聖書の言葉 119:71 苦しみに遭ったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたの掟を学びました。詩編 119篇71節 メッセージ 前回から、試練について、聖書から学んでいます。前回は試練の根本原因と理由を学びました。試練は造り主なる神に背く人間の不従順の罪の結果であり、同時に、罪のために悲惨の中にいる私たちに対する神の愛による訓練という面のあることも見ました。 今日は試練の意義を学びます。試練をより適切に理解し、乗り越えられるためです。三つほど見ます。 第一に試練には、私たちに人の苦しみや痛み、悲しみや涙を理解させ、それを少しでも担って上げることの出来る者へと私たちを造り変える面があります。 生れながらに丈夫そのもので、殆ど病気をしたことのない人に、病気で絶えず苦しんでいる人の辛さは。どうしても分りにくいでしょう。順調な人生を歩んできた人に、度重なる不幸や人からのいやがらせ、また自分の失敗などに何度も挫折し傷ついている人の気持はどうしても分りにくく、傲慢になりやすいでしょうね。 確かに辛い思いをすることで、私たちは目を開かれ、思いやりが養われ、人を慰め、傷ついた心を癒して上げられる者へと変えられやすいと思います。大阪のあいりん地区・釜ヶ崎でボランティア・ソーシャルワーカーとして長年働いて来られた入佐明美さんは、「痛みを乗り越えて生きてきた人の優しさは、他者の心を癒すということを教えられました」と著書で書いておられます。 自らも苦難に何度も遭い、その中で神からの深い慰めを体験した使徒パウロは、Ⅱコリント1:4でこう語ります。「神はどのような苦しみの時にも、私たちを慰めて下さいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることが出来ます。」 試練は、私たちに他者の苦しみや悲しみを理解させ、またそれらを多少とも担える、思いやりのある者へと私たちを造り変えます。 第二の意義は、創り主なる神とその御心を私たちに一層分らせることです。 一般的に私たちは、余程のことでもなければ、神のことを真剣に考えません。そして、それは人生に対しても、またいつか私たちに臨む死に対しても、同様な態度を取らせ、真剣に考えさせません。何と不幸なことでしょう。逆に、試練はその大事なことに気付かせます。 イギリスの作家C.S.ルイスは言いました。「神は楽しみにおいて我々に囁き(ささやき)かけ、良心において語りかけられる。しかし、苦痛においては我々に向かって激しく呼び掛けられる。苦痛は耳の聞こえない世界を呼び覚まそうとする神のメガフォンである。」 先程の詩篇119:71をもう一度読みます。これは、信仰者の神への真摯(しんし)な祈りであり告白です。「苦しみに遭ったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたの掟を学びました。」要するに、試練は、私たちに神とその大切な御旨を深く悟らせるということです。確かにそうだと思います。 試練の意義の三つ目は、私たちの傲慢で頑なな自我を打ち砕き、へりくだった者にし、麗しい神のご性質に似るものへと私たちの人格を練り清めることです。 神から見るなら、私たちは何と利己的で心頑なな罪深い者でしょう。しかし、神は私たちがこのまま永遠の死に至ることを決して望んではおられません。その逆です。だからこそ、私たちが救われ、やがて永遠の祝福に入れるように、神は御子を遣わされました。罪も汚れもない御子イエスは、ご自分の死だけが、私たち罪人を罪と永遠の地獄から救えることをご存じですので、自ら進んで十字架について下さったのでした。ですから、イエスを信じる者は誰でも全く罪赦され、永遠の命に与ります。 と同時に神は、この世で私たちがきよめられ、完成されることを強く望んでおられます。 人間の内には、生れながらに原罪(げんざい)が、すなわち、汚れた罪の性質があります。自分は欠けだらけで不信仰なのに、他人には色々要求し、人を偉そうにすぐ批判し裁く傲慢さ、意地悪な心、妬みなど、切りがありません。 これらは全部、神の前に不要なものです。私たちがやがて地上の旅路を終え、永遠の御国に入れられる上で、邪魔なものばかりです。 そこで神は、熱した炉で不純物を取り去り、貴金属を精錬するように、試練により私たちから不要なものを取り除き、御国に入るに相応しいきよい性質に変え、純度の高い信仰へと練り清めようとされるのです。Ⅰペテロ1:7は言います。「試練で試されたあなた方の信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れる時、称賛と栄光と誉れをもたらします。」箴言17:3は言います。「銀にはるつぼ、金には炉、人の心を試すのは主。」 試練の時こそ、御心がなるようにと祈り、自らを神に明け渡したいと思います。 関連する説教を探す 2024年の祈祷会 『詩編』
