2024年02月29日「私は主のもの」

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私は主のもの

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
イザヤ書 43章1節

聖句のアイコン聖書の言葉

43:1 だが今、主はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。「恐れるな。私があなたを贖ったからだ。私はあなたの名を呼んだ。あなたは、私のもの。」イザヤ書 43章1節

原稿のアイコンメッセージ

 私たちの教会は、今年、「福音の力を信じ、喜びと希望をもって歩もう」という積極的な教会標語を掲げて歩んでいます。この標語を達成するためには、私たちが主なる神からどんなに大きな幸せを頂いているかを、よく分っていることが大切です。そこで、今日は「私は主のもの」と題して、私たち信仰者に与えられているこの上ない幸せの一つを確認したいと思います。

 先程読みましたイザヤ43:1の最後の所で、全知全能の真(まこと)の神は、旧約時代のイスラエルの信仰者にこう言われました。「あなたは、私のもの。」すなわち、ただ信仰により神の民とされた彼らは、もはや自分自身のものではなく、天地万物を全くの無から創られ、今も万物を保持し統治し導いておられる主ご自身のものであり、神の所有だということです。これは大変興味深いと思います。

 ところで、ここを読みますと、私が淀川キリスト教病院の牧師として働いていた時のことを、思い出します。私の関った患者さんの一人が脳外科手術を受けることになりました。開頭手術であり、不安を強く抱いておられました。その時、私はここの1節、2節を読んで祈りました。そこを読みます。「だが今、主はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。『恐れるな。私があなたを贖ったからだ。私はあなたの名を呼んだ。あなたは、私のもの。あなた方が水の中を過ぎる時も、私はあなたと共にいる。川を渡る時も、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに追いつかない。』」

 これを聞かれて患者さんは勇気づけられ、落ち着いて手術に臨まれました。聖書にある神の御言葉(みことば)が大きな力を持っていることを、改めて知ったものです。

 話を戻します。私たちの幸せの一つに、何かを所有することがありますね。1954年(昭和29年)に小学校に入った私の少年時代は、日本全体がまだ貧しい時でした。それでも私の家より裕福な家は沢山あり、子供用の野球グローブや子供用の自転車を親に買ってもらって持っている友達が何人もいました。私は、といいますと、グローブはいつも友達に借り、自転車は家にあった大人用の大きな中古品に乗っていました。恥ずかしかったですが、家の経済状態を知っていましたので、親にねだることはせず、黙って我慢していました。ですから、安い物ではあっても父に初めてグローブを買ってもらい、小学6年生の時に自分の自転車を買ってもらった時は、どんなに嬉しかったでしょう!しょっちゅう掃除をして大切にし、いつもピカピカに磨いていました。自分のものを所有できる喜びは、とても大きいですね。

 しかし、それと共に、自分が誰かのものであるという喜び、幸せも大変大きいと思います。私の子供の頃、家では犬を飼っていました。体も小さく、どちらかというと気の弱い犬でしたが、面白いことに、散歩に行った時など、私が一緒ですと落ち着いていて、大きな犬にも吠えて向って行っていました。飼い主が一緒ですと弱い犬も落着き、強くなれることを知ったものです。

 これは興味深いと思います。そしてこれは私たち人間にも当てはまるのではないでしょうか。自分が誰かのもの、誰かの所有というと、不自由とか束縛という概念がまず浮かびますが、実はそれだけではなく、自分が誰かのものである故の平安、落ち着きという幸せもあると思います。特に自分が心から尊敬している人とか、私たちを愛してくれている大好きな人のものであるとか、その人のそばにおれるなら、どんなに幸せでしょう。

 幼い子供は、いくら強がっていても、親がいなくなったことが分ると、急に不安になり、泣き叫ぶこともありますね。でも、親にしっかり手を握られ、ギュッと抱かれているなら、どんなに安心でしょうか。元気も出ます。

 人間の親子でもそうであるなら、まして、天地万物を創られ、今も全てを支配しておられる全知全能の真(まこと)の神に私たちが所有され、私たちがもはや頼りない自分自身のものではなく、永遠に神のものであるなら、どんなに安心でしょうか。

 特に私たちが、罪からの救いと永遠の命を私たちに与えるためにかつて人となり、十字架で命を献げ、また復活され、私たちのために永遠に生きておられ、私たちの生も死も最終的に一番良いように導いて下さる慈愛に満ちた神の御子イエス・キリストの所有であるなら、どんなに幸せでしょうか。

 いつ命を失うか分らない緊迫した宗教改革時代、プロテスタントの信仰者たちは集って、1563年、ハイデルベルク信仰問答を作りました。今申し上げた幸せを問1で告白していますので、そこを読みます。

問1「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」

答 「私が私自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、私の真実な救い主イエス・キリストのものであることです。

   この方は御自身の尊い血をもって私たちの全ての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力から私を解放して下さいました。

   また、天にいます私の父の御旨でなければ、髪の毛1本も落ちることができない程に、私を完全に守っていて下さいます。実に万事が私の救いのために働くのです。

   そしてまた御自身の聖霊(みたま)により私に永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜び、またそれに相応しくなるように、整えても下さるのです。」

 イエス・キリストを救い主と信じ、受け入れ、依り頼むとは、私たちのために命を捧げ、復活され、私たちを極みまで愛し、今、天と地の一切の権能を握っておられる神の御子イエス・キリストの所有に、私たちがして頂き、永遠に主のものにされることに他なりません。

 改めてこの驚くべき恵みをよく瞑想し、「福音の力を信じ、喜びと希望をもって歩もう」という標語を覚えつつ、主の民として今年の日々を、ご一緒に固く踏みしめて行きたいと思います。

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