聖書の言葉 3:16 神は、実に、その独り子をお与えになった程に世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。ヨハネによる福音書 3章16節 メッセージ 実は去年も「真の神を知る幸せ」という題で一度お話しました。しかし、今朝は違う点からお話させて頂きます。 真の神がおられるのであるなら、その神を知ることは、私たちにとって無論大切なことですが、このことにどんな幸せがあるでしょうか。今朝は、四つお話したいと思います。 第一に、決して私たちを裏切らず、愛と真実において全く変ることのない絶対者、永遠者を知るという平安と充足があります。 普段、私たちは、生きていく中で色々なことや色々な人との出会いがあります。嬉しいこともあれば、そうでない時もあります。しかしそんな中、ふと、これぞ私が真に求めているものだという確かで真実で永遠的なものを知り、それに触れたいと思うことはないでしょうか。 そこで文学の世界に分け入る人もあれば、芸術、スポーツ、大自然、或いは、慈善やボランティア活動に答を求める人もいます。とにかく、私たちを裏切らず、私たちの魂の深い求めを満たし、心底自分を傾け、自分を預けられる真実で確かなものを求めているのだと思います。 しかし、絶対的に真実で、私たちを決して裏切らず、真に私たちを満たす永遠的なものなど、この世にあるでしょうか。こんな求めは元々無理であり、私たちは、その場その時を適当に生きるしかないのではないでしょうか。 いいえ、答はあります!それは、この天地を創られた生ける真の神です。この神こそ、天地がひっくり返り、社会が如何に変ろうとも、決して変らず、真実で、確かで、裏切らない方だからです。 しかも、私たちを利己的な醜い罪から救い、洗い清め、永遠の命を与えるために、御子イエスを賜った程に慈愛に満ちた方です。ですから、真理を求めてさ迷った挙句、遂に回心した有名なアウグスチヌス(紀元354~430年)は神に向かってこう告白した。「あなたは私たちをご自身に向けて創られました。ですから、あなたの許に憩うまで、私たちの心は安らぎを得られないのです。」17世紀のフランスの哲学者、科学者、数学者であったパスカルは言いました。「人間の心には、神の形をした空洞がある。それは神によってしか埋められない」と。 真(まこと)の神を知る幸せの第一は、決して私たちを裏切らず、愛と真実において全く変ることなく、私たちの魂を真に満たすことの出来る永遠者、絶対者なる方を知る安らぎと充足感です。 二つ目は、神が正しく公平なことです。 この世は、正直者が馬鹿を見、不公平や不条理がまかり通っている罪の世です。昔も今もずるい人がのさばり、楽をし、旨い汁を吸っている世です。ですから、もし真の神を知らなければ、私たちはこの世で真面目に生きることに嫌気(いやけ)がさし、虚無的になるか、革命を起すしかないかも知れませんね。しかし、多くの人はブツブツ言いながらも、仕方なく生きています。でも、私たちが真の神を知るなら、違ってきます。神はいつか必ず一切のことに公平に報われる正しいお方だからです。 人は、心の思いも口にした言葉も隠れて行なったことも全て神に知られています。ヘブル4:13は言います。「神の御前(みまえ)にあらわでない被造物はありません。神の目には全てが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。」ガラテヤ6:7は言います。「神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。」 従って、万一この世で巧くごまかせても、死後、神は公平に裁かれます。イエスは言われます。ルカ12:48「多く与えられた者は皆、多くを求められ、多く任された者は、更に多くを要求されます。」ですから、頭の良さも、富や資産も、体が丈夫で健康なことも、それをどれだけ神と人のために用いたかが問われ、帳尻を必ず合せられます。神を信じる者も、この点では同じです。 と同時に、神は私たちの良い行いにも必ず報いて下さいます。自分ではすっかり忘れているどんなに小さなことも、神はご自分のノートに記録され、やがて私たちが地上の人生を終え、私たちの信じたイエス・キリストにより永遠の世界に入れられる時、逐一報いて下さいます。イエスは言われました。マタイ25:40「これらの私の兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、私にしたのです。」 こういう正しい公平な神を知り、そこで、周囲がどうであろうと、常に神を仰ぎ、神を望みとし、地味でも不器用でもいいです、神と人にこつこつと仕えて生きることは、何と幸いでしょう。神を知る幸せの二つ目は、神の公平さにあります。 第三は、神の愛を知って生きることのできる幸せです。 神から見ますと、私たちは誰も皆、罪人です。生れてこの方、一度も嘘やごまかしをせず、人を騙したこともなく、一切悪いことを考えたことも口にしたことも行なったこともない人が、いるでしょうか。神は全てをご存じです。そして公平に裁かれます。誰が大丈夫でしょうか。 しかし、ここで終りではありません。ここに真の神を知る幸せがあります。絶対公平で正しい真の神は、同時に驚く程、愛と赦しに満ちた方だからです。 