聖書の言葉 12:9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れないようにしなさい。12:10 兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手を優れた者として尊敬し合いなさいローマの信徒への手紙 12章9節~10節 メッセージ 今日は「人を見る視点」という大切なことを心に留めたいと思います。 ローマ12:9、10で、パウロは「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れないようにしなさい。兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手を優れた者として尊敬し合いなさい」と、紀元1世紀の中頃、ローマ在住のクリスチャンたちに書きました。今日は、特に最後の「互いに相手を優れた者として尊敬し合いなさい」という所に注目し、「人を見る視点」ということについて考えたいと思います。 私たちは常に誰かと出会い、あるいは誰かと関係を持ち、その中で、その人を「こういう人だ」とある分析や評価をしながら生きていると思います。しかし、同じ人を見ても、見る側の人間一人一人によって、感じ方、捉え方がかなり異なり、評価も分れ、「好きだ、嫌いだ」というような所にまで及んでくることも少なくありません。ですから、ある人をどのように正しく見て、今後、自分がどのように適切に関っていくのかということは、とても難しく、それが本当に正しく出来るのは、究極的には、人の心も隠れたことも一切をご存じの真(まこと)の神以外にはありません。 とはいえ、私たちは、この世に生きる限り、誰かを見て、ある判断や評価をしないわけにはいかず、それどころか、する必要のある場合が多いと思います。 では、私たちはどうすれば良いのでしょうか。一つは、ヨハネ7:24の「上辺で人を裁かないで、正しい裁きを行いなさい」という神の御子イエス・キリストの御言葉を絶えず心に留め、人を見て評価する、その自分の見方や評価を、神の前にいつでも喜んで修正できる謙虚さと勇気が何より大切だと思います。 罪人の私たちには、人を誤って、あるいは偏って見ることを完全に避けることは不可能です。しかし、修正は可能です。ですから、人への評価のみならず、そもそも人を見る視点を形作っている私たち自身の性格などを、神の前に思い切って吟味し、歪んでいることに気付くなら、直ちに悔い改め、修正するという困難な作業から、決して逃げないことが大切です。ここに、徹底して神を畏れる信仰が大事だと思います。 もう一点は、人を見る時に落としてはならない大切な視点を常に取り入れ、その視点で実際に人を見る努力を自覚的にすることだと思います。 パウロは御霊に導かれて「互いに相手を優れた者として尊敬し合いなさい」と教えます。では、人をどういう視点で見ると、これが可能になるでしょうか。イエスは「上辺で人を裁かないで」と教えられました。そのことで、今日は一点だけ心に留めたいと思います。 何度か紹介していますが、ナチスに抵抗し、1945年4月9日の早朝、フロッセンビュルク強制収容所で39歳の若さで殉教した牧師のボンヘッファーは、深い洞察力と温かい眼差しをもってこう言いました。「人が何をするか、何をしないかということよりも、何を耐え忍んでいるかという点に目を向けることを、我々は学ばねばならない。」つまり、人生でその人がどんなことを耐え忍んできたか、また今耐え忍んでいるか、を見ることです。 もとは看護師で、まだ25歳だった1980年から、大阪の釜ヶ崎でボランティア・ソーシャルワーカとしてずっと働いて来られた入佐明美さん(今年69歳)が、「WEDGE」という雑誌の2010年5月号の中でこう書いておられました。 「聴くとは、その人の存在そのものを受け止めることです。『病気なら入院だ』とこっちが主導権を持つのではなく、まず聴くことに徹したら、生い立ちを話してくれる方たちが出てきました。お父さんが戦争で亡くなった方が多かった。お母さんの再婚相手に虐待されたり、親戚をたらい回しにされたり、在日だといじめられたり。よくそんな中で生きて来られましたね、という思いで一杯になって、その現実が凄いと、尊敬の気持が出てきたんです。」 つまり、今の様子だけで人を見、判断し、評価するのではなく、その人が今まで何を耐え忍び、今また何を耐え忍んでいるのかを知ることで、相手への尊敬の思いが生じ、すると、もう自分が上に立つ必要はなく、自分も生れ直して、自分の弱さを含め正直な自分のままで接するようになり、自然と良い関係も築けるようになった、というのです。 人を見る上で、実際には、私たちには色々な視点が必要です。しかし、互いに相手を優れた者として尊敬し合」える者に、幸いにも私たちが少しでも変えられる上で、人を見る一つの大切な、また温かい視点を、改めてご一緒に心に留めました。特に主イエス・キリストならどうご覧になるかを、常に心に留めたいと思います。 関連する説教を探す 2024年の祈祷会 『ローマの信徒への手紙』
