2024年04月14日「恐れてはいけません ⑶」

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恐れてはいけません ⑶

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 10章26節~33節

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聖句のアイコン聖書の言葉

10:26 ですから彼らを恐れてはなりません。おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはないからです。
10:27 わたしが暗闇であなた方に言うことを、明るみで言いなさい。あなた方が耳元で聞いたことを、屋上で言い広めなさい。
10:28 体を殺しても、魂を殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、魂も体もゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
10:29 2羽の雀は1アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の1羽でさえ、あなた方の父の許しなしに地に落ちることはありません。
10:30 あなた方の髪の毛さえも、すべて数えられています。
10:31 ですから恐れてはいけません。あなた方は多くの雀よりも価値があるからです。
10:32 ですから、誰でも人々の前で私を認めるなら、私も、天におられる私の父の前でその人を認めます。
10:33 しかし、人々の前で私を知らないと言う者は、私も、天におられる私の父の前で、その人を知らないと言います。マタイによる福音書 10章26節~33節

原稿のアイコンメッセージ

 前回も申しましたが、10:5以降は、イエスが12使徒たちをユダヤの町や村へ伝道に遣わした時に語られた注意を伝えています。

 私たちに罪の赦しと永遠の命を与えるキリストの福音を、他の人に伝える点で、クリスチャンは皆伝道者です。しかし、そのために人から攻撃されるとか、隣近所や職場や親戚の中で聖書に従って行動したために非難されることもあります。すると私たちは、つい人を恐れやすくなってしまいます。イエスはそういう私たちの弱さをよくご存じです。ですから、26、28、31節で3度も「恐れてはいけません」と言い、その理由もお教えになります。

 そこで今朝も、私たちクリスチャンが人を恐れてはいけない理由を学びたいと思います。

 今まで、2回の説教で、既に理由を四つ学びました。今朝は最後の五つ目を学びます。何でしょうか。世の終りに私たちは皆神の法廷に立ち、救い主イエスに対し、人々の前で私たちがどういう態度を取ったかにより、主の裁きを受けるからです。

 イエスは言われます。32、33節「ですから、誰でも人々の前で私を認めるなら、私も、天におられる私の父の前でその人を認めます。しかし、人々の前で私を知らないと言う者は、私も天におられる私の父の前で、その人を知らないと言います。」

 往々にして私たちは今のことだけを考え、「良かった」とか「イヤだ」などと思って、自分の生き方・在り方を決めやすいと思います。しかし、真(まこと)のキリスト教信仰は、神による世の終りの審判と永遠の行き先を常に考え、そこから逆算して自分の今の生き方、あり方を選び決定するのです。これは、この世での私たちの思いと言葉と行いが全て暴かれ裁かれる神の法廷に自分が立つことを決して忘れないという、責任ある生き方でもあります。

 今朝、特に注意したいのは、私たちのために十字架で命を献げ、復活された救い主イエス・キリストと自分との関係を、どう表明するかということの重要性です。イエスは32節「誰でも人々の前で私を認めるなら、私も、天におられる私の父の前でその人を認めます」と言われます。「私を認める」とは、私たちが、イエスを神の御子また自分の唯一・永遠の救い主と認めることを意味します。「認める」と訳されている言葉は、元のギリシア語では「告白する」という意味も持ちます。

 要するに、今この世で私たちが、教会で行い、また特に人々の前で行うイエスへの信仰の告白・表明は、天の法廷に繋がっているのであり、父なる神の御前で最高に尊いとイエスは言われるのです。ローマ10:10も「人は心で信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」と言います。

 それだけに、人々の前でイエスを否定することは、今だけのことに終らず、私たちの永遠の運命に関わります。イエスは言われます。33節「しかし、人々の前で私を知らないと言う者は、私も天におられる私の父の前で、その人を知らないと言います。」

 人を恐れてはいけない五つ目の理由は、世の終りに私たちは皆、神の法廷に立ち、この世で御子イエスについて、人々の前で私たちがどう表明し、どんな態度を取ったかにより、主の厳粛な裁きを受けるからです。

 ところで、この32節、33節だけを読みますと、正直な所、「これは大変厳しい」と私たちは思うのではないかと思います。クリスチャンとしての自分の姿勢をグイっと正されるのではないでしょうか。

 しかし、ここで私たちは、改めて主イエスのここの教えをよく考えたいと思います。そこで大きく三つの点を確認しておきます。

 まずその一つは、32、33節の注意は、イエスが既に四つの大切な注意を下さった後のものだという点です。つまり、人を恐れてはいけない大切な理由を主が四つも丁寧に教えておられたにも関らず、なおも私たちが人の前で、イエス・キリストと自分との関係を認めず、否定するという、そういう不信仰に対するものだということです。

