聖書の言葉 12:6 主はその愛する者を訓練し、受け入れる全ての子に、鞭(むち)を加えられるのだから。ヘブライ人への手紙 12章6節 メッセージ 今日から暫く試練について聖書から学びます。 試練にも色々あります。大切な人との別れや死別。事故や災害や病気。恋愛・結婚・仕事の失敗。誤解や理不尽な酷い扱いを受ける。無視、中傷、意地悪に遭うなど様々です。試練を味わったことのない人は、一人もいません。 では、何故、私たちには試練があるのでしょうか。試練に理由や意味はあるのでしょうか。あるなら、何なのか。こういうことを多少とも心に留めておきますと、試練に対する姿勢や回復にも違いが生れます。 今日は、試練の根本原因と理由について聖書に少し学びたいと思います。何故、私たちにはこの世で試練があるのか。 聖書によりますと、第一に、試練の根本原因は、この世全体が罪の下にあることです。人間が己の欲のままに生きようとして創り主なる神に背を向け、神との関係が壊れてしまったため、この世全体が罪と悲惨の中に落ち、神の祝福の代りに、人類は呪いと不幸を自分に招いてしまったということです。 創世記3:17~19は、神に背いた人間に神が語られた重い言葉をこう伝えます。「…大地は、あなたの故に呪われる。あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる。お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる。野の草を食べようとするお前に。大地は、あなたに対して茨とあざみを生えさせ、あなたは野の草を食べる。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたは土の塵だから、土の塵に帰るのだ。」 要するに、私たちを襲う色々な不幸や悲しみ、苦痛、空しさなどの試練の根本原因が、造り主なる神に対する人間の不従順と背反の罪にあることを聖書は指摘します。 誤解のないように申し上げますが、これは、誰かが特別罪深いから、その人に苦難が臨むということではありません。人類全体が神から離れ、神との正常な関係が壊れているため、様々な問題が誰にも襲うということです。このことを思いますと、私たちは皆、神の前にへりくだらないではおれないと思います。 しかし、聖書はもう一つ大切な点も私たちに教えます。周囲からの迫害や苦しみの中にいました紀元1世紀のクリスチャンたちにヘブル12:6は言います。「主はその愛する者を訓練し、受け入れる全ての子に、鞭(むち)を加えられる…。」つまり、試練は決して偶然の悪戯(いたずら)でも運命の弄び(もてあそび)でもなく、一切を支配される神の摂理の中で私たちに臨む、神の愛故の訓練なのだ、と聖書は教えます。 だからといって、試練が辛いものでなくなるのではありません。聖書は11節で「全ての訓練は、その時は喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われる」と言います。ですから、試練を甘く考えることは決して出来ません。旧約聖書の詩篇には、「神様、何故ですか。いつまでですか」という信仰者の悲痛な叫びが、どんなに多く記されていることでしょう。 しかし聖書は、全てのことが、私たちを造り、一切を摂理しておられる神の支配下にあり、無意味なものは一つもないと教えます。ローマ8:28は「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、全てのことが共に働いて益となる」と言います。特に、神を愛する者には、必ず最終的には全てのことが共に働いて益となるように神が摂理しておられることを教え、励まします。 前にもお話しましたが、私も今まで何度か辛い試練に見舞われました。特に30数年前のものが辛かったでした。何をしていても問題の事柄が頭から離れず、常に心の底に重苦しさがあり、先のことを考えると、一体どうなっていくのだろうと、不安に心が萎えていきそうになりました。 しかし、御言葉を思い出し、「そうだ。今こそ僕(ぼく)が神を本当に愛しているかどうかを問われているのだ」と気付き、今まで以上に神に対し真実な思いで過ごしました。また、辛いから何もしないというのではなく、自分のなすべき務めに打ち込みました。すると、いつのまにか試練を乗り越えさせられていました。 今後も私たちに試練はあるでしょう。しかし、「神は真実な方です。あなた方を耐えられない試練に遭わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練と共に脱出の道を備えていて下さいます」(Ⅰコリント10:13)という約束を堅く信じたいと思います。 人間の罪のために歪んだ(ひずんだ)世に生れた私たちです。しかし試練をへりくだって受け止め、これを神からの意味ある訓練として信仰により受け止めるか否かで、私たちの生き方に大きな違いが生れます。私たちの弱さもよくお分り下さる主イエス・キリストを見上げ、主の憐みを祈り求め、同時に私たちも皆の苦痛にこそ思いを傾け、是非、支え励まし合って歩んで行きたいと思います。 関連する説教を探す 2024年の祈祷会 『ヘブライ人への手紙』
