2024年05月05日「イエスに相応しい者」
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イエスに相応しい者
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- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 10章34節~39節
聖書の言葉
10:34 私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。私は、平和ではなく剣をもたらすために来ました。
10:35 私は、人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たのです。
10:36 そのようにして家の者たちがその人の敵となるのです。
10:37 私よりも父や母を愛する者は、私に相応しい者ではありません。私よりも息子や娘を愛する者は、私に相応しい者ではありません。私よりも息子や娘を愛する者は、私に相応しいものではありません。
10:38 自分の十字架を負って私に従って来ない者は、私に相応しい者ではありません。
10:39 自分の命を得る者はそれを失い、私のために自分の命を失う者は、それを得るのです。マタイによる福音書 10章34節~39節
メッセージ
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今、10:34~39をお読みしました。「これは厳しい教えだ」と言って、戸惑う人もあるかも知れません。しかし、印象だけですぐ判断せず、イエスが言われる真意を正しく掴み(つかみ)たいと思います。
確かにここを読みますと、普通は複雑な思いを抱くでしょうね。それと、ここは聖書の他の箇所が述べていることと矛盾するように思えます。例えば、イエスが誕生された夜、天使たちは神の御子イエスがもたらすものとして、「地の上で、平和が、御心に適う人にあるように」(ルカ2:14)と神を賛美し、平和に言及しました。イエスご自身も真(まこと)のクリスチャンの特徴として、「平和を作る者は幸いです」(マタイ5:9で)と言われました。平和が述べられています。
ところが、イエスはマタイ10:34~36でこう言われます。「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。私は、平和ではなく剣をもたらすために来ました。私は、人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たのです。そのようにして家の者たちがその人の敵となる」と。どういうことでしょうか。
もたらす「ために」とあります。英語でもそうですが、ユダヤの言葉でも、これは目的ではなく、結果を表わす場合がよくあります。つまり、剣をもたらして敵対させることが目的ではなく、本来は神との間に嬉しい平和を確立して下さる主イエスを私たちが信じ、従ったために、その結果、周囲と摩擦や衝突が起るという意味です。
35、36節は、実は旧約聖書のミカ書7:6の引用です。そこには「子は父を侮り、娘はその母に、嫁はその姑に逆らい、夫々自分の家の者を敵とする」とあります。どうして、そんなことが起っていたのでしょうか。そこの前後の文脈から分りますように、紀元前8世紀当時、イスラエルの民がとても不信仰になり、堕落していたからなのです。
マタイ10:34以降に戻ります。
私たちが罪を悔い改め、心からご自分を信じ依り頼むだけで、イエスは私たちに罪の赦しを与え、言い換えますと、創り主なる天の父なる神との間に平和を与え、私たちを永遠に救って下さる救い主です。ところが、この世は、基本的に神に心を閉ざし、福音を拒みますので、クリスチャンを敵視することも起るわけです。
福音が伝えられますと、それまでは隠れていた人間の本質が露(あらわ)になります。幼子のイエスを抱いていたマリアにシメオンが言いましたように、ルカ2:35「多くの人の心の内の思いが露になる」のです。これは紀元1世紀のユダヤだけでなく、いつ、どこにおいても同じです。私たちは、イエスが言われたこの悲しい現実を決して忘れてはなりません。
繰り返します。聖書の御言葉、イエスの福音自体に問題があるからではなく、この世が基本的には真の神を拒み、神に背く罪の世ですから、悲しい現実が生じるのです。ですから、私たちは、このことでひどく嘆いたり、神に文句を言って、気落ちしてはなりません。これを重々承知の上で、イエスを信じ、御言葉に従順に、またきよく生き、隣人の救いのために、言い換えますと、隣人の真の幸せ、つまり、神に喜ばれ、天の国に繋がる平安と愛と感謝に生きることが出来るために、喜んで福音に生き、福音を証しするのです。
以上、この罪の世が原因で起る厳しい悲しい現実を改めて私たちは心に留め、信仰の帯を固く締めたいと思います。