私たちは、自分の犯した罪を到底償えず、悔いてはまた犯す情けない者です。しかし、こんな私たちの罪を全て償わせ、私たちに代って永遠の裁きを十字架で受けさせ、罪の赦しと永遠の命を私たちに与えるために、神はご自分の独り子イエスを私たちにお与えになりました!ヨハネ3:16は言います。「神は、実に、その独り子をお与えになった程に世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。」詩篇130:3、4も歌います。「主よ、あなたがもし不義に目を留められるなら、主よ、誰が御前に立てるでしょう。しかし、赦して下さる故に、あなたは人に恐れられます。」 もし神の基準に適う沢山の善行や立派な人間になることが天国に入れる条件なら、一体、誰が入れるでしょうか。しかし神は、御子イエスをただただ心から信じ、受け入れ、依り頼む信仰だけで、本当に私たちを救って下さいます!ですから、真の神を知ることは最高に幸せなのです! 更に幸せなのは、私たちが神にこれ程「愛されていること」です。自分が誰かに愛されていることが分る時、私たちはどんなに幸せでしょう。たとえ、あと僅かで死ぬと分っていても、ただ一人の人からでも自分が真に愛され大切に思われているのを知るなら、私たちはどんなに嬉しいでしょう。それだけで、自分の一生を感謝して世を去ることが出来る程ですよね。 まして私たちのような自分でも嫌いな所のある情けない者を、神が御子イエスを賜った程に愛し、私たちをご自分の子供として、永遠に愛し続けて下さるのを知るなら、これ以上何があるでしょうか! 更に言いますと、この神の愛を知ることから、今度は自分も人に仕えて生きる愛こそが一番幸せだということを知る幸せがあります。Ⅰコリント13:13も言います。「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番優れているのは愛です。」 自分のことしか頭にない自己中心な生き方程、不幸で淋しいものはありません。そこにはどんな清い喜びも満足もありません。陰では皆、軽蔑しています。この世でも幸せでなく、やがて死を迎える時、その魂はどうなるでしょう。 しかし、自分が神に愛されているのを知り、今度は自分も人を愛することを自分の生き方の中心にする人は、この世でも既に幸せですし、天に召される時、その幸せはクライマックスに至ります!天の父なる神、また御子イエスの最高の笑顔とお喜びを見るからです! 真の神を知る幸せの三つ目は、自分への神の限りない愛を知り、またそれ故に神の愛を人と分ち合って生きる幸せを、今も味わい、永遠に味わい続けることを許されることです。 最後、第四にもう一つ、極簡単に見て終ります。それはブレない正しい価値観をもって生きることの出来る幸せです。これは今申し上げたことの全てと関係していますが、別に取り上げて良い位、大切で感謝な点です。 私たちの価値観は、どのようにして形作られるでしょうか。自分では選べなかった幼い頃の家庭環境や、その後、自分で選んだ生活の中で、辛かったことや嬉しかったこと、書物や人との出会いを通して身につけることが殆どだと思います。 しかし、一番幸せな価値観は、何といっても私たちを造られた真の神を知ることから来ます。それは、人と自分を比べて、勝った、いや、負けたといった優越感と劣等感・挫折感が絶えず入れ替るようなものとは全く違います。それは、御子イエスを賜った程に私たちを愛しておられる天の父なる神に喜ばれるかどうかの一点にあり、最終的には人の評価でも自己評価や自己満足でもありません。真実で、清く、愛と慈しみに満ちた天の父なる神の前に本当に価値があり意味があり、神に喜ばれるかどうか、なのです。そして神に喜ばれるかどうかというこの価値観に生きることに伴う幸せは、永遠の世界まで繋がっています!従って、空しくありません。ですから、Ⅰコリント15:58は言います。「ですから、私の愛する兄弟たち、堅く立って、動かされることなく、いつも主の業に励みなさい。あなた方は、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っている…。」 今朝は、真の神を知る幸せについて、聖書によりお話させて頂きました。これらの幸せに、イエス・キリストへの幼子のような素直な信仰を通して、是非ご一緒に与りたいと思います。どうか、イエスご自身が私たち一人一人の手を固く握ってお導き下さいますように! アーメン! 関連する説教を探す 2020年の日曜朝の礼拝 『ヨハネによる福音書』
実は去年も「真の神を知る幸せ」という題で一度お話しました。しかし、今朝は違う点からお話させて頂きます。
真の神がおられるのであるなら、その神を知ることは、私たちにとって無論大切なことですが、このことにどんな幸せがあるでしょうか。今朝は、四つお話したいと思います。
第一に、決して私たちを裏切らず、愛と真実において全く変ることのない絶対者、永遠者を知るという平安と充足があります。
普段、私たちは、生きていく中で色々なことや色々な人との出会いがあります。嬉しいこともあれば、そうでない時もあります。しかしそんな中、ふと、これぞ私が真に求めているものだという確かで真実で永遠的なものを知り、それに触れたいと思うことはないでしょうか。