今日から暫く試練について聖書から学びます。
試練にも色々あります。大切な人との別れや死別。事故や災害や病気。恋愛・結婚・仕事の失敗。誤解や理不尽な酷い扱いを受ける。無視、中傷、意地悪に遭うなど様々です。試練を味わったことのない人は、一人もいません。
では、何故、私たちには試練があるのでしょうか。試練に理由や意味はあるのでしょうか。あるなら、何なのか。こういうことを多少とも心に留めておきますと、試練に対する姿勢や回復にも違いが生れます。
今日は、試練の根本原因と理由について聖書に少し学びたいと思います。何故、私たちにはこの世で試練があるのか。
聖書によりますと、第一に、試練の根本原因は、この世全体が罪の下にあることです。人間が己の欲のままに生きようとして創り主なる神に背を向け、神との関係が壊れてしまったため、この世全体が罪と悲惨の中に落ち、神の祝福の代りに、人類は呪いと不幸を自分に招いてしまったということです。
創世記3:17~19は、神に背いた人間に神が語られた重い言葉をこう伝えます。「…大地は、あなたの故に呪われる。あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる。お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる。野の草を食べようとするお前に。大地は、あなたに対して茨とあざみを生えさせ、あなたは野の草を食べる。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたは土の塵だから、土の塵に帰るのだ。」
要するに、私たちを襲う色々な不幸や悲しみ、苦痛、空しさなどの試練の根本原因が、造り主なる神に対する人間の不従順と背反の罪にあることを聖書は指摘します。
誤解のないように申し上げますが、これは、誰かが特別罪深いから、その人に苦難が臨むということではありません。人類全体が神から離れ、神との正常な関係が壊れているため、様々な問題が誰にも襲うということです。このことを思いますと、私たちは皆、神の前にへりくだらないではおれないと思います。
しかし、聖書はもう一つ大切な点も私たちに教えます。周囲からの迫害や苦しみの中にいました紀元1世紀のクリスチャンたちにヘブル12:6は言います。「主はその愛する者を訓練し、受け入れる全ての子に、鞭(むち)を加えられる…。」つまり、試練は決して偶然の悪戯(いたずら)でも運命の弄び(もてあそび)でもなく、一切を支配される神の摂理の中で私たちに臨む、神の愛故の訓練なのだ、と聖書は教えます。
だからといって、試練が辛いものでなくなるのではありません。聖書は11節で「全ての訓練は、その時は喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われる」と言います。ですから、試練を甘く考えることは決して出来ません。旧約聖書の詩篇には、「神様、何故ですか。いつまでですか」という信仰者の悲痛な叫びが、どんなに多く記されていることでしょう。
しかし聖書は、全てのことが、私たちを造り、一切を摂理しておられる神の支配下にあり、無意味なものは一つもないと教えます。ローマ8:28は「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、全てのことが共に働いて益となる」と言います。特に、神を愛する者には、必ず最終的には全てのことが共に働いて益となるように神が摂理しておられることを教え、励まします。
前にもお話しましたが、私も今まで何度か辛い試練に見舞われました。特に30数年前のものが辛かったでした。何をしていても問題の事柄が頭から離れず、常に心の底に重苦しさがあり、先のことを考えると、一体どうなっていくのだろうと、不安に心が萎えていきそうになりました。
しかし、御言葉を思い出し、「そうだ。今こそ僕(ぼく)が神を本当に愛しているかどうかを問われているのだ」と気付き、今まで以上に神に対し真実な思いで過ごしました。また、辛いから何もしないというのではなく、自分のなすべき務めに打ち込みました。すると、いつのまにか試練を乗り越えさせられていました。
今後も私たちに試練はあるでしょう。しかし、「神は真実な方です。あなた方を耐えられない試練に遭わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練と共に脱出の道を備えていて下さいます」(Ⅰコリント10:13)という約束を堅く信じたいと思います。
人間の罪のために歪んだ(ひずんだ)世に生れた私たちです。しかし試練をへりくだって受け止め、これを神からの意味ある訓練として信仰により受け止めるか否かで、私たちの生き方に大きな違いが生れます。私たちの弱さもよくお分り下さる主イエス・キリストを見上げ、主の憐みを祈り求め、同時に私たちも皆の苦痛にこそ思いを傾け、是非、支え励まし合って歩んで行きたいと思います。