2024年06月23日「心の貧しい者は幸いです」
問い合わせ
心の貧しい者は幸いです
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 5章1節~10節
聖書の言葉
新改訳聖書 2017年度版
5:1 その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。
5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。
5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。
5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。
5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。
5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。
5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。マタイによる福音書 5章1節~10節
メッセージ
関連する説教を探す
お早うございます。今朝は、真(しん)に幸いな人とはどういう人かという大切なことを、聖書からお話させて頂きたいと思います。
幸いな人、幸せな人というと、普通はどういう人を思うでしょうか。健康で運動がよくできる。顔・スタイル・頭が良い。家族や友だちや仕事、また経済的に恵まれている。多くの人に人気がある。確かにそういう人は幸いでしょうね。
しかし、神の御言葉(みことば)・聖書ではどうでしょうか。聖書は、もっと内面的で本質的なことを尊びます。先程お読みしましたマタイ福音書5章をご覧下さい。天と地を造られた真(まこと)の神が、全世界の救い主として約2千年前、世に遣わされた神の御子イエスは、3~10節で「~~の者は幸いです」と8回繰り返されます。実はこれらは、真(まこと)の信仰者の幸いな特徴を8つ教えています。その最初が今朝学びます3節「心の貧しい者は幸い」だということです。
ここで「幸い」と訳されている元のギリシア語は、何が起っても壊れない確かな幸せを意味します。幸せというと、英語のハッピー(happy)がすぐ思い浮かぶと思いますが、これは偶然という意味のハップ(hap)から来ていて、たまたま転がり込んだ幸いのことです。イヤなことがあるとすぐ壊れます。
しかし、イエスの言われる「幸い」は神から来る幸せです。人生の予期しない出来事にも影響されず、死さえも奪えない幸せです。で、その最初が「心の貧しい」ことです。従ってこれは、あとに続く全ての幸いの土台であり、最も大切なものです。
では、これはどんな意味でしょうか。無論、心が貧弱なことではありません。3節で「心」と訳されているギリシア語は、8節の「心」とは違い、「霊」という意味の言葉です。つまり、神との関係における心の中心部分を指します。
また、ここの「貧しい」は、全く何もなく、自分だけでは生きられず、他者に頼る他ない状態を指します。要するに、「心が貧しい」とは、自分の無力さや神の前での罪深さをよく自覚し、神の憐れみ以外に究極の希望のないことが分っている、そういう神の前での徹底したへりくだり、謙遜さを指します。これこそ、永遠者・絶対者なる真(まこと)の神の前で真先に上げられる幸いな人の特徴であり、これのない人は、他に色々優れた点があっても、一番大事なものが欠落した人だと言えるでしょう。
これは世間で言う幸いとは随分違います。それは次の4節を見るとよく分ります。4節「悲しむ者は幸い」とあります。これは自分の欠けや愚かさ、また不信仰を思って、悲しむことなのですが、普通、こういうことはどう思われているでしょうか。「そんなことでは駄目だ。もっと自信を持つのだ。幸せを得たいなら、自分の力を信じ、幸せで明るい自分を周りに示すのだ。すると人は我々を認め、我々は幸せになる。」こういう処世訓が多く、これでいっ時は成功している人もあるでしょう。
しかし、よく考えたいと思います。その幸せは本物でしょうか。つまり、魂の底からの、またどんな出来事が襲っても、それこそ死さえも奪い取ることのできない確かな幸せでしょうか。この世での成功や幸せも、無論、感謝なことです。でも、本当にそれだけで良いのでしょうか。
そもそも神は、自信たっぷりですぐ自分を誇る高慢な人を嫌われます。世間ではそれで押し通せても、神の前では退けられます。ヤコブ4:6は「神は高ぶる者には敵対し」と言います。また神の前に高慢な人は、どうしても人に対しても高慢な態度を取り、すぐ偉ぶり、人を見下します。これは神の最も嫌われるものです。
一方、自分の罪深さや無力さや足りなさを神の前によく自覚し、自分を低くする心の貧しい人を、神は喜んで受け入れられます。
自分を低くするとは、自分の力を知りつつも、「能ある鷹は爪を隠す」の諺(ことわざ)のように、人に見せびらかさない、というのではありません。神の前では、謙遜ぶることなど、何の意味もありません。
