2024年03月03日「蛇のように賢く、鳩のように素直で」

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蛇のように賢く、鳩のように素直で

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 10章16節~23節

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聖句のアイコン聖書の言葉

10:16 いいですか。私は狼の中に羊を送り出すようにして、あなた方を遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。
10:17 人々には用心しなさい。彼らはあなた方を地方法院に引き渡し、会堂でむち打ちます。
10:18 また、あなた方は、私のために総督たちや王たちの前に連れて行かれ、彼らと異邦人に証しをすることになります。
10:19 人々があなた方を引き渡した時、何をどう話そうかと心配しなくても良いのです。話すことは、その時、与えられるからです。
10:20 話すのはあなた方ではなく、あなた方のうちにあって話される、あなた方の父の御霊です。
10:21 兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。
10:22 また、私の名のために、あなた方は全ての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。
10:23 一つの町で人々があなた方を迫害するなら、別の町へ逃げなさい。まことに、あなた方に言います。人の子が来る時までに、あなた方がイスラエルの町々を巡り終えることは、決してありません。マタイによる福音書 10章16節~23節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、マタイの福音書10章に戻って学びます。

 前回は1~15節を通して、主イエスが弟子たちの中から12使徒を選び、彼らを町や村へ伝道に遣わす時にお教えになった伝道の五つの原則を学びました。時代も状況も今と大きく異なりますが、クリスチャンは皆、言葉と生活によりイエス・キリストを証ししている点では伝道者です。ですから、しっかり主の教えを心に留めたいと思います。

 なお、この伝道ということで、前回も申しましたが、念のために再確認致します。クリスチャンが伝道するのは、キリスト教の勢力拡大といったことが目的ではありません。目的は、生まれ持った罪の性質のため、死後、神の裁きの下に永遠に滅び、また生きている間も思いと言葉と行いにおいて罪を犯し、傷つけ合ったりしている惨めな私たち罪人の皆が、イエス・キリストによる永遠の救い、言い換えますと、真(まこと)の幸せに与ることなのです。神はそれを一番喜ばれます。

 さて、今朝はマタイ10:16以降から、伝道に伴う様々な困難に対してイエスが語られた基本的な心構えを学びます。どんなことを教えられるでしょうか。

 イエスは、伝道には必ず困難が伴うと言われます。16節「いいですか。私は狼の中に羊を送り出すようにして、あなた方を遣わします。」

 「いいですか。私は…」は元のギリシア語聖書では、「見なさい。この私は」という感じの言い方になっています。伝道には必ず困難が伴う!このことをイエスは強調されるのです。ルカ10:3によりますと、別に72人の弟子を全ての町や場所に先に遣わす時にも、イエスは同じことを教えておられます。伝道には、迫害を初め、必ず困難が伴う!従って、クリスチャンはそれを予め覚悟しておく必要があります。この世全体が神に背を向ける罪の世なのですから、伝道に困難が伴うのは当然なのです。

 イエスは17節「人々には用心しなさい。彼らはあなた方を地方法院に引き渡し、会堂で鞭打ちます」と言われます。「地方法院」とは町や村にあるユダヤ教議会のことであり、旧約聖書にある律法・戒めの違反者に有罪判決を下し、会堂で鞭打つ権威も持っていました。

 つまり、イエスは第一に宗教的迫害を予告されます。実際、クリスチャンは当時のユダヤ教から異端視され、非常に激しく迫害されました。後にパウロは「ユダヤ人から40に1つ足りない鞭を受けたことが5度」とⅡコリント11:24、25で書いているほどです。

 第二に、イエスは政治的迫害をも予告されます。マタイ10:18「私のために総督たちや王たちの前に連れて行かれ」と、イエスは言われます。「総督たち」とは、ローマ帝国から任じられた地方総督たちのことです。「王たち」とは、当時唯一の王であったローマ皇帝から任じられたヘロデなどの領主を指します。使徒の働きが伝えますように、後に使徒たちは彼らの前に引き出され、とても辛い扱いを受けました。キリスト教伝道者は、王やその時の国家体制に反逆する政治犯として迫害されることが多いのです。

 第三に、悲しいことですが、家族からも迫害されます。21節「兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子供たちは両親に逆らって立ち、死に至らせます」とイエスは語られます。申命記21:18~21によりますと、昔のイスラエルでは、息子が強情で親の言うことを全く聞かず、放蕩にふけり、大酒飲みであるような時、両親は町の長老たちに訴え出て、息子を死刑にすることさえ出来ました。

 悲しいことですが、クリスチャンになった者が家族から迫害され、時には殺されたことも、その後の歴史には見られます。今はそこまでのことは殆どないと思いますが、家族の中で辛い思いをしているクリスチャンは少なくないでしょう。

