2024年05月26日「人はパンだけで生きず」

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人はパンだけで生きず

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 4章1節~4節

聖句のアイコン聖書の言葉

4:1 それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
4:2 そして40日40夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。
4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」
4:4 イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」マタイによる福音書 4章1節~4節

原稿のアイコンメッセージ

 今お読みした所は、神の御子イエスが、洗礼者ヨハネと呼ばれた人から、マタイ3:16が伝えますように、「バプテスマ」、つまり洗礼を受け、40日40夜断食された後、誘惑してきた悪魔とのやり取りの一部を伝えます。これはイエスお独り(おひとり)が体験されたことであり、後に弟子たちに話されたものです。

 今朝注目したいのは、4節「人はパンだけで生きるものではなく…」というイエスの有名な御言葉です。クリスチャンでなくても、これを知っている人は多いと思います。

 この言葉は旧約聖書の申命記8:3の引用です。無論、イエスは、人にはパン、すなわち、食べ物など必要ではない、と言われるのではありません。体に必要なものを次元の低いこととして蔑むのでもなく、単なる精神主義を説いておられるのではありません。人はパン「だけで」生きるものではない、と言われるのです。

 食べ物は、当然、人間に必要で、とても大切です。食べ物を軽んじることは神の御心ではありません。紀元1世紀の初代教会時代、物質的なものや体に関することを次元の低いことと考えるグノーシス主義の影響を受けた人たちが、教会を混乱させたこともありました。これに対し、Ⅰテモテ4:4は「神が造られたものは全て良いもので、感謝して受ける時、捨てるべきものは一つもありません」と教え、こういう考えを明確に退けました。食べ物、飲み物は神の下さった大切なものです。その都度、心から感謝して頂きたいと思います。

 しかし、もし私たちが「人間は食べ物さえあれば生きられる」と言うなら、イエスは言われます。「違う!人はパンだけで生きるものではない」と。

 では、人は何によって生きるのでしょうか。イエスがマタイ4:4の後半で言われますように、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」のです。

 それでは、これはどういう意味なのでしょうか。今日は三つほど心に留めたいと思います。

 第一は、私たちが生きることが出来るのは、ただ神の意思によるということです。

 言葉は意思の表れです。従って、「神の口から出る一つ一つの言葉」というのも、神の意思、神の御心の表れです。これはとても重要な点です。

 確かに、私たちが生きるためには、食べ物が必要です。しかし、食べ物さえあれば、生きられるのでしょうか。違います!ご馳走が山ほどあり、立派な住いがあっても、それだけで私たちは生きられるのではありません。元は聖書から来た概念ですが、「人は生きているのではなく、生かされているのだ」と近年よく言われるようになりました。こういうことが言われるようになって、私は良かったと思います。その通り、私たちは究極的には、ただ「神の意思によって生かされる者」以外の何者でもありません。

 ですから、神の御心でないなら、私たちは1分たりとも長く生きられませんし、神が意志されるなら、どんな事故や災害に遭遇し、病気になっても、私たちは生きます!これは何と重要な事実でしょうか。

 繰り返します。私たちはただ神の意思、神のご計画によって生れ、今日まで生きることが出来たのであり、神が決められた時が来るなら、必ず世を去ります。神が意思され決められた時よりも、前になることも後になることもありません。この根本的なことをよく心に留め、自分は自分の力だけで生きて来たなどと決して傲慢に思ってはならず、私たちの生と死を握っておられる神の前に、心底へりくだる者でありたいと思います。

 第二の点に進みます。私たちは、神の下さる言葉によって、神に喜ばれる真に幸いな者として生きることが出来るということです。これも何と重要なことでしょう。

 創世記1:26、27が教えますように、動物や植物など他の生物とは違い、人は神に似る者として特別に造られました。何のためにでしょうか。愛をもって私たちを造られた真(まこと)の神に私たちが応答し、神の清い御心に喜んで自発的に従い、また「あなたと私」という神との親しい生きた人格的交わりの中に生きることが出来るためです。

