2024年03月28日「一粒の麦、地に落ちて死ぬなら」
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一粒の麦、地に落ちて死ぬなら
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 12章24節~25節
聖書の言葉
12:24 まことに、まことに、あなた方に言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。
12:25 自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至ります。ヨハネによる福音書 12章24節~25節
メッセージ
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受難週祈祷会の今日は、ヨハネの福音書12:24、25に注目致します。
24節「まことに、まことに、あなた方に言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」
前後の文脈から分りますように、イエスは二つのことを語られます。一つは、ご自分のこと、つまり、ご自分が死ぬことの意義を語られます。
一粒の麦は地に落ち、土に埋められて、初めて多くの実を結びます。同様に、主イエスも十字架で死なれることにより、初めて多くの人に罪の赦しと永遠の命の救いが及ぶということです。全く清い神の御子イエスが私たちの罪をことごとく背負い、私たちに代って、罪に対する神の聖なる怒りと呪いの一切合切を受けて死ぬことで贖いが完成し、私たちはただ御子イエスへの信仰により本当に罪赦され、永遠の命に与るのです。ローマ6:23は言います。「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命です。」
もう一点は、私たち自身に関係します。24、25節「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至ります。」
事柄を明確にするため、イエスは誇張してお話されます。生れつき私たちの内にある自己中心の自我に死ぬ、すなわち、私たちが自分自身から解放されることの大切さをイエスは語られるのです。25節「自分の命を愛する者」、すなわち、自分の損得や満足、また自分が人からどう見られているかなど、常に自分を中心に考え、自分に執着する人は、「それを失う。」つまり、却って自分を駄目にし卑しくし、自分を滅ぼすことになるということです。
しかし、25節「この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至ります。」つまり、イエス・キリストへの信仰により、古い自我に死に、自分への執着を断ち切るなら、イエスによる救いの御業(みわざ)が一層豊かに展開される場を私たちはイエスに明け渡すことになり、永遠の命は勿論、生きている今でも神と人に喜ばれ、愛、清い喜び、平安など、御霊の実(ガラテヤ5:22、23参照)を多く結ぶことを許されるということです。
1997年、87歳で天に召されたマザー・テレサが、インドのコルカタで多くの貧しい人々に仕え、神にも人にも喜ばれる実を沢山結び、世界中に影響を与えたことは周知の通りです。その意味では、聖女と呼ばれても変ではないでしょう。
しかし、実は彼女も、自分が罪人であることをよく自覚し、自分を鋭く見つめ、自我から解放されることを切に主に祈り求める人でした。彼女のこんな祈りがあります。
「主よ、私は思い込んでいました。私の心が愛に満ちていると/ でも心に手を当ててみて、気づかされました。私が愛していたのは他人ではなく、他人の中の自分を愛していた事実に/ 主よ、私が自分自身から解放されますように。
主よ、私は思い込んでいました。私は何でも与えていたと/ でも、胸に手を当ててみて、分ったのです。私の方こそ与えられていたのだと/ 主よ、私が自分自身から解放されますように。
主よ、私は信じ切っていました。自分が貧しいことを/ でも、胸に手を当ててみて、気づかされました。私が思い上がりと妬みとの心に膨れ上がっていたことを/ 主よ、私が自分自身から解放されますように。」
こうした真摯な祈りと信仰と共に、彼女は自分の生きる目的を、神と人に仕え、自分を捧げることに定め、主の喜ばれる実を結ぶ生涯を生きたのでした。
彼女の別の祈りは、こうです。
「主よ、今日一日、貧しい人や病んでいる人を助けるために、私の手をお望みでしたら、今日、私のこの手をお使い下さい。
主よ、今日一日、友を欲しがる人々を訪れるために、私の足をお望みでしたら、今日、私のこの足をお貸しいたします。
主よ、今日一日、優しい言葉に飢えている人々と語り合うため、私の声をお望みでしたら、今日、私のこの声をお使い下さい。
主よ、今日一日、人は人であるという理由だけで、どんな人でも愛するために、私の心をお望みでしたら、今日、私の心をお貸し致します。」
使徒パウロは言います。ガラテヤ2:19、20「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられるのです。」
受難週の今、私たちは主イエスと共に十字架につけられ、すなわち、古い自分に死に、愛する主イエスが私たちの内に生き、むしろ主の愛と宣教の道具として私たちが用いられ、きよい救いの喜びや感謝などの実が、もっともっと多くの方々の内に結ばれるように、自分を献げたいと思います。