聖書の言葉 29:29 隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし現されたことは永遠に私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこのみおしえの全ての言葉を行うためである。申命記 29章29節 メッセージ 1995年1月17日、阪神淡路大震災が起って6434人が亡くなり、重軽傷者は43792人も出ました。2011年3月11日には東日本大震災で15899人が亡くなり、関連死の方も3784人。行方不明の方は今も沢山おられます。そしてこの1月1日には能登半島地震が起き、二百数十名の方が亡くなり、現在も非常に多くの方が辛い生活を強いられておられます。 震災はその最たるものですが、色々な自然災害に襲われて大勢の方が亡くなり、多くの人にその後も長く苦しみが続くという厳しい現実が、この世にはあります。また私たちは、この世でひどく心痛める事件や事故に遭遇します。自分自身や自分の家族がそれに巻き込まれることもあれば、国内外を問わず、夥しい(おびただしい)数の方が遭遇し、私たちは言葉を失うことがあります。親しい方が突如、事故や病気や事件で重い障害やPTSDを抱えるようになられたり、亡くなることもあります。 こうした悲惨な災害、事故、病気、事件などの現実を前にして、「もし神がいるなら、どうしてこんなひどいことが起るのをとめないのか。だから、私は神なんか信じない」と言う人は少なくありません。クリスチャンの中にも「神は、何故こんな悲惨なことが起きるのを許されるのか」と当惑する者もいます。私たちは、どう考え、どうあるべきなのでしょぅか。 少なくとも、評論家的な冷たい発言は厳に慎むべきと言えるでしょう。東日本大震災が起った時、当時の石原都知事は「日本人は津波で我欲を洗い落とす必要がある」と発言し、批判されて翌日それを撤回しました。韓国のある純福音派の教会の牧師は、「日本は神の罰を受けたのだ」という主旨のことを言いました。しかし、苦しむ方々を前に私たちのすることは、論評ではありません。 聖書を読みますと、神の御心(みこころ)に二つの面のあることが分かります。先程お読みしました旧約聖書の申命記29:28から分かりますが、私たち人間に隠されている御心と、現され啓示されている御心です。 まず有限な私たち人間には分らず、知らされていなくて隠されている神の御心については、私たちは安易に推測したり論評してはならず、それがハッキリ分る時まで、場合によっては天国で神に教えて頂く時まで、沈黙していることが大切です。イザヤ55:8、9で神はこう言われます。「私の思いは、あなた方の思いと異なり、あなた方の道は、私の道と異なるからだ。-主の言葉―天が地よりも高いように、私の道はあなた方の道より高く、私の思いはあなた方の思いよりも高い。」 無論、全ては神の支配の下にあります。神の許しがなければ、私たちの髪の毛1本すら、地に落ちません。しかし、神の御心がハッキリ示されていない場合、私たちは神の領域にまで踏み込んではならず、沈黙する謙り(へりくだり)と自己抑制が大切です。 一方、神が現し啓示され、私たちが知ることの出来る神の御心には、私たちは従い、すべきことをするのです。申命記29:29は、隠されている神の御心と現されている神の御心とを区別し、後者に対して私たちの取るべき態度をこう教えます。「しかし現されたことは永遠に私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこのみ教え(ヘブル語「トーラー)。通常は「律法」と訳されます)の全ての言葉を行うためである。」 では、私たちの判断や行動の規準とすべき「現されたこと、このみ教えの全ての言葉」とは何でしょうか。イエス・キリストが来られた後の新約時代の信仰者にとっては、色々あります。しかし特に災害や病気、事故などで苦しむ方々のことを思う時、現された神の御心の中心は、イエスが律法を要約されましたマタイ22:39の「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」と、ローマ12:15「喜んでいる者たちと共に喜び、泣いている者たちと共に泣きなさい」でしょう。 主イエスは決して傍観的・評論家的態度ではなく、苦しむ夥しい数の人に関わられ、福音を語られ、疲れ果てて舟の上で転寝(うたたね)をされる位、身を挺して癒しの業(わざ)をなさいました。 その主イエスの愛に倣い、初代教会やその後の時代のクリスチャンたちも、病気や苦難のために苦しんでいる多くの人の隣人となり、泣いている人と共に泣き、祈りながら懸命にお世話をしました。313年、コンスタンティヌス大帝により、キリスト教はローマ帝国内で公認されました。しかし、前にも紹介しましたが、50年後、キリスト教を捨てて背教者と呼ばれた皇帝ユリアヌスの一時期、キリスト教は再び迫害されました。しかし、彼はクリスチャンの愛の実践には感銘を受けていました。彼は361年に声明書を発布し、「キリスト教徒たちが我々の神の強力な敵になった理由は、病人や貧困者に対する彼らの兄弟愛のためである」と言い、全てのローマ市民はこの精神を学ぶようにと命じました。何と興味深いでしょうか。 とにかく、神がはっきり啓示しておられないことで議論や論評をして時間を費やすのではなく、苦しんでいる方々に、神の御子イエス・キリストに倣って、寄り添い、私たちの出来ることを精いっぱいして仕えることこそ、神の現された御心です。私たちも是非そうしたいと思います。 関連する説教を探す 2024年の祈祷会 『申命記』
