2024年05月19日「人の内なる永遠の同伴者」

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人の内なる永遠の同伴者

日付
説教
牧田 創 神学生
聖書
ヨハネによる福音書 14章15節~21節

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聖句のアイコン聖書の言葉

14:15 もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。
14:16 そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。
14:17 この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるためです。
14:18 わたしは、あなたがたを捨てて、孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。
14:19 あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。
14:20 その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。
14:21 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。ヨハネによる福音書 14章15節~21節

原稿のアイコンメッセージ

    【序論 聖書が示す「真理」とは何か】

 私は大学を卒業してすぐ高校の教員になったのですが、当時とても文学に興味を持っていました。大江健三郎や村上春樹などの小説をよく読んでいました。よく分かりもしないのにイギリスの詩人や、また時には哲学の本を手にとることもありました。なぜそのように文学や哲学に興味を持ったのか、その理由ははっきりしています。自分が受け持っていた生徒のことを理解したい、人間というものを理解したいという願いがそこにはありました。少し大袈裟に言うならば、真理とは何かについて少しでも理解したい。そのような願いを若い時に、持っていたように思います。

 そしておそらくこれは、誰もが意識的であれ無意識的であれ、心に抱いている願いではないかと思います。若い時に私自身そのような願いを持ちつつ本を読み、もちろん、そこから多くの示唆を与えられもしました。今でも私は文学や哲学に興味を持ってはいますが、しかし私にとりまして、文学や哲学は何か決定的なことを示してくれるものではありません。

 しかし聖書は、「真理とは何か」という問いに対して、何か漠然とした答えではなく、ある具体的な道筋を示してくれる書物であります。私にとりまして、聖書は、文学や哲学からは示されることのなかった、これこそが「真理」であると信じることができることを教えてくれる書物であります。今日共にお読みします箇所にも、聖書が示す「真理」が、どれほど豊かなものであるかがはっきりと記されています。ここに記されている「真理」とは何か。それを共にたどっていきたいと願います。

    【本論1 ヨハネによる福音書における「真理」: 天から遣わされた者】

 今日お読みしました箇所は、主イエスの語られた言葉でありますが、どのような場面で語られた言葉であるかをまずは確認したいと思います。

 少し前の13章の1節に次のように記されています。「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」主イエスは、ご自分がこれからいよいよ十字架に架けられ、弟子たちとのこの世での別れの時が迫っていることをご存知であられました。その弟子たちと最後の食事をしておられた時にお語りになられた言葉が、今日お読みした箇所です。13章の31節から16章の終わりまで続く主イエスの告別説教とも言われる中で語られた言葉であります。ご自分がまもなく天に上げられ、弟子たちはある意味この世に残される。そのような弟子たちに対して、この告別説教を通して「心を騒がせてはならない」と主イエスは弟子たちを励ますのです。私たちは、主イエスに従う者であることを求めるものです。今日の言葉も私たちへの言葉として聞きたいのであります。

 実はヨハネによる福音書には「真理」という言葉が繰り返し出てきます。聖書の中には4つの福音書がありますが、「真理」という名詞はマタイでは1回、マルコでは3回、ルカでは3回しか使われていないのに対して、ヨハネでは実に25回も使われています。「真理」という言葉がヨハネによる福音書において重要な意味を持っていることは明らかです。改革派教会の中でも著名なある神学者が「ヨハネ文書における“真理”」について小さな論文を書いていまして、その中で指摘していることは、ヨハネによる福音書の中での「真理」という言葉は特別な意味内容を持っているということです。

 私たちは、真理と聞くと、何か抽象的な事を頭に浮かべるかもしれません。しかしヨハネが「真理」という言葉を使う時には、極めて具体的な意味をその言葉に込めています。ヨハネの福音書において、「真理」とは「天からのもの」「天に属するもの」を意味する。そして、「この世」に生きる人間に示された「天からのもの」は、ヨハネに言わせれば一つしかありません。それは主イエス・キリストです。ヨハネが示す「真理」とは、天の父なる神から、この世に遣わされた主イエス・キリストの存在そのものと、その言葉であります。そのことを示す箇所を1つ、共に見てみたいと思います。同じ告別説教の中の14章6節です。「イエスは彼に言われた。『私は道であり、真理であり、いのちです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。』」父とは、天におられる父なる神です。主イエスは、天の父から遣わされたが故に「真理」である、そのようにヨハネは記している。主イエスを通して、私たちは天のこと、すなわち真理を知ることができる。いや、主イエスを通してしか、人は「真理」について知ることはできない。その主イエスが、弟子たちのもとを、この世を去ろうとしている。もはや弟子たちは、そして私たちもまたこの世にあって、「真理」を示してくれる唯一のお方を失ってしまうのでしょうか。この世に生きる私たちに「天に属するもの」、すなわち「真理」を示してくれるものは存在しなくなったのでしょうか。そうではない、と告げるのが今日の箇所であります。

    【本論2 もう一人の助け主としての「真理」の御霊】

 天から遣わされた唯一の「真理」である主イエスがこの世を去られようとしている。しかし、主イエスは16節から17節で次のように言われます。「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です」。主イエスにかわる助け主を父はお与えになる。それは「真理」の御霊、すなわち「聖霊」であります。主イエスは天に昇られる。しかしこの世から「真理」がそれで失われるわけではない。「真理」の御霊、聖霊が私たちに与えられる、そう主イエスは言われます。

