2024年05月12日「受け入れる人への報い」

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受け入れる人への報い

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 10章40節~11章1節

聖句のアイコン聖書の言葉

10:40 あなた方を受け入れる人は、私を受け入れるのです。また、私を受け入れる人は、私を遣わされた方を受け入れるのです。
10:41 預言者を預言者だからということで受け入れる人は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だからということで受け入れる人は、義人の受ける報いを受けます。
10:42 まことに、あなた方に言います。私の弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。
11: 1 イエスは12弟子に対する指示を終えると、町々で教え、宣べ伝えるために、そこを立ち去られた。マタイによる福音書 10章40節~11章1節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝の説教題は「受け入れる人への報い」です。神の御子イエスを心から救い主と信じて周囲の人々に言葉と生活でイエスを証しする私たちクリスチャンを受け入れる人には、神から必ず報いがあるということです。

 10章に入ってからマタイの福音書は、イエスが弟子たちの中から12人の使徒を選び、彼らを伝道に遣わす際に言われた注意を伝えてきました。例えば、16節以降では彼らに迫害を予告し、34節以降では福音を人に伝えた結果、平和ではなく剣が臨むとも言われ、厳しい現実を語られました。

 私たちは12使徒のような特別な伝道者ではなく、普通のクリスチャンです。しかし、ただイエス・キリストを心から信じる信仰により永遠の救いに与るという素晴らしい福音を周囲の人に伝える点では、私たちも伝道者です。ですから、10章で言われて来たことは、私たちにも大なり小なり起り、その覚悟も学びました。

 では、クリスチャンは常に厳しい覚悟だけをして生きる者なのでしょうか。それは違います。11:1が伝えますように、イエスは次の段階に進まれますが、その前に、今までとは違う角度から弟子たちに教え、彼らを励まされます。それを10:40~42は伝えます。

 まずイエスは40節で、福音を証しして生きるクリスチャンと、そのクリスチャンが信じているイエス・キリスト、そしてイエス・キリストを世に遣わされた天の父なる神との密接な関係を語られます。世間の人は、クリスチャンとイエス・キリストと父なる神が、何かしら繋がっていることは分ると思いますが、それ以上のことは分らないでしょうね。

 しかし、イエスによれば、この3者は極めて密接に繋がっています。勿体なくも、イエスは40節「あなた方を受け入れる人は、私を受け入れるのです。また、私を受け入れる人は、私を遣わされた方を受け入れるのです」と言われます。つまり、クリスチャンは、まるで御子イエスと父なる神から特別な任務を帯びて、世の人々に遣わされる大切な親善大使であるかのように言われるのです。

 この関係は、マタイ10章のここだけで言われているのではありません。ヨハネ13:20でもイエスは「まことに、まことに、あなた方に言います。私が遣わす者(=クリスチャン)を受け入れる者は、私を受け入れるのです。そして、私を受け入れる人は、私を遣わされた方(=天の父なる神)を受け入れるのです」と語られます。ですから、クリスチャンが現に与えられているイエス・キリスト、並びに父なる神との驚くほど密接で光栄な関係を、私たちはまず深く心に刻みたいと思います。

 続いてイエスは、以上のことを更に分りやすく「報い」という概念を使って、弟子たちを励まされます。41節「預言者を預言者だからということで受け入れる人は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だからということで受け入れる人は、義人の受ける報いを受けます。」

 幼い時から旧約聖書に親しんでいた弟子たちに、「預言者」の例は身近で分りやすかったと思います。神の言葉を人々に伝える預言者は、神と親しく交わり、神をよく知ることができますが、その彼らを神の預言者として受け入れる人も、預言者と同じ祝福や光栄などの報いを受けるのです。無論、ここでの預言者とはイエスの弟子たちを指します。

 また、神の御心に従って生きる人という意味で、弟子たちを41節「義人」として受け入れる人も同じ報いを受ける、とイエスは言われます。

 義人には困難が伴います。この世は根本的には神を拒む罪の世だからです。ですから、神の御心に従う人は、しばしば異質な人間と見られ、苦労があります。その上、自分の罪と不信仰にも悩み、それとの戦いや苦悩もあります。

 けれども、義人、つまりクリスチャンは、罪の赦しと永遠の命が、悔い改めとイエス・キリストを信じ、受け入れ、依り頼む信仰だけで与えられるという最高の福音を知っています。ですから、どんなに苦労や悩みがあっても、十字架と復活の主イエスを仰ぐ時、この世が与えることも奪うこともできない平安があり、神との平和があります。そういう中で、クリスチャンは、なおも神の清い御心に従って正しく生きようとする者です。

