聖書の言葉 20:17 あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、全てあなたの隣人のものを欲してはならない。出エジプト記 20章17節 メッセージ 神の栄光を現し、ほめたたえ、神を喜ぶことを最大の目的とする私たちクリスチャンにとって、とても大切な十戒を今日も学びます。 何度も言いますが、信仰の先輩たちが作りましたウェストミンスター大教理問答は、各戒めを、何を禁じているかという消極面と、何を求めているかという積極面から解説します。聖書に基づく非常に優れた解説方法だと思います。 そこで今日も、前回に続き、積極的な面を大教理問答の問147から学びます。読んでみます。「第十の戒めで求められている義務は、自分自身の置かれている状態に十分に満足し、自分の隣人に対して思いやりに満ちた心のあり方を示し、そのようにして、隣人についての内なる思いと感情とを挙げて、隣人の所有しているあらゆる良いものに心を配り、それを増進させることです。」 前回は、第十戒が私たちに、自分自身の状況に十分に満足することを求めている、という点を学びました。今日は二つ目、つまり、「自分の隣人に対して思いやりに満ちた心のあり方を示し、そのようにして、隣人についての内なる思いと感情とを挙げて、隣人の所有しているあらゆる良いものに心を配り、それを増進させる」という点を学びたいと思います。 「汝(なんじ)、貪る(むさぼる)なかれ」という言葉で、第十戒の重みや鋭さを覚えて来た者には、「第十戒は、本当はこんなにも隣人への愛を教え、促す戒めだったのだ」と改めて感じると思います。正に(まさに)その通り、十戒をこのように理解することを、主イエスご自身が教えて下さっていました。マタイ22:34以降が伝えますように、律法の中でどの戒めが一番重要かと尋ねられた時、イエスは申命記6:5を引用し、神を愛することだと答えると共に、レビ記19:18「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」を引用し、隣人を愛することだと、十戒を積極的に捉えるべきこともお教え下さったのでした。 さて、大教理問答の問147の答から大切なことを改めて学びます。繰り返しますが、問147は言います。「自分の隣人に対して思いやりに満ちた心のあり方を示し、そのようにして隣人についての内なる思いと感情とを挙げて、隣人の所有しているあらゆる良いものに心を配り、それを増進させる」と。今日、特に心に留めたいことは、「隣人についての内なる思いと感情とを挙げて」とある点です。 隣人のものを欲しないだけでなく、「隣人の所有しているあらゆる良いものに心を配り、それを増進させる」ことが主の御心なのですが、それを単に義務感からではなく、「内なる思いと感情とを挙げて」と言います。本当は気が乗らないのだけれど、義務だから仕方なくそうするというのではなく、「内なる思いと感情とを挙げて」そうすることが大切だと教えます。 無論、これは簡単なことではありません。私たち罪人の本姓は、自分が第一です。「自分」ファースト!隣人ではありません。ですから、これは生れついての私たちの自然な感情では、できることではありません。できるためには、何といっても御言葉に対する従順で謙遜な信仰が不可欠です。 では、その従順で謙遜な信仰により、どういうことを私たちは心に留めるべきでしょうか。 一つは、もし自分なら、隣人にどうしてほしいかと、一呼吸置いて考えることです。イエスは言われました。マタイ7:12「人からしてもらいたいことは何でも、あなた方も同じようにしなさい。これが律法と預言者です。」自分なら、人からどうしてほしいかと、一旦、視点を変えてみることは、とても大切です。表現は違いますが、ピリピ2:4も「夫々、自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい」と言います。すると、「内なる思いと感情」も伴って、隣人の所有している良いものに心を配り、それを増進させようという気持ちが、多少とも起こるのではないかと思います。 もう一つは、主イエス・キリストが私たちに、ただ愛により、どれほど仕えて下さったかを思い巡らすことです。天から来て下さった神の独り子ですが、主は、自己中心な私たちにぶつくさ文句を言い、イヤイヤ私たちに御霊を下さり、信仰を与え、永遠の命という最高の宝、最高の良いものを下さったでしょうか。本来ならとっくに呆れられ、見捨てられ、裁かれて当然の私たちですのに、主は今も、どんなに大きな寛容と忍耐によって日々私たちを赦し、私たちに良くして下さっていることでしょうか。この主イエスの計り知れない愛と恵みを思いますと、未だに不信仰で罪深い私たちの「内なる思いと感情」も揺さぶられ、隣人とその様々な持ちものをも応援して上げようと、心を熱くされないでしょうか。 隣人への愛の相変わらず乏しい私たちです。でも、慈しみ深い主イエスが、どうか御霊によって、隣人への愛を私たちの内に、ことある毎に引き起し、高め、豊かにして下さいますように! 関連する説教を探す 2024年の祈祷会 『出エジプト記』
