聖書の言葉 20:17 あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、全てあなたの隣人のものを欲してはならない。出エジプト記 20章17節 メッセージ 十戒の学びも今日で62回目になり、その中の第十戒も今日で7回目になります。今日で一応、終ります。 私たちはこれまで、17世紀の中頃に作成されたウェストミンスター信条の中の特に大教理問答に割合詳しく教えられて来たと思います。本当に感謝なことです。 今日注目したいのは、ヨーロッパの宗教改革の前半と言えます16世紀に作られたものです。体裁が少しずつ変っていきますが1540年代にカルヴァンにより作られたジュネーブ教会信仰問答、それと1563年に作られたハイデルベルク信仰問答です。 まず、ジュネーブ教会信仰問答(外山八郎訳)から見てみます。少し長いですが、お聞き下さい。 問214「あなたが言った通り、全て律法は霊的なものであり、ほかの諸々(もろもろ)の戒めは単に外的行為のみでなく、心の情をも規律するためにあることを考えるならば、ここでは、それ以上にどんなことが言われているのですか。」 答「主はほかの諸々の戒めによって、我々の心情と意欲を規律しようとなさったのでありますが、ここで主はさらに、我々の思いにも律法を課そうとなさるのであります。この思いとは、ある抑えがたい欲望や願いを包含しますが、一定の意欲にまではなっていないものであります。」 問215「では信徒の思いに入り来るかも知れない、最も小さい誘惑でも罪であり、これに抵抗して、いささかもこれに迎合しない場合でさえそうであると、あなたは考えますか。」 答「全ての悪しき思いはたといこれに迎合しない場合でも、我々の肉の弱さから来ていることは確かであります。この戒めでは、まだ熟慮の上の決意とまではいかずに、人の心をくすぐりとらえる諸々の貪欲の情について、述べていると私は申しているのであります。」 問216「では、前の所では、明確な、いわば意を決したような意欲を引き起こす、諸々の悪しき情が、罪せられているように、今や主は、我々の心に何か悪い貪欲の情が入って来て、悪へと心をそそのかし動かすことさえないほどの、全き潔さ(きよさ)をお求めになっておられるとあなたは言うのですね。」 答「その通りであります。」 基本的には、ウェストミンスター信条のものと同じですが、人の所有にまで及ぶ貪欲に、カルヴァンはより強く注意する必要を教えているように思います。問214では「一定の意欲にまではなっていない」欲望や願望、問215では「まだ熟慮の上の決意とまではいかずに、人の心をくすぐりとらえる諸々の貪欲の情」に言及し、問216では「今や主は、我々の心に何か悪い貪欲の情が入って来て、悪へと心をそそのかし動かすことさえないほどの、全き潔さをお求めになっておられる」と言います。 消極面からも積極面からも、貪欲からほど遠い状態を、またそれと全き聖さ(きよさ)を教える点は、ハイデルベルク信仰問答でも同じです。それも読みます。 問113「第十戒では、何が求められていますか。」 答「神の戒めのどれか一つにでも逆らうような、ほんの些細な欲望や思いも、もはや決して私たちの心に、入り込ませないようにするということ。かえって、私たちが、あらゆる罪には心から絶えず敵対し、あらゆる義を慕い求めるようになる、ということです。」 自分の胸に手を当てて、私たち自身を省みたいと思います。私たちは、貪欲の罪や汚れと決別し、それと戦う点で、どれぐらい徹底的でしょうか。適当な所で自分と妥協するようなことはないでしょうか。 また、神に喜ばれる義と聖を自分に求める点で、どこまで私たちは全力を尽くしているでしょうか。この点でも、適当な所で自分自身と妥協しないでしょうか。 しかし、カルヴァンを初め、宗教改革者たちは非常に鋭く自分を見つめ、罪と戦う点でも、また義と聖さを求める点でも、本当に全うしようと願っていたことを思います。 こういう姿勢は、行き過ぎでしょうか。いいえ、聖書自身がそう求めています。Ⅱコリント7:1は言います。「愛する者たち、このような約束を与えられているのですから、肉と霊の一切の汚れから自分を清め、神を恐れつつ聖さを全うしようではありませんか。」 主イエスは言われました。マタイt5:48「あなたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」 完全さを求めるこの徹底性は、結局、天国に入れられた時の自分の義と聖をハッキリ想像し、それをこそ熱く慕う心から来るのでなくて何でしょうか。言い換えますと、私たちの愛する主イエスご自身のお姿にもっともっと似る者になりたいという主への真実な愛から来るのだと思います。十戒のどの戒めに生きようとする場合も、究極的にはこの点に尽きると思います。 どうか、御霊が私たちにこの思いをこれからも常にお与え下さいますように! 以上で、十戒の学びを終ります。 関連する説教を探す 2024年の祈祷会 『出エジプト記』