今日は「人を見る視点」という大切なことを心に留めたいと思います。
ローマ12:9、10で、パウロは「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れないようにしなさい。兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手を優れた者として尊敬し合いなさい」と、紀元1世紀の中頃、ローマ在住のクリスチャンたちに書きました。今日は、特に最後の「互いに相手を優れた者として尊敬し合いなさい」という所に注目し、「人を見る視点」ということについて考えたいと思います。
私たちは常に誰かと出会い、あるいは誰かと関係を持ち、その中で、その人を「こういう人だ」とある分析や評価をしながら生きていると思います。しかし、同じ人を見ても、見る側の人間一人一人によって、感じ方、捉え方がかなり異なり、評価も分れ、「好きだ、嫌いだ」というような所にまで及んでくることも少なくありません。ですから、ある人をどのように正しく見て、今後、自分がどのように適切に関っていくのかということは、とても難しく、それが本当に正しく出来るのは、究極的には、人の心も隠れたことも一切をご存じの真(まこと)の神以外にはありません。
とはいえ、私たちは、この世に生きる限り、誰かを見て、ある判断や評価をしないわけにはいかず、それどころか、する必要のある場合が多いと思います。
では、私たちはどうすれば良いのでしょうか。一つは、ヨハネ7:24の「上辺で人を裁かないで、正しい裁きを行いなさい」という神の御子イエス・キリストの御言葉を絶えず心に留め、人を見て評価する、その自分の見方や評価を、神の前にいつでも喜んで修正できる謙虚さと勇気が何より大切だと思います。
罪人の私たちには、人を誤って、あるいは偏って見ることを完全に避けることは不可能です。しかし、修正は可能です。ですから、人への評価のみならず、そもそも人を見る視点を形作っている私たち自身の性格などを、神の前に思い切って吟味し、歪んでいることに気付くなら、直ちに悔い改め、修正するという困難な作業から、決して逃げないことが大切です。ここに、徹底して神を畏れる信仰が大事だと思います。
もう一点は、人を見る時に落としてはならない大切な視点を常に取り入れ、その視点で実際に人を見る努力を自覚的にすることだと思います。
パウロは御霊に導かれて「互いに相手を優れた者として尊敬し合いなさい」と教えます。では、人をどういう視点で見ると、これが可能になるでしょうか。イエスは「上辺で人を裁かないで」と教えられました。そのことで、今日は一点だけ心に留めたいと思います。
何度か紹介していますが、ナチスに抵抗し、1945年4月9日の早朝、フロッセンビュルク強制収容所で39歳の若さで殉教した牧師のボンヘッファーは、深い洞察力と温かい眼差しをもってこう言いました。「人が何をするか、何をしないかということよりも、何を耐え忍んでいるかという点に目を向けることを、我々は学ばねばならない。」つまり、人生でその人がどんなことを耐え忍んできたか、また今耐え忍んでいるか、を見ることです。
もとは看護師で、まだ25歳だった1980年から、大阪の釜ヶ崎でボランティア・ソーシャルワーカとしてずっと働いて来られた入佐明美さん(今年69歳)が、「WEDGE」という雑誌の2010年5月号の中でこう書いておられました。
「聴くとは、その人の存在そのものを受け止めることです。『病気なら入院だ』とこっちが主導権を持つのではなく、まず聴くことに徹したら、生い立ちを話してくれる方たちが出てきました。お父さんが戦争で亡くなった方が多かった。お母さんの再婚相手に虐待されたり、親戚をたらい回しにされたり、在日だといじめられたり。よくそんな中で生きて来られましたね、という思いで一杯になって、その現実が凄いと、尊敬の気持が出てきたんです。」
つまり、今の様子だけで人を見、判断し、評価するのではなく、その人が今まで何を耐え忍び、今また何を耐え忍んでいるのかを知ることで、相手への尊敬の思いが生じ、すると、もう自分が上に立つ必要はなく、自分も生れ直して、自分の弱さを含め正直な自分のままで接するようになり、自然と良い関係も築けるようになった、というのです。
人を見る上で、実際には、私たちには色々な視点が必要です。しかし、互いに相手を優れた者として尊敬し合」える者に、幸いにも私たちが少しでも変えられる上で、人を見る一つの大切な、また温かい視点を、改めてご一緒に心に留めました。特に主イエス・キリストならどうご覧になるかを、常に心に留めたいと思います。