聖書の言葉 20:17 あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、全てあなたの隣人のものを欲してはならない。出エジプト記 20章17節 メッセージ 先週に続き、今日も、神の大切な道徳律法の中心にあります十戒を学び、神の御心を一層よく知り、罪と戦い、ますます神に喜ばれる者にされたいと思います。今日は、第十戒の学びの2回目となり、通算では57回目となります。17節「あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、全てあなたの隣人のものを欲してはならない。」 前回は、第十戒が問題としているのは、自分自身をもっと向上させたいといった場合の私たちの欲ではなく、隣人、すなわち、他者のものにまで広がり、それを自分のものにしたいという欲であることを学びました。そういう意味で、これを貪りと呼ぶのであれば、第十戒は「貪欲を禁じている」と言って良いと思います。 今日は、特に二つの点に留意したいと思います。 一つの点は、先程、第十戒が罪とするのは、「隣人、すなわち、他者のものにまで広がり、それを自分のものにしたいという欲」だと言いましたが、その隣人や他者が更に高じますと、「神のように自分はなりたい」という最大の罪に至るという点です。 十戒の第一戒は、出エジプト記20:3にある通り、「あなたには、私以外に、他の神があってはならない」です。 エデンの園で人類の始祖アダムは妻エバと共に罪を犯しましたが、蛇の姿をとったサタン・悪魔は、最後にどのようにして彼女の背中を押したでしょうか。蛇は言いました。創世記3:5「それを食べるその時、目が開かれて、あなた方が神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」 「いちいち神に教えられる必要はなく、自分で善悪を知ることができる者になれる」という誘惑ですが、注目したいのは「神のようになって」という点です。アダムとエバが神に背いて堕落した後、神もご自分に向ってこう言われました。創世記3:22「見よ。人は我々の内の一人のようになり、善悪を知るようになった。」 隣人、あるいは他者のものにまで向けられる私たち人間の貪欲は、最終的には、天地を造られた神ご自身のものにまで、いいえ、それどころか、「神のようになりたい」、つまり、「自分を神とする」というとんでもない所までエスカレートするのです。 これは偶像礼拝に他なりません。ですから、コロサイ3:5は「貪欲は偶像礼拝」だと断罪するのです。人間の果てしない欲が究極的に向うものが、如何に恐るべき罪かがよく分かると思います。 こうしてみますと、人間の特に欲についての戒めが最後の十番目に置かれている理由がよく分るのではないでしょうか。第十戒は、まさに第一戒と呼応関係にあるのであり、十個の戒めを締め括る上で極めて重要な戒めなのです。 これと関連しますが、もう一点見ておきます。それは私たちの心の中の欲にまで十戒が焦点を当てている点です。 この世の法律では、実際の行動に至らなければ、罪として問われません。近年は言葉も問題として取り上げられるようになり、良くなったと思います。公の場で口にした言葉が社会的に問題視され、辞職する知事も出ました。職場や学校、いいえ、家庭内でも、パワハラやモラハラという言い方で、言葉が問題にされるようにもなりました。言葉の暴力は、実際、どれ程他者を傷つけることでしょう。 しかし神は更に深く、私たちの言葉や行いとなって現れるそれ以前の心の中の隠れた思い、特に私たちの欲そのものについても問われるのです。ですから、1545年に出されたジュネーヴ教会信仰問答の問216で、カルヴァンは第十戒を解説し、「今や私たちを罪に駆り立てる如何なるよこしまな欲望も心に入り込むことを許さぬ程の、厳格な完全さが求められている」(渡辺信夫訳)とまで言ったのでした。 いいえ、誰よりも私たちの救い主イエス・キリストご自身、マタイ5:27で「情欲を抱いて女を見る者は誰でも、心の中で既に姦淫を犯した」のだと言い、6章では、ずるくて醜い利己的な欲から生じる偽善に警告を与えられるのです。 その意味で、前回の学びの最後に引用しました箴言4:23は、とても大事な御言葉です。もう一度読みます。「何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。命の泉はこれから湧く。」 全ての罪深い醜い私たちの言葉と行いの泉であり源である自分の心の中、とりわけ私たちのどうしようもなく自己中心的な欲から生じる心の動きや自分の思いを、ハッキリ意識的に自分で検証し、「見張る」必要が私たちにはあります。私たちが、自分の欲と、改めて真剣に戦うことができるように、恵みと憐みに満ちた主イエス・キリストの導きを、心から祈りたいと思います。 関連する説教を探す 2024年の祈祷会 『出エジプト記』