 イエスはこれらの厳しさをよく分らせるために、誇張して言われます。22節「私の名のために、あなた方は全ての人に憎まれます。」

 この点で、イエス・キリストは正直だと言えると思います。伝道は、多くの人に真の幸せに与ってほしいがための愛の行為なのですが、この世は根本的に罪の世ですから、迫害は避けられません。最初は優しく、うまい言葉で巧みに人を誘い込み、しかし後で私たちからいっぱい吸い取るひどい宗教や勉強会やセミナーと称する集会もあります。ですが、主イエスは、私たちがクリスチャンであることや伝道する上での苦労を最初から正直に語り、隠したりなさいません。ですから、私たちも最初から覚悟の上でクリスチャンになり、生きるのであり、伝道もするのです。

 そこで、イエスは大切な心構えをお教えになります。16節後半です。「ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい」と。

 「蛇のように賢く」とあります。創世記3章は、悪魔が蛇の姿で人間を巧みに誘惑したことを伝えていますが、昔から多くの国で、蛇は知恵や抜け目なさの象徴とされました。音も立てずに獲物にスーッと近づき、捕獲し、しかし、手ごわい相手で勝てないと分るとスーッと逃げます。そういう姿から、蛇は賢いとされたのでしょう。

 イエスは、困難が伴う福音の証しにおいては、突進するだけでなく、「賢くあれ」と助言されます。具体的には、第一に17節「人々には用心」することです。他の日本語聖書は、注意せよ、警戒せよと訳します。人間には皆、生れながらに罪の性質があります。ですから、単純に人を信用してはならない、ということです。

 ヨハネの福音書2章の伝えるカナの結婚式で、イエスは水を葡萄酒に変える奇跡を行い、「多くの人がイエスの行われた徴を見て、その名を信じた」と2:23は伝えます。しかしすぐ、24節「イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。全ての人を知って」いたからだ、と伝えます

 人を信用する方が、私たちには楽かも知れません。けれども、人間には皆罪の性質があります。従って、用心し警戒することも、とても大切なのです。

 第二に、人をよく見て接することも大切な知恵です。

 蛇は相手をよく見て賢く行動します。伝道する時もこれが大切なのです。後にパウロはユダヤ最高法院で尋問されますが、使徒の働き23:6は、議員の一部がサドカイ派、一部がパリサイ派であることを彼が知り、パリサイ派の人たちに親しく訴えたことを伝えています。自分を敵視する人たちの中にも違いのあることを知り、そこでパウロは賢く訴え、その時は殺されずに、裁判を受ける機会を得ました。相手をよく洞察して接する知恵が大切なのです。

 第三に、逃げることも大切です。

 蛇は賢く逃げます。クリスチャンも逃げて耐え忍ぶ大切さも教えられます。イエスは言われます。22、23節「しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。一つの町で人々があなた方を迫害するなら、別の町へ逃げなさい。まことにあなた方に言います。人の子が来る時までに、あなた方がイスラエルの町を巡り終えることは、決してありません。」

「人の子」とは、イエスご自身を指します。

 23節の最後は解釈の難しい所です。エルサレムがローマ軍に徹底的に破壊された紀元66~70年のことと見て、不信仰なユダヤ人に神の裁きが下った時とか、世の終りのイエス・キリストの再臨の時と見る解釈もあります。要は、近々起ることも世の終りのことも含め、何らかの形でイエスは来て弟子たちを救われるから、逃げることも大切だということでしょう。

 クリスチャンは「イエスを否定せよ」と強要されるなら、殉教も選びますし、どんな死に方でも神は苦痛に耐えさせ、私たちの魂を必ず救われます。

 しかし、イエスを否定することまで強要されるのでないなら、逃げることも大切なのです。使徒の働きが伝える初代教会の信徒たちのように、迫害されては他の町へ逃げ、そこで生き、証しすることもとても大切なのです。

 立ち向うだけでなく、逃げることも含めて、イエスは「蛇のように賢く」、知恵深くあれと言われます。イエス・キリストの広い大きな御心を教えられます。弱い私たちにとって、何と大きな慰めでしょうか。

 神の御子イエスは、いつか必ず再臨され、福音により神と人に誠実に仕えた人の労苦と祈りと涙の全てに必ず報いて下さいます。ですから、Ⅰコリント16:22に倣って「主よ。来て下さい」(原文ではアラム語「マラナ・タ」)と祈り、黙示録22:20「しかり、私はすぐに来る」と言われる主イエスの言葉をしっかり心に刻み、言葉と生活を通して、神が最も喜ばれる周囲の方々への福音の証しに、忍耐強く、また愛と誠意を込めて努めたいと思います。

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