 そこで、イエスが言われたその四つの理由を簡単におさらいしておきたいと思います。第一は、24、25節で言われたことです。すなわち、イエスご自身、私たちより遥かに辛い扱いを受け、しかし、その全てをただただ私たちのために耐え忍んで下さったのであり、そんなにまでして私たちはイエスに愛され、救いの手を差し伸べられているのだから、ということです。

 第二は、26、27節で言われたことです。すなわち、福音も私たちの信仰も、元々隠そうとしても隠し切れるものではないのだから、人を恐れて隠しても意味がないのだから、ということです。

 第三は28節で言われたことです。すなわち、人からの迫害や攻撃など、比較にならない遥かに恐るべきお方、永遠者・絶対者なる神がおられるからです。人は私たちの体を殺すことはできますが、私たちの魂には指一本触れることができません。しかし、神は28節、魂も体もゲヘナ(地獄)で永遠に滅ぼすことがおできになります。従って、この神をこそ真(しん)に恐れるなら、ひと時、私たちの体に苦痛を与えても、魂に何一つできない者たちなど、どうして恐れる必要があろうか、ということです。

 第四は、29~31節で言われたことです。天の父なる神が、御子イエスを心から信じ、依り頼むご自分の子供たちを、大切な存在として極みまで愛し、完璧なまでに摂理によりお守り下さっているからということです。雀1羽、私たちの髪の毛1本、天の父の許しがなければ、決して地に落ちず、失われない!最終的に私たちの益となるなら、神は私たちが死ぬことも良しとされます!けれども、それは一瞬たりとも私たちが神の救いと愛から洩れることではありません。ですから、「人を恐れてはいけない」ということです。

 話を戻します。こういう主イエスの行き届いた恵みの教えと約束が既にあるにも関らず、人の前でなおもイエスを否定するのですから、これは相当な不信仰と言わなければなりません。ですから、イエスは最後に32、33節で厳しいことをハッキリ言われるのです。このことをよく心に留めたいと思います。

 さて、心に留めておきたい大きな二つ目の点に進みます。

 それは、人にイエス・キリストの福音を、あるいはまた自分の信仰を告白することで、私たちの言動の一つ一つや私たちの生き方そのものに責任が伴うことになりますが、実はそのことが私たちを一層主イエス・キリストと永遠の天の御国に固く結び付け、必ず私たちを祝福するのです。

 確かに、人に自分の信仰を表明しなければ、私たちは楽に生きられるかも知れません。クリスチャンとしての責任が伴わないからです。しかし、責任が伴わないこと程、私たちを駄目にするものはありません。一方、最後の審判を心に留めることは、責任ある人生を私たちに送らせます。そしてそれは、最終的に私たちの人格をも主イエス・キリストに似る者に清めます!何と素晴らしいでしょうか!何と感謝なことでしょうか!ですから、イエスは32、33節の御言葉を語られたのです。

 最後に、大きな三つめの点を見て終ります。それは、万一私たちが、弱さのために人の前でイエスを否定するという重い罪を犯したとしても、なお、赦しの可能性のあることを、聖書が伝えていることです。

 使徒ペテロはどうだったでしょうか。主イエスが捕えられた時、彼はイエスを否定したのでした。イエスのことで彼を怪しむ人に、ペテロはマタイ26:70「何を言っているのか、私には分からない」と言い、また72節「そんな人は知らない」と誓って再び否定し、最後に74節「嘘なら呪われても良いと誓い始め、『そんな人は知らない』」と言い、三度否定したのです。すると、すぐ鶏が鳴き、彼は外に出て激しく泣きました。彼はどんなに自分が情けなかったことでしょう!

 けれども、こんなペテロをイエスはなおも愛し、既にルカ22:32で「私はあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われました。ペテロはとんでもない罪を犯しました。でも悔い改め、事実、立ち直れました。そして最後までイエスを告白し、皆を力づけ、生涯を主に献げました。

 私たちも、弱さのために人の前でイエスを否定するようなことが万一ありましても、主イエスの憐みに満ちた執り成しの祈りを思い起こし、悔い改め、自分を絶望に追いこまないようにしたいと思います。これは何と大きな慰めでしょうか。

 無論、だからといって、主イエスを否定することを決して安易に考えてはなりません。今朝のイエスの御言葉を深く心に刻み、いつか神の法廷に立つ時を覚え、主の福音に生き、私たちの貧しい信仰告白をも永遠に価値あるものとして尊んで下さる主イエスと共に、また皆で励まし合いながら、歩みたいと思います。

 最後に、今年の当教会の標語の元になった御言葉を二つお読みして、終ります。

 ローマ1:16「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人を初めギリシア人にも、信じる全ての人に救いをもたらす神の力です。」

 ローマ12:12「望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈りなさい。」

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