 私たちは真理を知る。それどころか、このお方は「あなたがたのうちにおられるようになる」。「おられるようになる」は未来形が使われています。まだ主イエスは弟子たちと共にいます。聖霊は、主イエスがこの世を去るときに与えられる。あとでその箇所を見たいと思います。

 心に留めておきたいことは、今、主イエスは天におられる。しかし、この世にある私たちには、主イエスにかわる助け主、「真理」の御霊である聖霊が与えられているということです。しかも驚くべきことに、「あなたがたのうちにおられるようになる」と主イエスはおっしゃいました。私たちのうちに、主イエスに代わって「真理」を示してくださる「聖霊」がおられる。わたしたちのうちにおられるのです。

    【本論3 「その日」明らかにされる完全なる「真理」】

 主イエスは18節以下で「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻ってきます。あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなた方はわたしを見ます」と言われました。「その日には…」と続きます。実は、「あなたがたのところに戻ってくる」とはいつのことを指しておっしゃっておられるのか、20節の「その日には」とはいつのことかについて、昔から議論があります。これは終末における主イエスの再臨の時ではないか、いやそうではなく、聖霊が降った(くだった)日のことではないか、様々な解釈がなされてきました。20節の「その日」とは、いつのことなのでしょう。

 20節には次のように記されています。「その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたのうちにいることが、あなたがたにわかります。」その日になってはじめて、弟子たちは分かる、そう主イエスはおっしゃいます。何が分かるのか、「わたしが父のうちに」いることです。主イエスが本当に、父なる神のうちにおられることが分かる。主イエスが、まさに天から遣わされた「真理」であることが分かる。もちろん弟子たちはこれまでも「真理」である主イエスと共にいました。けれども、この告別説教がなされている時には、主イエスがこの世に示すために天の父から遣わされた、その「真理」が何であったかは、まだ弟子たちにはすべては分からなかったのです。それは、人間の罪の身代わりとしてご自分のひとり子イエス・キリストを天から地に遣わされただけでなく、十字架上で命を差し出してくださったことで示された「神の愛」と、しかしその主イエスが人間の罪と死に打ち勝ち、復活されたことで示された「永遠のいのち」です。

 天から遣わされた主イエスがこの世の人間に示される「真理」それは、主イエスの十字架で示された「神の愛」と、復活によって示された「永遠のいのち」に他なりません。そして弟子たちは、復活の主イエスを見た「その日」に初めて、主イエスが示されるたこの「真理」を本当の意味で知るわけです。そして復活された主イエスを見て、まことにイエスは父なる神より、天よりこの地上に遣わされた「真理」であることを理解したのだと思います。

 20章19節にまさにその日のことが記されています。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中にたち、こう言われた。『平安があなたがたにあるように。』こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。イエスは再び彼らに言われた。『平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。』こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」

 主イエスは天に上げられる。しかし、弟子たちにはもう一人の助け主、聖霊が与えられたことがここに記されています。そしてわたしたちも同じです。主イエスは今や天におられ、この世にはおられません。しかし私たちのうちには、聖霊があたえられている。14章26節にこのように記されています。「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを思い起こさせてくださいます。」主イエスが示された真理、十字架によって示された「神の愛」と、復活によって示された「永遠のいのち」、主イエスがこの世で示された天からの完全なかたちでの真理、それを私たちは今この時、示されています。この世のどのようなものとも比較することのできない、天に属する、天からの「神の愛」と「永遠のいのち」。これが聖書の示す「真理」です。この真理を、聖霊はこの世にある私たちに示し、信じさせてくださる。

    【本論4 「真理」の御霊が与えられることの意味】

 私たちのうちに聖霊を与えられ、真理であられる主イエスを知ることは、何を意味するのでしょうか。「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知るのです。」そう、主イエスはおっしゃいました。そして20節の主イエスの言葉をもう一度思い出したいと思います。「その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちいることが、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたには分かります。」主イエスは父なる神のうちにおられる。そしてわたしたちは主イエスのうちにいる。それは、私たちが他ならない、天の父なる神のうちにいることを意味しています。そしてそのことを、わたしたちの内側から聖霊を通して示される。私たちは、外からは父なる神に、そして内からは聖霊によって、主イエスという絆を通して包まれる。私たちは外側からも内側からも神の愛に包まれている。それが、聖霊が与えられるということです。聖霊が与えられている私たちに、今起こっていることです。

    【結論 聖霊と共に、イエスが示された真理に生きる】

 真理を知った人はどのように生きるべきか。答えは簡単です。真理を知った人は、真理に生きるべきではないか。そして私たちに示された真理は、決して抽象的なものではありません。私たちに示された真理、それは主イエス・キリストそのお方そのものです。だからこそ主イエスはおっしゃいました。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」この戒めが、聖書が私たちに示すこの真理に生きる道です。そして、この真理に生きる道を、私たちは自分一人で歩むのではありません。聖霊が私たちのうちで働いてくださり、私たちの内なる同伴者として最後まで共に歩んでくださる。私たちはその働きに信頼し、主イエスの示された真理の道に生きたいと願います。主イエスが示してくださる真理は、私たちに、神の愛と永遠の命を約束しているからであります。お祈りいたします。

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