることの一つは、彼が自分に向って呼びかけ、何故自分は信仰のない者のようにしているのかと自分に尋ね、自分と論じていることです。5節「わが魂よ、何故、お前はうなだれているのか、思いうなだれているのか。」
ここに私たちは非常に大切なことを教えられます。私たちの良くない所は、しばしばあまりにも自分の言いなりになることです。そして「私は不幸だ。損ばかりしている。何故こんな人生に私は生れたのか」と、ただ自分の不幸を嘆くことです。生れながらの私たち人間には、このようにすぐ自分を可哀想に思う自己憐憫(じこれんびん)の傾向があります。確かに、辛い時には、これは致し方ないことなのかも知れません。とはいえ、実際のところ、そこからどんな積極的な力や希望が生まれ、自分を支えることができるでしょうか。自分を殊更(ことさら)不幸に思う自己憐憫からは、周りの人や自分の人生への、それどころか、神への不満や愚痴、恨みごとは生れても、残念ながら、自分を本当の意味で支え、強める力は生れません。
私たちはむしろ、この詩篇作者のように、溜め息ばかりついてうなだれ、打ち沈み、あるいは呻いている自分に正面から向き合って、「何故うなだれるのか、私の魂よ。何故思い乱れているのか」と、信仰によって自分に問いかけ、信仰によって自分に尋ね、自分と論じることの大切さを教えられます。
もう一つ教えられることがあります。それは、続いて詩篇作者が「神を待ち望め」と、今度は自分で自分に神への信仰を教え、神への信頼、神への期待を促し、命じていることです。これも非常に大切なことだと思います。
「私の魂よ、何故うなだれているのか、私の内で思い乱れているのか」と自分に質問し、自分と論じた後、私たちも是非、「神を待ち望め」と、信仰によって自分自身に命じたいと思うのです。
クリスチャンは、人生の色々な場面で、御言葉(みことば)によってしっかり自分に命令するのであり、自分の言いなりになっていてはいけません。自分に御言葉を教え、命じ、自分で自分に説教をし、実際、神を仰ぎ、神を待ち望み、神に期待するのです。そのように、自分に神への信仰と信頼をはっきり促すのです。そうして、一切を神に委ね、その中で自分のできることはキチンと果たしていくことを教えられます。
この詩篇作者は、その後どうなったでしょうか。無論、試練を乗り越えたでしょう。これを書くことができたのですから。とはいえ、困難がすぐ去ったとか、なくなったとは書いていません。ということは、困難そのものはなお続いたけれど、彼自身が変えられたということなのでしょう。そうこうする内に、気が付くと、試練を乗り越えていたということなのだと思います。
神がこういう詩篇を聖書に残されたということは、この人と同じようにすることにより、神は私たちにも試練を乗り越えさせようとしておられるということです。私たちも是非、イエス・キリストへの信仰を堅く持ちつつ、詩篇作者に倣い、そうして天に召される時まで、この世で必ず遭遇する様々な試練を、是非、皆で乗り越えることを許されたいと思います。