2024年06月02日「来るべき方、イエス・キリスト」
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来るべき方、イエス・キリスト
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 11章1節~6節
聖書の言葉
11:1 イエスは十二弟子に対する指示を終えると、町々で教え、宣べ伝えるために、そこを立ち去られた。
11:2 さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、自分の弟子たちを通じて、
11:3 イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」
11:4 イエスは彼らに答えられた。「あなた方は行って、自分たちが見たり聞いたりしていることをヨハネに伝えなさい。
11:5 目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアト(重い皮膚病)に冒された者たちが清められ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。
11:6 誰でも、私につまずかない者は幸いです。」マタイによる福音書 11章1節~6節
メッセージ
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マタイの福音書10章は、イエスが弟子たちの中から選ばれた12使徒を伝道に遣わす際に語られた数々の注意を伝えました。その後、11:1、イエスは町々で教え、宣教されます。すると牢に捕えられていた洗礼者ヨハネがイエスに質問しました。
3章が伝えますように、ヨハネは、イエスが神からの偉大な救い主(ヘブル語でメシヤ)であることを人々に語り、強く悔い改めを求めました。ところが、そういう彼が今、自分の弟子たちをイエスの許(もと)に送り、3節「お出でになるはずの方は、あなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか」と質問させたのです。これはどういうことなのでしょう。
まず、この時の状況を見ておきます。14:3が伝えますように、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスは自分の弟の妻ヘロディアと不倫をし、妻としました。洗礼者ヨハネはそれを非難しました。するとヘロデはヨハネを捕え、牢に入れたのでした。
この牢は死海の東6Km、死海の北端から約20Km南の場所にあり、標高736m(死海の水面からは1100mより上)の岩の上にあるマケルス要塞の中にありました。西側の死海の向こう側に広がるユダヤを、ヨハネは地下牢の中で絶えず思いながら過ごしたでしょう。
マルコ6:19、20によりますと、ヘロディアは洗礼者ヨハネを恨み、殺したいと思っていましたが、出来ずにいました。ヨハネを正しい聖なる人だと知っていたヘロデが、ヨハネを恐れて保護し、その教えに当惑しながらも喜んで耳を傾けていたからです。ですから、ヨハネの弟子たちは割合自由にヨハネを訪ねることが出来ましたので、彼らがヨハネの質問をイエスに伝えたわけです。
ところで、この質問はどういう性質のものなのでしょうか。
第一の解釈は、最初、ヨハネは確信に満ちていたのですが、苦しみが続いたこともあり、イエスが神からの救い主・メシヤかどうか、確信を失ったというものです。しかし、もしそうであるなら、後の11:9以降にありますように、イエスはヨハネのことを「預言者よりも優れた者」などとはおっしゃらなかったでしょう。
第二の解釈は、主イエスへのヨハネの確信は揺るがないのですが、弟子たちがヨハネをいつまでも慕うので、彼はこういう質問をさせて弟子たちをイエスの許へ送ろうとした、というものです。しかし、もしそうであるなら、人の心もお分りのイエスは、11:4「自分たちの見たり聞いたりしていることをヨハネに伝えなさい」と弟子たちに言う必要はなかったでしょう。
三つ目の解釈は、これは元々質問ではないというものです。ギリシア語の疑問文には、英語のように疑問符がなく、主語と動詞の位置も変りません。「いつ、どこで、誰が」など疑問代名詞があれば分りますが、ない時は文脈から疑問文かどうかを判断します。そこで、3節は疑問文ではなく、「あなたはこういう方です」というヨハネの確信の言葉であり、イエスは「その通りだ」と肯定する意味で4、5節を言われた、と解釈するものです。
しかし、文法上はそうだとしても、3節後半の「それとも、別の方を待つべきでしょうか」を肯定文に訳すのは無理です。それに4節「イエスは…答えられた」とあり、イエスは疑問に答えられたのです。更に、並行箇所のルカ7:18以降を見ましても、ヨハネの言葉は疑問文と取るのが自然です。ですから、この解釈も無理です。
そこで、近代以降の多くの註解者が言う第四の解釈が良さそうです。すなわち、イエスが救い主だという確信は変らないのですが、ただ、ヘロデ王とヘロディアの横暴や多くのユダヤ人の不信仰と罪とに対し、イエスがいつ裁きを下されるのかという点でだけ、ヨハネは尋ねたというものです。