前回から、試練について、聖書から学んでいます。前回は試練の根本原因と理由を学びました。試練は造り主なる神に背く人間の不従順の罪の結果であり、同時に、罪のために悲惨の中にいる私たちに対する神の愛による訓練という面のあることも見ました。
今日は試練の意義を学びます。試練をより適切に理解し、乗り越えられるためです。三つほど見ます。
第一に試練には、私たちに人の苦しみや痛み、悲しみや涙を理解させ、それを少しでも担って上げることの出来る者へと私たちを造り変える面があります。
生れながらに丈夫そのもので、殆ど病気をしたことのない人に、病気で絶えず苦しんでいる人の辛さは。どうしても分りにくいでしょう。順調な人生を歩んできた人に、度重なる不幸や人からのいやがらせ、また自分の失敗などに何度も挫折し傷ついている人の気持はどうしても分りにくく、傲慢になりやすいでしょうね。
確かに辛い思いをすることで、私たちは目を開かれ、思いやりが養われ、人を慰め、傷ついた心を癒して上げられる者へと変えられやすいと思います。大阪のあいりん地区・釜ヶ崎でボランティア・ソーシャルワーカーとして長年働いて来られた入佐明美さんは、「痛みを乗り越えて生きてきた人の優しさは、他者の心を癒すということを教えられました」と著書で書いておられます。
自らも苦難に何度も遭い、その中で神からの深い慰めを体験した使徒パウロは、Ⅱコリント1:4でこう語ります。「神はどのような苦しみの時にも、私たちを慰めて下さいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることが出来ます。」
試練は、私たちに他者の苦しみや悲しみを理解させ、またそれらを多少とも担える、思いやりのある者へと私たちを造り変えます。
第二の意義は、創り主なる神とその御心を私たちに一層分らせることです。
一般的に私たちは、余程のことでもなければ、神のことを真剣に考えません。そして、それは人生に対しても、またいつか私たちに臨む死に対しても、同様な態度を取らせ、真剣に考えさせません。何と不幸なことでしょう。逆に、試練はその大事なことに気付かせます。
イギリスの作家C.S.ルイスは言いました。「神は楽しみにおいて我々に囁き(ささやき)かけ、良心において語りかけられる。しかし、苦痛においては我々に向かって激しく呼び掛けられる。苦痛は耳の聞こえない世界を呼び覚まそうとする神のメガフォンである。」
先程の詩篇119:71をもう一度読みます。これは、信仰者の神への真摯(しんし)な祈りであり告白です。「苦しみに遭ったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたの掟を学びました。」要するに、試練は、私たちに神とその大切な御旨を深く悟らせるということです。確かにそうだと思います。
試練の意義の三つ目は、私たちの傲慢で頑なな自我を打ち砕き、へりくだった者にし、麗しい神のご性質に似るものへと私たちの人格を練り清めることです。
神から見るなら、私たちは何と利己的で心頑なな罪深い者でしょう。しかし、神は私たちがこのまま永遠の死に至ることを決して望んではおられません。その逆です。だからこそ、私たちが救われ、やがて永遠の祝福に入れるように、神は御子を遣わされました。罪も汚れもない御子イエスは、ご自分の死だけが、私たち罪人を罪と永遠の地獄から救えることをご存じですので、自ら進んで十字架について下さったのでした。ですから、イエスを信じる者は誰でも全く罪赦され、永遠の命に与ります。
と同時に神は、この世で私たちがきよめられ、完成されることを強く望んでおられます。
人間の内には、生れながらに原罪(げんざい)が、すなわち、汚れた罪の性質があります。自分は欠けだらけで不信仰なのに、他人には色々要求し、人を偉そうにすぐ批判し裁く傲慢さ、意地悪な心、妬みなど、切りがありません。
これらは全部、神の前に不要なものです。私たちがやがて地上の旅路を終え、永遠の御国に入れられる上で、邪魔なものばかりです。
そこで神は、熱した炉で不純物を取り去り、貴金属を精錬するように、試練により私たちから不要なものを取り除き、御国に入るに相応しいきよい性質に変え、純度の高い信仰へと練り清めようとされるのです。Ⅰペテロ1:7は言います。「試練で試されたあなた方の信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れる時、称賛と栄光と誉れをもたらします。」箴言17:3は言います。「銀にはるつぼ、金には炉、人の心を試すのは主。」
試練の時こそ、御心がなるようにと祈り、自らを神に明け渡したいと思います。