1995年1月17日、阪神淡路大震災が起って6434人が亡くなり、重軽傷者は43792人も出ました。2011年3月11日には東日本大震災で15899人が亡くなり、関連死の方も3784人。行方不明の方は今も沢山おられます。そしてこの1月1日には能登半島地震が起き、二百数十名の方が亡くなり、現在も非常に多くの方が辛い生活を強いられておられます。
震災はその最たるものですが、色々な自然災害に襲われて大勢の方が亡くなり、多くの人にその後も長く苦しみが続くという厳しい現実が、この世にはあります。また私たちは、この世でひどく心痛める事件や事故に遭遇します。自分自身や自分の家族がそれに巻き込まれることもあれば、国内外を問わず、夥しい(おびただしい)数の方が遭遇し、私たちは言葉を失うことがあります。親しい方が突如、事故や病気や事件で重い障害やPTSDを抱えるようになられたり、亡くなることもあります。
こうした悲惨な災害、事故、病気、事件などの現実を前にして、「もし神がいるなら、どうしてこんなひどいことが起るのをとめないのか。だから、私は神なんか信じない」と言う人は少なくありません。クリスチャンの中にも「神は、何故こんな悲惨なことが起きるのを許されるのか」と当惑する者もいます。私たちは、どう考え、どうあるべきなのでしょぅか。
少なくとも、評論家的な冷たい発言は厳に慎むべきと言えるでしょう。東日本大震災が起った時、当時の石原都知事は「日本人は津波で我欲を洗い落とす必要がある」と発言し、批判されて翌日それを撤回しました。韓国のある純福音派の教会の牧師は、「日本は神の罰を受けたのだ」という主旨のことを言いました。しかし、苦しむ方々を前に私たちのすることは、論評ではありません。
聖書を読みますと、神の御心(みこころ)に二つの面のあることが分かります。先程お読みしました旧約聖書の申命記29:28から分かりますが、私たち人間に隠されている御心と、現され啓示されている御心です。
まず有限な私たち人間には分らず、知らされていなくて隠されている神の御心については、私たちは安易に推測したり論評してはならず、それがハッキリ分る時まで、場合によっては天国で神に教えて頂く時まで、沈黙していることが大切です。イザヤ55:8、9で神はこう言われます。「私の思いは、あなた方の思いと異なり、あなた方の道は、私の道と異なるからだ。-主の言葉―天が地よりも高いように、私の道はあなた方の道より高く、私の思いはあなた方の思いよりも高い。」
無論、全ては神の支配の下にあります。神の許しがなければ、私たちの髪の毛1本すら、地に落ちません。しかし、神の御心がハッキリ示されていない場合、私たちは神の領域にまで踏み込んではならず、沈黙する謙り(へりくだり)と自己抑制が大切です。
一方、神が現し啓示され、私たちが知ることの出来る神の御心には、私たちは従い、すべきことをするのです。申命記29:29は、隠されている神の御心と現されている神の御心とを区別し、後者に対して私たちの取るべき態度をこう教えます。「しかし現されたことは永遠に私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこのみ教え(ヘブル語「トーラー)。通常は「律法」と訳されます)の全ての言葉を行うためである。」
では、私たちの判断や行動の規準とすべき「現されたこと、このみ教えの全ての言葉」とは何でしょうか。イエス・キリストが来られた後の新約時代の信仰者にとっては、色々あります。しかし特に災害や病気、事故などで苦しむ方々のことを思う時、現された神の御心の中心は、イエスが律法を要約されましたマタイ22:39の「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」と、ローマ12:15「喜んでいる者たちと共に喜び、泣いている者たちと共に泣きなさい」でしょう。
主イエスは決して傍観的・評論家的態度ではなく、苦しむ夥しい数の人に関わられ、福音を語られ、疲れ果てて舟の上で転寝(うたたね)をされる位、身を挺して癒しの業(わざ)をなさいました。
その主イエスの愛に倣い、初代教会やその後の時代のクリスチャンたちも、病気や苦難のために苦しんでいる多くの人の隣人となり、泣いている人と共に泣き、祈りながら懸命にお世話をしました。313年、コンスタンティヌス大帝により、キリスト教はローマ帝国内で公認されました。しかし、前にも紹介しましたが、50年後、キリスト教を捨てて背教者と呼ばれた皇帝ユリアヌスの一時期、キリスト教は再び迫害されました。しかし、彼はクリスチャンの愛の実践には感銘を受けていました。彼は361年に声明書を発布し、「キリスト教徒たちが我々の神の強力な敵になった理由は、病人や貧困者に対する彼らの兄弟愛のためである」と言い、全てのローマ市民はこの精神を学ぶようにと命じました。何と興味深いでしょうか。
とにかく、神がはっきり啓示しておられないことで議論や論評をして時間を費やすのではなく、苦しんでいる方々に、神の御子イエス・キリストに倣って、寄り添い、私たちの出来ることを精いっぱいして仕えることこそ、神の現された御心です。私たちも是非そうしたいと思います。