マタイ3:10、11で、ヨハネは来るべき救い主について「斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は全て切り倒されて、火に投げ込まれます。私はあなた方に、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなた方にバプテスマを授けられます」と言いました。
ところが、牢の中で噂を聞く限り、イエスは御言葉と憐れみの業(わざ)はしておられますが、裁きを含む厳しい業はしておられません。そこでヨハネは、11:3「お出でになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。いいえ、あなたこそ来るべきお方です。どうか早く全ての業を始めて下さい」と言った、という解釈です。
今の所、これが一番妥当と思われます。
では、このことから、私たちは何を教えられるでしょうか。
一つは、救い主としてのイエスの御業(みわざ)の全体を常に覚えることの大切さです。
ヨハネは、旧約時代のユダヤ・イスラエル民族の不信仰と罪に何度も警告して悔い改めを迫った預言者たちの働き、それと救い主・メシヤについての預言も、当然よく知っていました。特に紀元1世紀のユダヤの宗教的指導者たちと群衆の不信仰を知っていました。ですから彼は3:7、8で「蝮(まむし)の子孫たち、誰が、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。それなら、悔い改めに相応しい実を結びなさい」と厳しく説教をしました。これ自体は正しいことです。
しかし、救い主の別の面、つまり、罪が人間にもたらした様々な悲惨に対する救い主の憐れみへの思いが弱くなっていたかも知れません。ですから、イエスは11:5で恵みの御業を沢山語られたのではないでしょうか。「目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアト(重い皮膚病)に冒された者たちが清められ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています」と。
旧約聖書のイザヤ35:5、6は、こう預言していました。「その時、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。その時、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口の利けない者の舌は喜び歌う。」またイザヤ61:1は、来るべき救い主の言葉をこう伝えていました。「神である主の霊が私の上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主は私に油を注ぎ、私を遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ…」と。何と憐れみ豊かな救い主のお姿でしょうか。洗礼者ヨハネも知っていたはずです。
しかし、周囲の状況や自分自身の状態により、しばしば私たちは、自分の期待するものには敏感でそれに気付くのですが、そうでないものは心を素通りします。また自分の期待通りにイエスがなさらないと思いますと、気持が萎えることもあります。ですから、イエスは言われました。11:6「私に躓かない人は幸いです」と。神にというより、しばしば私たちは、自分の偏った期待や願いに躓くのですよね。
ヨハネの躓きは強くなかったと思いますが、このことを通して、私たちは、神やイエス・キリスト、救い、あるいは教会やクリスチャンの生き方、また人を判断するあり方について、常に全体をよく知り、全体をしっかり覚えることの大切さを教えられます。
もう一点あります。11:5が伝える主イエスの豊かな恵みの面をよく心に留め、主の恵みに皆でもっともっと与りたいと思うのです。
ここにある通りの主イエスの奇跡は、今はもう起されないかも知れません。しかし、心からイエス・キリストを信じ、受け入れ、依り頼み、自分を明け渡す時、聖霊が働かれて心の目が開かれ、それまで見えなかったものが見えるようになることがあります。実際、同じ天を見ても、詩篇19の作者は「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手の業を告げ知らせる」と歌うことが出来ました。
辛いことが続いて心が委縮し自由に考えられなかった人が、イエス・キリストを受け入れた結果、心が解放され、力強く人生を歩み始めることもあります。
自分の昔の失敗や罪の記憶のために、「私は汚れている」と良心の呵責に喘ぎ、苦しむ人が、私たちの罪を全部背負い、十字架で償って下さった主イエスの絶大な愛を知って明るく前向きになり、また心の耳が開かれて今まで聞こえなかった大切な言葉が聞こえるようになることもあります。
希望を失い、心が死んだように全く無気力な人が、自分への神の愛を知って、まさに生き返ることもあります。
神の前に自分の罪を徹底的に知り、心砕かれた結果、イエスの赦しと愛の福音に心が震え、神と人に仕えることに最高の喜びを見出すこともあります。
実際、どんなに多くの人が、イエス・キリストによるこうした恵みの奇跡を味わって来たことでしょうか。
主の聖なる裁きを決して忘れることなく、この尊い恵みの奇跡に、私たちも私たちの愛する人たちも、更に与れるように、イエス・キリストに心を向けて開き、聖書の御言葉に更に豊かに触れていきたいと思います。
主イエスが、どうか私たち一同を励まして下さいますように!