2024年06月09日「天国を奪い取れ」
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天国を奪い取れ
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- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 11章7節~19節
聖書の言葉
11: 7 この人たちが行ってしまうと、イエスはヨハネについて群衆に話し始められた。「あなた方は、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。
11: 8 そうでなければ、何を見に行ったのですか。柔らかな衣をまとった人ですか。ご覧なさい。柔らかな衣を着た人なら王の宮殿にいます。
11: 9 そうでなければ、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そうです。私はあなた方に言います。預言者よりも優れた者を見に行ったのです。
11:10 この人こそ、『見よ、私は私の使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前にあなたの道を備える』と書かれているその人です。
11:11 まことに、あなた方に言います。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした。しかし、天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。
11:12 バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。
11:13 全ての預言者たちと律法が預言したのは、ヨハネの時まででした。
11:14 あなた方に受け入れる思いがあるなら、この人こそ来るべきエリヤなのです。
11:15 耳のある者は聞きなさい。
11:16 この時代は何にたとえたらよいでしょうか。広場に座って、他の子供たちにこう呼びかけている子供たちのようです。
11:17 『笛を吹いてあげたのに、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってあげたのに、胸を叩いて悲しまなかった。』
11:18 ヨハネが来て、食べもせず飲みもしないでいると、『この人は悪霊につかれている』と人々は言い、
11:19 人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『見ろ、大食いの大酒飲み、徴税人や罪人の仲間だ』と言います。しかし、知恵が正しいことはその行いが証明します。」マタイによる福音書 11章7節~19節
メッセージ
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少し振り返ります。イエスが使徒たちを伝道に遣わされますと、バプテスマ(洗礼者)のヨハネは弟子たちを送って3節のようにイエスに質問させました。彼は、イエスを神からの救い主キリストだと信じていましたが、人々の罪と不信仰に対し、イエスが一向に裁きをされないので、始めるように促したのでした。
しかしイエスは、5節でご自分の憐れみの業(わざ)を伝え、6節「私に躓かない人は幸い」だと言われました。
群衆はこれを聞き、洗礼者ヨハネに疑問を抱いたかも知れません。そこでイエスは7節以降、三つのことを語られます。見ていきたいと思います。
第一にイエスは、洗礼者ヨハネの偉大さを皆の前で確認されます。7~9節「この人たち(ヨハネの弟子たち)が行ってしまうと、イエスはヨハネについて群衆に話し始められた。『あなた方は、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。そうでなければ、何を見に行ったのですか。柔らかな衣をまとった人ですか。ご覧なさい。柔らかな衣を着た人なら王の宮殿にいます。そうでなければ、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そうです。私はあなた方に言います。預言者よりも優れた者を見に行ったのです。』」
イエスは言われます。「あなた方は何を見にユダの荒野へ行ったのでしょう。風に揺れる葦ですか。王宮の人々ですか。違いますよね。偉大な預言者ヨハネでした。」そして10節「この人こそ、『見よ、私は私の使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前にあなたの道を備える』と、旧約聖書のマラキ3:1で神が仰っていたその人です」と言われました。
ヨハネは、救い主イエスを人々に指し示し、彼自身、旧約聖書が預言していた偉大な預言者でした。また人々を悔い改めさせ、イエスをキリスト(救い主)だと信じることができるように備えさせた点でも、最高の預言者でした。その意味で、イエスは11節「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れ」なかったと言われたのです。実際、ヨハネはそういう人物だったのでした。
第二点に進みます。偉大な預言者ヨハネと救い主イエスが現れたということは、新しい恵みの時が来たことを意味するのだと、イエスはお教えになります。
イエスは言われます。11節後半「しかし、天の御国で一番小さな者でさえ、彼より偉大です。」「天の御国」とは、キリストの到来により始った神の新しい恵みの支配を意味します。
では、神の新しい恵みの支配の中では、一番小さな者でさえ、洗礼者ヨハネより偉大だとは、どういう意味でしょうか。
ヨハネは、イエスが救い主であられることを人々に伝えましたが、まもなく殉教します。従って、全世界の罪を償うイエスの十字架の死と復活と昇天、また聖霊を弟子達に送られたあのペンテコステの出来事も知りません。臆病だったイエスの弟子たちが聖霊に満たされ、何とユダヤ最高法院で「この方以外には、誰によっても救いはありません。天の下でこの御名の他に、私達が救われるべき名は人間に与えられていない」(使徒4:12)と、堂々とイエス・キリストを語れる者に変えられたことも知りません。真(まこと)の神を知らず、「先祖伝来の空しい生き方」(Ⅰペテロ1:18)をしていた異邦人が、イエス・キリストにより神に喜ばれる真に意味のある人生に変えられていったことも、ヨハネは知りません。