 ところが創世記3章が伝える通り、人は神に背き、初めの幸せな状態から転落し、つまり堕落し、それ以来、人は皆、生れた時から罪と死を背負う者になってしまいました。

 確かに人は食べることで生きます。しかし、ただそれだけなら、人をご自分に似せて造られた神から見るなら、ご自分との親しい交わりや喜び、心からの清い豊かな充足感の内に生きるように願われた状態からは、大きくかけ離れています。特に自己中心で自分勝手な生き方は、神との関係で言えば、死んでいるも同然です。ですから、Ⅰテモテ5:6は、自堕落な生活をしているやもめを、厳しいが「生きてはいても死んでいるのです」と、いわば生ける屍だと言うのです。

 とにかく、生れながらに神から離れ、何かと自己中心に生きている――これが聖書の言う罪ですが――そういう私たち人間は、そのままなら最後は永遠の死です。ローマ6:23は言います。「罪の報酬は死です。」

 しかし、ここに福音があります!こんな私たちを神は憐れまれ、救いの手をご自分から差し伸べて下さったのです。何と神は、掛け替えのないご自分の愛しい独り子を人間として、約2千年前この世に送られました。それがイエス・キリストです。主イエスは、天の父の御心に従い、私たちの罪を全部背負い、十字架で私たちのために、また私たちに代って、神の裁きを全て引き受け、そうして私たちの罪をご自分の命をもって償って下さったのでした。

 従って、神の御子イエスを自分の救い主として本当に心から信じ、受け入れ、寄り頼むなら、人は誰でも罪を赦され、神との本来の幸いな関係に回復させられ、神の子供とされます。これが救いです。

 そして神の言葉である旧約聖書、新約聖書をよく学び、魂の食べ物としてよく吸収し、神の言葉の一つ一つに従順に生きる時、私たちは神に喜ばれる者に変えられ、生きている今、この世にあって神との嬉しい交わりの中に生きる真に幸いな者とされるのです。人は「パンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉」で、本当の意味で生きる者とされるのです。

 三つ目を見て終ります。何でしょうか。私たちが聖書の神の御言葉一つ一つに従順で、救い主イエス・キリストに結びついて生きるなら、いつ死を迎えても全てが終りではなく、私たちは聖霊により直ちに罪から全く清められ、父なる神と御子のおられる栄光に満ちた天の国に必ず入れられます。そして世の終りには、イエス・キリストと同じように私たちも復活に与り、神と共にある永遠の祝福に生きることを許されるのです。

 人間の罪が引き起こした理不尽で矛盾に満ちたこの世で、私たちが生きるのは容易ではありません。「神様、どうしてですか」と叫びたくなるような余りにも辛いことが何と多いでしょうか。紀元前9世紀の預言者エリヤでさえ、悪人との戦いに疲れ果て、Ⅰ列王記19:4が伝えるように「主よ、もう十分です。私の命を取って下さい」と言うほどでした。

 今の私たちも、神の御言葉に従順に従い、イエス・キリストに倣って神と人を愛し、神と人に仕えて誠実に生きようとすればするほど、辛く悲しい目に遭うかも知れません。

 しかし、それで終りではありません。神は公平です。心に留めるべき大切なことは、地上の人生が終ったその後のことです。その時のことを、ヨハネの黙示録21:3、4はこう言います。「見よ、神の幕屋が人々と共にある。神は人々と共に住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、共におられる。神は彼らの目から涙をことごとく拭い取って下さる。もはや死はなく、悲しみも、叫びも、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである」と。こういう最高の慰めが信仰者には待っているのです。

 それだけではありません。この世で神の言葉の一つ一つに従って生きた私たちの行いの全てに、神は必ず報いて下さいます。その時、私たちは、同じように神の言葉に誠実に生きた無数の信仰者たちと共に、どんなに感謝しても足りない神の永遠の祝福と喜びと感謝と賛美の中に生きている自分自身を発見することを許されるでしょう。

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」

 私たちは、パンに代表される、つまり、この世で生きる上に必要な色々なものを、神に感謝して益々大切にしたいと思います。

 それと共に、私たちの弱さも全てご存じの慈しみ深い主イエス・キリストに一切を委ね、聖書の神の恵みの言葉の一つ一つに繰り返し耳を傾け、一度限りの夫々の人生を、誠実に丁寧にご一緒に生きていきたいと思います。

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