神の栄光を現し、ほめたたえ、神を喜ぶことを最大の目的とする私たちクリスチャンにとって、とても大切な十戒を今日も学びます。
何度も言いますが、信仰の先輩たちが作りましたウェストミンスター大教理問答は、各戒めを、何を禁じているかという消極面と、何を求めているかという積極面から解説します。聖書に基づく非常に優れた解説方法だと思います。
そこで今日も、前回に続き、積極的な面を大教理問答の問147から学びます。読んでみます。「第十の戒めで求められている義務は、自分自身の置かれている状態に十分に満足し、自分の隣人に対して思いやりに満ちた心のあり方を示し、そのようにして、隣人についての内なる思いと感情とを挙げて、隣人の所有しているあらゆる良いものに心を配り、それを増進させることです。」
前回は、第十戒が私たちに、自分自身の状況に十分に満足することを求めている、という点を学びました。今日は二つ目、つまり、「自分の隣人に対して思いやりに満ちた心のあり方を示し、そのようにして、隣人についての内なる思いと感情とを挙げて、隣人の所有しているあらゆる良いものに心を配り、それを増進させる」という点を学びたいと思います。
「汝(なんじ)、貪る(むさぼる)なかれ」という言葉で、第十戒の重みや鋭さを覚えて来た者には、「第十戒は、本当はこんなにも隣人への愛を教え、促す戒めだったのだ」と改めて感じると思います。正に(まさに)その通り、十戒をこのように理解することを、主イエスご自身が教えて下さっていました。マタイ22:34以降が伝えますように、律法の中でどの戒めが一番重要かと尋ねられた時、イエスは申命記6:5を引用し、神を愛することだと答えると共に、レビ記19:18「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」を引用し、隣人を愛することだと、十戒を積極的に捉えるべきこともお教え下さったのでした。
さて、大教理問答の問147の答から大切なことを改めて学びます。繰り返しますが、問147は言います。「自分の隣人に対して思いやりに満ちた心のあり方を示し、そのようにして隣人についての内なる思いと感情とを挙げて、隣人の所有しているあらゆる良いものに心を配り、それを増進させる」と。今日、特に心に留めたいことは、「隣人についての内なる思いと感情とを挙げて」とある点です。
隣人のものを欲しないだけでなく、「隣人の所有しているあらゆる良いものに心を配り、それを増進させる」ことが主の御心なのですが、それを単に義務感からではなく、「内なる思いと感情とを挙げて」と言います。本当は気が乗らないのだけれど、義務だから仕方なくそうするというのではなく、「内なる思いと感情とを挙げて」そうすることが大切だと教えます。
無論、これは簡単なことではありません。私たち罪人の本姓は、自分が第一です。「自分」ファースト!隣人ではありません。ですから、これは生れついての私たちの自然な感情では、できることではありません。できるためには、何といっても御言葉に対する従順で謙遜な信仰が不可欠です。
では、その従順で謙遜な信仰により、どういうことを私たちは心に留めるべきでしょうか。
一つは、もし自分なら、隣人にどうしてほしいかと、一呼吸置いて考えることです。イエスは言われました。マタイ7:12「人からしてもらいたいことは何でも、あなた方も同じようにしなさい。これが律法と預言者です。」自分なら、人からどうしてほしいかと、一旦、視点を変えてみることは、とても大切です。表現は違いますが、ピリピ2:4も「夫々、自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい」と言います。すると、「内なる思いと感情」も伴って、隣人の所有している良いものに心を配り、それを増進させようという気持ちが、多少とも起こるのではないかと思います。
もう一つは、主イエス・キリストが私たちに、ただ愛により、どれほど仕えて下さったかを思い巡らすことです。天から来て下さった神の独り子ですが、主は、自己中心な私たちにぶつくさ文句を言い、イヤイヤ私たちに御霊を下さり、信仰を与え、永遠の命という最高の宝、最高の良いものを下さったでしょうか。本来ならとっくに呆れられ、見捨てられ、裁かれて当然の私たちですのに、主は今も、どんなに大きな寛容と忍耐によって日々私たちを赦し、私たちに良くして下さっていることでしょうか。この主イエスの計り知れない愛と恵みを思いますと、未だに不信仰で罪深い私たちの「内なる思いと感情」も揺さぶられ、隣人とその様々な持ちものをも応援して上げようと、心を熱くされないでしょうか。
隣人への愛の相変わらず乏しい私たちです。でも、慈しみ深い主イエスが、どうか御霊によって、隣人への愛を私たちの内に、ことある毎に引き起し、高め、豊かにして下さいますように!