一方、11節「天の御国で一番小さな者」、つまり、ごく普通のクリスチャンでも、ヨハネの知らなかったイエスの十字架と復活を中心とする神の絶大な救いの御業(みわざ)と恵みを知り、神の子供とされ、素晴らしい特権に与っています。その意味で、イエスは11節「天の御国で一番小さな者でさえ、彼より偉大」だと言われるのです。
また、続けてイエスは12節「バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取って」いる、と言われます。
「天の御国は激しく攻められて」いるは、「天の御国は激しく攻めている」とも訳せます。イエス・キリストと弟子たちの働きにより、神の恵みの方が罪の世に迫っているということです。また「激しく攻める者たちがそれを奪い取って」いる、つまり、新しく始った神の豊かな救いの恵みと永遠の命に与ろうとして、人々が激しく熱心に求める時代に入ったということです。
ヨハネとイエス・キリストにより、しかし特にイエスの十字架の死と復活により罪の贖い(あがない)が完成し、旧約時代とは違って、神の愛と赦しと聖霊による神の恵みの支配が全世界に広がろうとしている。こういう新しい時代に入ったのだ、とイエスはお教えになるのです。
そして、これを再確認する意味で、イエスは言われます。13~15節「全ての預言者たちと律法が預言したのは、ヨハネの時まででした。あなた方に受け入れる思いがあるなら、この人こそ来るべきエリヤなのです。耳のある者は聞きなさい。」
エリヤは旧約時代の偉大な預言者です。神は旧約聖書の最後のマラキ書4:5、6で「見よ。私は、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなた方に遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、私が来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである」と預言されました。要するに、罪人を悔い改めさせるエリヤのような預言者をやがて遣わすということです。
つまり、イエスはこう言われるのです。「もう分ったでしょう。このように預言されていたヨハネ、そしてメシヤ・キリストである私により、天の御国は、もう始まったのです。ですから、天の御国に与れるように熱心に真剣に努めなさい」と。ルカ13:24でもイエスは言われます。「狭い門から入るように努めなさい。あなた方に言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです。」
では、こういうヨハネと主イエス・キリストを知った人々の反応はどうだったでしょうか。いいえ、他人事(ひとごと)ではなく、私たちこそ、どうあるべきでしょうか。最後、三つ目にそれを見て終ります。
イエスは言われます。マタイ11:16、17「この時代は何にたとえたらよいでしょうか。広場に座って、他の子供たちにこう呼びかけている子供たちのようです。『笛を吹いてあげたのに、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってあげたのに、胸を叩いて悲しまなかった。』」
子供は、自分の願い通りに相手がしてくれないと、すぐ機嫌を損ね、駄々をこねます。自分が結婚式ごっこをしたくて、17節「笛を吹いてあげたのに、君たちは踊らなかった。」葬式ごっこをしたかったのに、「悲しまなかった」と文句を言います。相手のことより自分が中心で、わがままなのです。
無論、イエスは子供の良い面もよくご存じです(マルコ10:14~16参照)。しかしここでは、子供の未熟な自己中心性を取り上げ、それと同じような身勝手さが人々にあることを指摘し、こう言われます。18、19節「ヨハネが来て、食べもせず飲みもしないでいると、『この人は悪霊につかれている』と人々は言い、人の子(神の御子イエスご自身のこと)が来て食べたり飲んだりしていると、『見ろ、大食いの大酒飲み、徴税人や罪人の仲間だ』と言う」と。
主イエス・キリストと父なる神に対する子供のように身勝手な態度は、昔のユダヤだけでなく、いつの時代のどの国の人にも見られます。例えば、大らかで何でも許されるといった勝手なイメージをキリスト教に抱き、ところが教会で、神が無秩序な神ではなく、隠れたことも裁かれることを聖書から教えられると、「厳し過ぎる」と文句を言う。逆に、とても清くて厳粛なキリスト教をイメージし、しかし教会で、聖書により、互いに赦し合い、皆で食事や交わりを大らかに楽しむことを教えられたり見たりすると、「俗っぽい。レベルが低い」と批判する。
これはホンの一例ですが、人はしばしば自分を規準にしてキリスト教信仰を解釈し、近づいたり離れたりします。しかし、イエスは言われます。19節「知恵が正しいことはその行いが証明します。」
つまり、洗礼者ヨハネの説く罪の真剣な悔い改め、イエス・キリストの十字架の贖いと罪の赦しへの感謝と愛の奉仕に喜んで生きるなど、神の御心に従うという知恵の正しさは、それに生きる人にはよく分る。ますます神の素晴らしさが分り、神を愛し、皆で神の愛と恵みを分ち合いたいと心底思いますし、生活が、表情が、顔が、価値観が変わっていきます。
逆に、そう生きない自己中心な人は、いつまで経っても、子供のように、すぐ感情に振り回され、ふてくされ、魂の底からの満足も天国に繋がる清い喜びも、幸福感も、感謝も、感動も知りません。分かりません。何と不幸でしょう。
ですから、私たちは、神の救いの恵みの支配が洗礼者ヨハネと救い主イエスによって始まり、それから二千年以上経ち、今や世の終りが近づいていることもしっかり覚え、何としても天国を奪い取る、すなわち、罪と不信仰を心底悔い改め、イエスの十字架による罪の赦しと永遠の命を、繰返し真剣に熱心に求めたいと思います。また愛の奉仕に努め、神の恵みと喜びをもっと多くの人々と分かち合えるように、自分自身を捧げたいと思います。もっと多くの人々に天国を奪い取ってもらうためです。