そこで文学の世界に分け入る人もあれば、芸術、スポーツ、大自然、或いは、慈善やボランティア活動に答を求める人もいます。とにかく、私たちを裏切らず、私たちの魂の深い求めを満たし、心底自分を傾け、自分を預けられる真実で確かなものを求めているのだと思います。
しかし、絶対的に真実で、私たちを決して裏切らず、真に私たちを満たす永遠的なものなど、この世にあるでしょうか。こんな求めは元々無理であり、私たちは、その場その時を適当に生きるしかないのではないでしょうか。
いいえ、答はあります!それは、この天地を創られた生ける真の神です。この神こそ、天地がひっくり返り、社会が如何に変ろうとも、決して変らず、真実で、確かで、裏切らない方だからです。
しかも、私たちを利己的な醜い罪から救い、洗い清め、永遠の命を与えるために、御子イエスを賜った程に慈愛に満ちた方です。ですから、真理を求めてさ迷った挙句、遂に回心した有名なアウグスチヌス(紀元354~430年)は神に向かってこう告白した。「あなたは私たちをご自身に向けて創られました。ですから、あなたの許に憩うまで、私たちの心は安らぎを得られないのです。」17世紀のフランスの哲学者、科学者、数学者であったパスカルは言いました。「人間の心には、神の形をした空洞がある。それは神によってしか埋められない」と。
真(まこと)の神を知る幸せの第一は、決して私たちを裏切らず、愛と真実において全く変ることなく、私たちの魂を真に満たすことの出来る永遠者、絶対者なる方を知る安らぎと充足感です。
二つ目は、神が正しく公平なことです。
この世は、正直者が馬鹿を見、不公平や不条理がまかり通っている罪の世です。昔も今もずるい人がのさばり、楽をし、旨い汁を吸っている世です。ですから、もし真の神を知らなければ、私たちはこの世で真面目に生きることに嫌気(いやけ)がさし、虚無的になるか、革命を起すしかないかも知れませんね。しかし、多くの人はブツブツ言いながらも、仕方なく生きています。でも、私たちが真の神を知るなら、違ってきます。神はいつか必ず一切のことに公平に報われる正しいお方だからです。
人は、心の思いも口にした言葉も隠れて行なったことも全て神に知られています。ヘブル4:13は言います。「神の御前(みまえ)にあらわでない被造物はありません。神の目には全てが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。」ガラテヤ6:7は言います。「神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。」
従って、万一この世で巧くごまかせても、死後、神は公平に裁かれます。イエスは言われます。ルカ12:48「多く与えられた者は皆、多くを求められ、多く任された者は、更に多くを要求されます。」ですから、頭の良さも、富や資産も、体が丈夫で健康なことも、それをどれだけ神と人のために用いたかが問われ、帳尻を必ず合せられます。神を信じる者も、この点では同じです。
と同時に、神は私たちの良い行いにも必ず報いて下さいます。自分ではすっかり忘れているどんなに小さなことも、神はご自分のノートに記録され、やがて私たちが地上の人生を終え、私たちの信じたイエス・キリストにより永遠の世界に入れられる時、逐一報いて下さいます。イエスは言われました。マタイ25:40「これらの私の兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、私にしたのです。」
こういう正しい公平な神を知り、そこで、周囲がどうであろうと、常に神を仰ぎ、神を望みとし、地味でも不器用でもいいです、神と人にこつこつと仕えて生きることは、何と幸いでしょう。神を知る幸せの二つ目は、神の公平さにあります。
第三は、神の愛を知って生きることのできる幸せです。
神から見ますと、私たちは誰も皆、罪人です。生れてこの方、一度も嘘やごまかしをせず、人を騙したこともなく、一切悪いことを考えたことも口にしたことも行なったこともない人が、いるでしょうか。神は全てをご存じです。そして公平に裁かれます。誰が大丈夫でしょうか。
しかし、ここで終りではありません。ここに真の神を知る幸せがあります。絶対公平で正しい真の神は、同時に驚く程、愛と赦しに満ちた方だからです。
私たちは、自分の犯した罪を到底償えず、悔いてはまた犯す情けない者です。しかし、こんな私たちの罪を全て償わせ、私たちに代って永遠の裁きを十字架で受けさせ、罪の赦しと永遠の命を私たちに与えるために、神はご自分の独り子イエスを私たちにお与えになりました!ヨハネ3:16は言います。「神は、実に、その独り子をお与えになった程に世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。」詩篇130:3、4も歌います。「主よ、あなたがもし不義に目を留められるなら、主よ、誰が御前に立てるでしょう。しかし、赦して下さる故に、あなたは人に恐れられます。」
もし神の基準に適う沢山の善行や立派な人間になることが天国に入れる条件なら、一体、誰が入れるでしょうか。しかし神は、御子イエスをただただ心から信じ、受け入れ、依り頼む信仰だけで、本当に私たちを救って下さいます!ですから、真の神を知ることは最高に幸せなのです!