先週に続き、今日も、神の大切な道徳律法の中心にあります十戒を学び、神の御心を一層よく知り、罪と戦い、ますます神に喜ばれる者にされたいと思います。今日は、第十戒の学びの2回目となり、通算では57回目となります。17節「あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、全てあなたの隣人のものを欲してはならない。」
前回は、第十戒が問題としているのは、自分自身をもっと向上させたいといった場合の私たちの欲ではなく、隣人、すなわち、他者のものにまで広がり、それを自分のものにしたいという欲であることを学びました。そういう意味で、これを貪りと呼ぶのであれば、第十戒は「貪欲を禁じている」と言って良いと思います。
今日は、特に二つの点に留意したいと思います。
一つの点は、先程、第十戒が罪とするのは、「隣人、すなわち、他者のものにまで広がり、それを自分のものにしたいという欲」だと言いましたが、その隣人や他者が更に高じますと、「神のように自分はなりたい」という最大の罪に至るという点です。
十戒の第一戒は、出エジプト記20:3にある通り、「あなたには、私以外に、他の神があってはならない」です。
エデンの園で人類の始祖アダムは妻エバと共に罪を犯しましたが、蛇の姿をとったサタン・悪魔は、最後にどのようにして彼女の背中を押したでしょうか。蛇は言いました。創世記3:5「それを食べるその時、目が開かれて、あなた方が神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」
「いちいち神に教えられる必要はなく、自分で善悪を知ることができる者になれる」という誘惑ですが、注目したいのは「神のようになって」という点です。アダムとエバが神に背いて堕落した後、神もご自分に向ってこう言われました。創世記3:22「見よ。人は我々の内の一人のようになり、善悪を知るようになった。」
隣人、あるいは他者のものにまで向けられる私たち人間の貪欲は、最終的には、天地を造られた神ご自身のものにまで、いいえ、それどころか、「神のようになりたい」、つまり、「自分を神とする」というとんでもない所までエスカレートするのです。
これは偶像礼拝に他なりません。ですから、コロサイ3:5は「貪欲は偶像礼拝」だと断罪するのです。人間の果てしない欲が究極的に向うものが、如何に恐るべき罪かがよく分かると思います。
こうしてみますと、人間の特に欲についての戒めが最後の十番目に置かれている理由がよく分るのではないでしょうか。第十戒は、まさに第一戒と呼応関係にあるのであり、十個の戒めを締め括る上で極めて重要な戒めなのです。
これと関連しますが、もう一点見ておきます。それは私たちの心の中の欲にまで十戒が焦点を当てている点です。
この世の法律では、実際の行動に至らなければ、罪として問われません。近年は言葉も問題として取り上げられるようになり、良くなったと思います。公の場で口にした言葉が社会的に問題視され、辞職する知事も出ました。職場や学校、いいえ、家庭内でも、パワハラやモラハラという言い方で、言葉が問題にされるようにもなりました。言葉の暴力は、実際、どれ程他者を傷つけることでしょう。
しかし神は更に深く、私たちの言葉や行いとなって現れるそれ以前の心の中の隠れた思い、特に私たちの欲そのものについても問われるのです。ですから、1545年に出されたジュネーヴ教会信仰問答の問216で、カルヴァンは第十戒を解説し、「今や私たちを罪に駆り立てる如何なるよこしまな欲望も心に入り込むことを許さぬ程の、厳格な完全さが求められている」(渡辺信夫訳)とまで言ったのでした。
いいえ、誰よりも私たちの救い主イエス・キリストご自身、マタイ5:27で「情欲を抱いて女を見る者は誰でも、心の中で既に姦淫を犯した」のだと言い、6章では、ずるくて醜い利己的な欲から生じる偽善に警告を与えられるのです。
その意味で、前回の学びの最後に引用しました箴言4:23は、とても大事な御言葉です。もう一度読みます。「何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。命の泉はこれから湧く。」
全ての罪深い醜い私たちの言葉と行いの泉であり源である自分の心の中、とりわけ私たちのどうしようもなく自己中心的な欲から生じる心の動きや自分の思いを、ハッキリ意識的に自分で検証し、「見張る」必要が私たちにはあります。私たちが、自分の欲と、改めて真剣に戦うことができるように、恵みと憐みに満ちた主イエス・キリストの導きを、心から祈りたいと思います。