そうではなく、例えば、自分のずるさや意地悪な心、人から注意されても自分を変えようとしない頑なで傲慢な心、利己主義など罪深い点と、正直に真剣に向き合うのです。そして何より、私たちが今までも、また今も抱えている恥ずかしい情けない点も、何もかもご存じの神、醜い事や罪深いこと、汚れたことをお嫌いになる真(まこと)の神のその眼差しを覚え、神の御前(みまえ)に本当に平れ伏すことです。
聖書全体を見ますと、神に愛され、人間の救いのために豊かに用いられた幸いな信仰者たちは皆、心貧しかったことが分ります。古代イスラエル民族を強大なエジプトから導き出したユダヤ人のモーセは、エジプト王ファラオの娘に育てられ、エジプトで最高教育を受けたエリートでした。しかし、神が彼をその務めに召された時、「ああ、わが主よ、どうか他の人を遣わして下さい」(出エジプト4:13)と願うとてもへりくだった人でした。
預言者イザヤは、神の幻を見た時、「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者」と言いました(イザヤ6:5)。
預言者エレミヤも、神から預言者の務めに召された時、「ああ、神、主よ、ご覧下さい。私はまだ若くて、どう語ってよいか分りません」(エレミヤ1:6)と答えました。
イエスの弟子ペテロは、元は積極的で自信に満ちた人でした。しかし、イエスの力を本当に知った時、平れ伏してこう言いました。ルカ5:8「主よ、私から離れて下さい。私は罪深い人間ですから。」
パウロは元々、家柄、教養、宗教的・道徳的素養の点でエリート中のエリートでした。しかし、イエスに出会った後、全くへりくだった人に変りました。大切な伝道者の務めを続ける上で、「このような務めに相応しい人は、一体誰か」と自分に問い(Ⅱコリント2:16)、牧師として最も充実していた時でさえ、自分の内にある罪に触れてこう叫びました。ローマ7:15、24「私には、自分のしていることが分りません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。…私は本当に惨めな人間です。誰がこの死の体から、私を救い出してくれるのでしょうか。」晩年に書いた手紙、Ⅰテモテ1:15では、「私はその罪人の頭(かしら)です」とパウロは言いました。これが聖書の伝える真(しん)に幸いな人なのです。
ですから、心が貧しい人とは、生れつき気弱な人のことではありません。何にでも引っ込み思案で、人の後ろに隠れようとするタイプの人でもありません。ですが、たとい自分の生れや学歴、経歴、力が優れていても、それを自分に与えて下さった神に何よりも感謝し、また自分を支えてくれる多くの人にも常に感謝している人です。
私たちは真に自分を見つめれば、自分の足りなさがよく分ると思うのです。例えば、人を愛することの尊さは分っています。しかし、私たちは何と自己中心でしょうか。自分を僕(しもべ)のように低くして人に仕え、人の優れた点を認めることでも何とのろく、困難でしょうか。それ程、私たちは生れながらに罪深いのです。パウロは「私は本当に惨めな人間」だと言いました。
しかし、こういう人こそ真(しん)に幸いだと、イエスは言われます。もはや自分自身に頼らず、自分の全人生と永遠の行先についても、ただ神の憐れみに依り頼みます。そして今もただイエス・キリストに希望を置き、一切を委ね、イエスに倣って常に謙遜に生き、自分をも大切にしますが、特に神と人のために喜んで生きようとするからです。
神の御子イエスは、自己中心な私たちの罪を全部背負い、十字架で命を献げ、復活されました。ですから、イエス・キリストを信じる者は、全ての罪を赦され、永遠に神の子供とされます。何という幸いでしょうか。
いいえ、それだけではありません。心の貧しい人は、自分がへりくだっていますから、どうしても人に優しく、寛容で親切です。従って、自ずと人に愛されやすいです。また、自分がへりくだっていますから、人から大切なことを色々学び、人格的に豊かにされます。
また、困難に遭っても潰れません。神が共におられるからです。神は言われます。イザヤ57:15「私は…砕かれた人、へりくだった人と共に住む。へりくだった人たちの霊を生かし…」と。どんな試練が襲っても、神が必ずお支えになります。
高慢な人は、人に学びません。ですから、自分の人間性を自ずと低め、貧弱にします。何と不幸なことでしょうか。一方、へりくだる者を神は愛し、聖書の御言葉によって訓練し養い、その魂を御子イエスに似るものへときよめ、最後には必ず天国を下さいます!天国に、心の貧しくない人は一人もいません。
心の貧しい人には、この世でも幸いが始まり、世を去る時、その幸いはクライマックスに達します!3節「天の御国はその人たちのもの」だからです。
この大切な福音を、既にクリスチャンである者もまだそうでない者も、心に刻み、絶えず自分を振り返ると共に、愛をもって聖書によりいつも私たちに語り掛け、これ以上ない永遠の幸いに与らせようとしておられる主イエスの招きに、是非、ご一緒に応じたいと思います。