更に幸せなのは、私たちが神にこれ程「愛されていること」です。自分が誰かに愛されていることが分る時、私たちはどんなに幸せでしょう。たとえ、あと僅かで死ぬと分っていても、ただ一人の人からでも自分が真に愛され大切に思われているのを知るなら、私たちはどんなに嬉しいでしょう。それだけで、自分の一生を感謝して世を去ることが出来る程ですよね。
まして私たちのような自分でも嫌いな所のある情けない者を、神が御子イエスを賜った程に愛し、私たちをご自分の子供として、永遠に愛し続けて下さるのを知るなら、これ以上何があるでしょうか!
更に言いますと、この神の愛を知ることから、今度は自分も人に仕えて生きる愛こそが一番幸せだということを知る幸せがあります。Ⅰコリント13:13も言います。「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番優れているのは愛です。」
自分のことしか頭にない自己中心な生き方程、不幸で淋しいものはありません。そこにはどんな清い喜びも満足もありません。陰では皆、軽蔑しています。この世でも幸せでなく、やがて死を迎える時、その魂はどうなるでしょう。
しかし、自分が神に愛されているのを知り、今度は自分も人を愛することを自分の生き方の中心にする人は、この世でも既に幸せですし、天に召される時、その幸せはクライマックスに至ります!天の父なる神、また御子イエスの最高の笑顔とお喜びを見るからです!
真の神を知る幸せの三つ目は、自分への神の限りない愛を知り、またそれ故に神の愛を人と分ち合って生きる幸せを、今も味わい、永遠に味わい続けることを許されることです。
最後、第四にもう一つ、極簡単に見て終ります。それはブレない正しい価値観をもって生きることの出来る幸せです。これは今申し上げたことの全てと関係していますが、別に取り上げて良い位、大切で感謝な点です。
私たちの価値観は、どのようにして形作られるでしょうか。自分では選べなかった幼い頃の家庭環境や、その後、自分で選んだ生活の中で、辛かったことや嬉しかったこと、書物や人との出会いを通して身につけることが殆どだと思います。
しかし、一番幸せな価値観は、何といっても私たちを造られた真の神を知ることから来ます。それは、人と自分を比べて、勝った、いや、負けたといった優越感と劣等感・挫折感が絶えず入れ替るようなものとは全く違います。それは、御子イエスを賜った程に私たちを愛しておられる天の父なる神に喜ばれるかどうかの一点にあり、最終的には人の評価でも自己評価や自己満足でもありません。真実で、清く、愛と慈しみに満ちた天の父なる神の前に本当に価値があり意味があり、神に喜ばれるかどうか、なのです。そして神に喜ばれるかどうかというこの価値観に生きることに伴う幸せは、永遠の世界まで繋がっています!従って、空しくありません。ですから、Ⅰコリント15:58は言います。「ですから、私の愛する兄弟たち、堅く立って、動かされることなく、いつも主の業に励みなさい。あなた方は、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っている…。」
今朝は、真の神を知る幸せについて、聖書によりお話させて頂きました。これらの幸せに、イエス・キリストへの幼子のような素直な信仰を通して、是非ご一緒に与りたいと思います。どうか、イエスご自身が私たち一人一人の手を固く握ってお導き下さいますように! アーメン!