さて、続けてイエスは更に厳しい現実を語られます。それは家族との間のことです。36節で既にイエスは「そのようにして家の者たちがその人の敵となる」と言われましたが、37節で更に言われます。「私よりも父や母を愛する者は、私に相応しい者ではありません。私よりも息子や娘を愛する者は、私に相応しい者ではありません。」
これは、どういう意味でしょうか。この言葉にも戸惑う人は少なくないと思いますが、ここでも聖書を表面的に読むのではなく、イエスが言われることの真意をよく理解したいと思います。実はイエスは、今度は私たち自身の内にある一つの問題を指摘しておられるのです。
聖書は、十戒の第五戒「あなたの父と母を敬え」を初め、どんなに家族への愛を教えていることでしょうか。ルカ2:51が伝えますように、イエスも少年時代に「両親に仕えて」暮されました。また、死ぬ直前のあの苦しい十字架の上でも、ヨハネ19:27「ご覧なさい。あなたの母です」と言って、母マリアを弟子のヨハネに優しく託されました。Ⅰテモテ5:8は「もしも親族、特に自分の家族の世話をしない人がいるなら、その人は信仰を否定しているのであって、不信者よりも劣って」いると、厳しく教えます。このように、聖書全体は家族愛をどんなに強く教えているでしょうか。
そうだとしますと、マタイ10:37の「私よりも父や母を愛する者は、私に相応しい者ではありません。私よりも息子や娘を愛する者は、私に相応しい者では」ない、とまでイエスが言われる真意は何でしょうか。
そもそもこの見事な世界を無から造られ、また御子イエスへの信仰だけで私たちを罪と永遠の滅びから救って下さる神の圧倒的な愛に、私たちが心から感謝し、父なる神と御子イエスを愛するのは当然と言えます。それと、父なる神と御子イエスへの愛と、人間の家族への私たちの愛は、元々、次元が全く違いますね。それなのに、イエスがご自分への私たちの愛と、家族への私たちの愛を比較されるのは、どうしてなのでしょうか。
実は、家族への私たちの愛が、父なる神と御子への愛と同列に並ぶということ、いわば家族を偶像視する危険性をイエスは教えておられるのです。夢中になって一杯色々なものをつぎ込むことのある私たちの家族愛は、自分自身の幸せや満足を求める自己愛と重なっていることが多いと、よく指摘されます。つまりイエスは、しばしば家族への愛という形を取って現れる私たちの強い利己的な自己愛を問題としておられるのです。それは、知らない間に私たちを神から遠ざけ、そのために家族をも神から遠ざけかねないからです。
自分の子供をまるで舐めるように可愛がる親が、自分の思い通りになりませんと、今度は子供にひどい仕打ちをするという虐待が時々起こります。それは子供への純粋な愛ではなく、本当は、自分の願望や欲望を偶像化した自己愛なのです。
誤解のないように申しますが、家族愛の全てがそうなのではありません。ただ、注意しませんと、家族への愛という形でしばしば現れます自己愛の問題は誰にも起り得ます。
これが分りますと、38、39節でイエスが「自分の十字架を負って私に従って来ない者は、私に相応しい者ではありません」と言われることも分るでしょう。
「自分の十字架を負」うとは、単に何かの苦難や試練に遭うことではありません。家族愛という形でよく現れる私たちの利己的な自己愛と古い自我に死ぬことであり、イエス・キリストのきよい福音に従うことなのです。
従って、39節の「自分の命を得る者」とは、古い自我に死なず、自己愛に生き続ける人のことです。しかし、その人は「それを」、すなわち、これがないなら私たちの全人生が無駄になってしまう永遠の命を失うことになります。何という不幸でしょうか。
逆に39節「私のために命を失う者は、それを得る…」とは、利己的な罪深い古い自我に死ぬ者は、神に喜ばれ、最後は天の国で神の栄光に与るという、そういう「命を得る」ということです。主イエスは、この幸いに私たちが何としても与れるように、ここで語っておられるのです。
人生は選択の連続です。
家族への愛は、本来はとても大切で美しいものです。けれども、私たち自身の罪のために、神を後回しにし、偶像化しやすい危険性があります。家族愛だけでなく、私たちがしばしば夢中になりやすい他のことについても、私たちは、私たちを真に愛しておられる神の御心が何かを常に考え、神の御心をこそ天に召される時まで繰り返し選び取り、そうして主イエスに相応しい者に、是非、変えられていきたいと思います。
ローマ12:2は言います。「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えて頂きなさい。そうすれば、神の御心は何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」
でも、私たちは弱い者です。自分の力だけでは、到底、自分を変えることはできません。どうか、御子イエスの御霊(みたま)が私たちに強く臨まれ、私たちの信仰を一層明確にし、強め、私たち皆をイエスに相応しい者に、ますます変えて下さるように、心から祈りたいと思います。