十戒の学びも今日で62回目になり、その中の第十戒も今日で7回目になります。今日で一応、終ります。
私たちはこれまで、17世紀の中頃に作成されたウェストミンスター信条の中の特に大教理問答に割合詳しく教えられて来たと思います。本当に感謝なことです。
今日注目したいのは、ヨーロッパの宗教改革の前半と言えます16世紀に作られたものです。体裁が少しずつ変っていきますが1540年代にカルヴァンにより作られたジュネーブ教会信仰問答、それと1563年に作られたハイデルベルク信仰問答です。
まず、ジュネーブ教会信仰問答(外山八郎訳)から見てみます。少し長いですが、お聞き下さい。
問214「あなたが言った通り、全て律法は霊的なものであり、ほかの諸々(もろもろ)の戒めは単に外的行為のみでなく、心の情をも規律するためにあることを考えるならば、ここでは、それ以上にどんなことが言われているのですか。」
答「主はほかの諸々の戒めによって、我々の心情と意欲を規律しようとなさったのでありますが、ここで主はさらに、我々の思いにも律法を課そうとなさるのであります。この思いとは、ある抑えがたい欲望や願いを包含しますが、一定の意欲にまではなっていないものであります。」
問215「では信徒の思いに入り来るかも知れない、最も小さい誘惑でも罪であり、これに抵抗して、いささかもこれに迎合しない場合でさえそうであると、あなたは考えますか。」
答「全ての悪しき思いはたといこれに迎合しない場合でも、我々の肉の弱さから来ていることは確かであります。この戒めでは、まだ熟慮の上の決意とまではいかずに、人の心をくすぐりとらえる諸々の貪欲の情について、述べていると私は申しているのであります。」
問216「では、前の所では、明確な、いわば意を決したような意欲を引き起こす、諸々の悪しき情が、罪せられているように、今や主は、我々の心に何か悪い貪欲の情が入って来て、悪へと心をそそのかし動かすことさえないほどの、全き潔さ(きよさ)をお求めになっておられるとあなたは言うのですね。」
答「その通りであります。」
基本的には、ウェストミンスター信条のものと同じですが、人の所有にまで及ぶ貪欲に、カルヴァンはより強く注意する必要を教えているように思います。問214では「一定の意欲にまではなっていない」欲望や願望、問215では「まだ熟慮の上の決意とまではいかずに、人の心をくすぐりとらえる諸々の貪欲の情」に言及し、問216では「今や主は、我々の心に何か悪い貪欲の情が入って来て、悪へと心をそそのかし動かすことさえないほどの、全き潔さをお求めになっておられる」と言います。
消極面からも積極面からも、貪欲からほど遠い状態を、またそれと全き聖さ(きよさ)を教える点は、ハイデルベルク信仰問答でも同じです。それも読みます。
問113「第十戒では、何が求められていますか。」
答「神の戒めのどれか一つにでも逆らうような、ほんの些細な欲望や思いも、もはや決して私たちの心に、入り込ませないようにするということ。かえって、私たちが、あらゆる罪には心から絶えず敵対し、あらゆる義を慕い求めるようになる、ということです。」
自分の胸に手を当てて、私たち自身を省みたいと思います。私たちは、貪欲の罪や汚れと決別し、それと戦う点で、どれぐらい徹底的でしょうか。適当な所で自分と妥協するようなことはないでしょうか。
また、神に喜ばれる義と聖を自分に求める点で、どこまで私たちは全力を尽くしているでしょうか。この点でも、適当な所で自分自身と妥協しないでしょうか。
しかし、カルヴァンを初め、宗教改革者たちは非常に鋭く自分を見つめ、罪と戦う点でも、また義と聖さを求める点でも、本当に全うしようと願っていたことを思います。
こういう姿勢は、行き過ぎでしょうか。いいえ、聖書自身がそう求めています。Ⅱコリント7:1は言います。「愛する者たち、このような約束を与えられているのですから、肉と霊の一切の汚れから自分を清め、神を恐れつつ聖さを全うしようではありませんか。」
主イエスは言われました。マタイt5:48「あなたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」
完全さを求めるこの徹底性は、結局、天国に入れられた時の自分の義と聖をハッキリ想像し、それをこそ熱く慕う心から来るのでなくて何でしょうか。言い換えますと、私たちの愛する主イエスご自身のお姿にもっともっと似る者になりたいという主への真実な愛から来るのだと思います。十戒のどの戒めに生きようとする場合も、究極的にはこの点に尽きると思います。
どうか、御霊が私たちにこの思いをこれからも常にお与え下さいますように!
以上で、十戒の学びを終ります。