 このように生きているクリスチャンを、41節「義人だからということで受け入れる人は、義人の受ける報いを受け」ると、イエスは約束されるのです。

 それだけではありません。イエスは更にこう言われます。42節「まことに、あなた方に言います。私の弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。」

「まことに、あなた方に言います」は、原文では「アーメン、私はあなた方に言う」という厳かな言い方であり、主の強い意志が現れています。

 パレスチナでは冬が雨の季節ですが、それ以外の季節は乾燥し、暑い時も多いようです。そんな中、汗をかき、疲れている体には、冷たい水一杯でも、どんなにありがたいでしょうか。体も魂も生き返ったように力に満たされます。

 イエスは、ご自分の弟子だという理由で、「この小さな者たち(=クリスチャン)の一人に、一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません」と言われます。具体的にどんな報いかは言われていませんが、クリスチャンだと分っていて、その人に優しい心で接し、手を差し伸べる人を、神は決してお忘れになりません。

 このことは、最後の審判を伝えるマタイ25:31以降でも言われています。イエスはご自分を王に譬えてこう言われます。34~40節「それから王は右側にいる者たちに言います。『さあ、私の父に祝福された人たち。世界の基が据えられた時から、あなた方のために備えられていた御国(みくに)を受け継ぎなさい。あなた方は私が空腹であった時に食べ物を与え、渇いていた時に飲ませ、旅人であった時に宿を貸し、私が裸の時に服を着せ、病気をした時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれたからです。』」すると、その正しい人たちは答えます。「『主よ。いつ私たちは、あなたが空腹なのを見て食べさせ、喉が渇いていたのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』すると、王は彼らに答えます。『まことにあなた方に言います。あなた方が、これらの私の兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、私にしたのです。』」

 10章に戻ります。イエスの弟子・クリスチャンには、この世で大変辛い苦労もあります。覚悟が必要です。しかし、よく覚えていたいと思います。キリスト信仰をまだ公に表明していませんが、私たちがクリスチャンであるのを知りながらイヤな顔もせず私たちを受け入れ、親切な、そういう人たちに、父なる神とイエス・キリストも報いて下さるのです。

 ということは、クリスチャンとして私たちがこの世にいることは、それほど尊く素晴らしいことなのです。イエスは言われます。40節「あなた方を受け入れる人は、私を受け入れるのです。また、私を受け入れる人は、私を遣わされた方を受け入れるのです。」

 繰り返します。クリスチャンは、主イエスと父なる神から世に派遣された親善大使なのです。神の祝福が人々の間に広がるために、神は私たちを、職場、学校、地域社会、家庭に置かれ、私たちを祝福の源としておられるます。創世記12:2、3で神は、アブラハムが全世界の祝福の源となり、人々が彼によって祝福に入ると言われました。従って、アブラハムの霊的な子孫であるクリスチャンも祝福の源としてこの世に置かれているのです。

 このことを私たちが認識していることは、何と大切でしょうか。

 私たちは、人から変人と思われることに弱いですね。ですから、自分がクリスチャンであることを人に表明せず、主イエスを伝えることを躊躇し、逃げ腰であることもないでしょうか。しかしイエスは、こんな私たちが多くの人の祝福の源とされている事実を告げられます!クリスチャンである私たちを受け入れ、私たちに優しく親切にしてくれる人は、報いから漏れない!クリスチャンは、それほど大切な素晴らしい役割を持つ者として、御子イエスをお与えになったほどに世を愛しておられる神により、世に遣わされているのです。

 この尊い役割と光栄を、是非、改めて覚えたいと思います。ただ「イヤなことになりませんように」と願う消極的祈りではなく、「主よ、弱虫で欠けだらけの器である私ですが、あなたの栄光と隣人の救いと真(まこと)の幸せのために、私をお用い下さい。主よ、私の言葉、私の声、私の笑顔、私の手足、私の存在そのものを、御言葉と御霊によってもっと清め、どうぞ、お用い下さい。私のようなクリスチャンであっても、受け入れる人には必ず報いを下さる慈しみ深い主よ、私を献げます」と祈り、皆で共に手を携え、ますます励まし合って歩んで行きたいと思います。

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