2024年02月11日「十二使徒の使命と心得」

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十二使徒の使命と心得

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 10章5節~15節

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聖句のアイコン聖書の言葉

10: 5 イエスはこの十二人を遣わす際、彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはなりません。また、サマリア人の町に入ってはいけません。
10: 6 むしろ、イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい。
10: 7 行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。
10: 8 病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。
10: 9 胴巻きに金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはいけません。
10:10 袋も二枚目の下着も履き物も杖も持たずに、旅に出なさい。働く者が食べ物を得るのは当然だからです。
10:11 どの町や村に入っても、そこでだれがふさわしい人かをよく調べ、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。
10:12 その家に入るときには、平安を祈る挨拶をしなさい。
10:13 その家がそれにふさわしければ、あなたがたの祈る平安がその家に来るようにし、ふさわしくなければ、その平安があなたがたのところに返って来るようにしなさい。
10:14 だれかがあなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家や町を出て行くときに足のちりを払い落しなさい。
10:15 まことに、あなたがたに言います。さばきの日には、ソドムとゴモラの地のほうが、その町よりもさばきに耐えやすいのです。マタイによる福音書 10章5節~15節

原稿のアイコンメッセージ

 前回は、マタイ10:1~4を通して、弟子たちの中から様々な性格や背景を持つ12人を、イエスが使徒に選ばれたことを学びました。

 今朝の聖書箇所は、12使徒を伝道に遣わす際にイエスが命じられたことを伝えています。紀元1世紀初頭のユダヤでのことですから、今の日本とは状況が異なりますが、大切な伝道や伝道者についての基本原則を教えられます。心して学びたいと思います。

 では、どんな点があるでしょうか。五つありますが、今朝は三つ学びます。

 第一は、伝道にも順序、もしくは優先順位があるということです。

 5、6節を読みます。「イエスはこの12人を遣わす際、彼らにこう命じられた。『異邦人の道に行ってはいけません。また、サマリア人の町に入ってはいけません。むしろ、イスラエルの家の失われた羊たちの所に行きなさい。』」

 「異邦人」とは、ここではユダヤ人以外の全ての民族や人種を指します。「サマリア人」とは、ユダヤと北のガリラヤとの間のサマリア地域に住み、Ⅱ列王記17章が伝えますように、ユダヤ人と異邦人との混血の人たちを指します。彼らは創世記から申命記までのいわゆるモーセ五書を重んじましたが、元のユダヤ・イスラエルの宗教とは大分異なり、彼らとユダヤ人は仲の悪い状態が長く続いていた。

 ところで、私たちはここで「あれ?」と思わないでしょうか。イエスの福音、すなわち、神の愛による救いのメッセージは、世界中のあらゆる人に伝えられるべきではないでしょうか。

 無論、その通りです。マタイ8:5以降は、ローマ軍の百人隊長、つまり異邦人である人物の信仰をイエスがほめられたことを伝え、マタイ28:19は、復活されたイエスが弟子たちに「あなた方は行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマ(洗礼)を授け」よ、と命じられたことも伝えています。伝道は全ての人になされるべきものなのです。

 しかし、そうだとしますと、10:5、6でイエスが言われたことは、どういう意味でしょうか。物事には順序があり、伝道についてもそれが言えるということです。

 伝道への使命感や熱心は、すごく大切です。これはどんなに強調しても、し過ぎではありません。とはいえ、最初から一度に何もかも出来るわけではありません。マタイ10章の時点では、弟子たちの数は限られていました。また、イエスが全世界の罪の贖い(あがない)のために十字架で命を献げ、復活して天の父なる神の御許(みもと)に帰られる日も遠い先のことではなく、時間も限られていました。ですから、イエスは6節「イスラエルの家の失われた羊たち」、つまり、ただ神の憐れみにより神の民とされましたのに、今、不信仰になっていましたユダヤ人の所へ、「まず」行きなさい、と命じられたのです。

 ご承知のように、やがてユダヤ人の多くがイエスを拒否し、教会を迫害し始めます。すると、今度は、クリスチャンによる異邦人伝道が急速に展開し、救われる人も全世界へ広がって行くのでした。

 こうして、伝道にも順序や優先順位があることを教えられます。人材や人数、資源などが限られた状態では、一度に何もかもは出来ません。従って、私たちが教会に人を誘い、或いは案内のチラシを配る時なども、今回はこの方々やこの地域に、そして次回はあの方々やあの町内というように、よく考え合って行うことの大切さを教えられます。

 大切なことは、誰を、どこを「あとににするか」ではなく、誰を、どこを「優先するか」なのです。

 二つ目は、伝道のあり方、方法についてです。

 イエスは言われました。7、8節「行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。」

 これらは皆、イエスご自身がなさったことです。伝道は、イエスご自身に倣うことと言えます。そして10:1が伝えますように、当時、12使徒はイエスから特別な権威と力を与えられていました。

 無論、これが今の私たちにそのまま当てはまるわけではありません。しかし、基本的な点を言いますと、伝道は7節「天の御国が近づいた」と、つまり、「罪と不信仰を悔い改め、救い主イエスを信じ、罪の赦しと永遠の命を中心とする神の救いに与りなさい」ということを、人々に伝えるのです。

 それともう一つ、8節「病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出」すことです。

 これはどういうことでしょうか。「ツァラアト」とは、今でいうハンセン病などの重い皮膚病のことで、当時、この病の人たちは社会的・宗教的にも大変辛い思いをしていました。要するに、人の痛み、苦しみ、辛さ、涙をよく理解し、それが少しでも和らげられるために、私たち自身を提供する愛の働きが非常に大切だということです。

 8節の終りでイエスは「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と言われます。クリスチャンは、自分が優れているからではなく、ただただ神の愛と憐れみにより信仰を与えられ、救われた者です。従って、ただその感謝と喜びから、自分を他者に提供するのです。使徒20:35のイエスの御言葉、「受けるよりも与える方が幸いである」を覚えつつするのです。福音を伝えることと愛の奉仕の両方が、伝道の非常に大切な両輪であることを、改めてしっかり心に覚えたいと思います。

 三つ目は、伝道者は余計なことに心を用いたり乱されてはならず、福音宣教に専心すべきだということです。

 イエスは言われます。9、10節「胴巻に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはいけません。袋も二枚目の下着も、履き物も杖も持たずに、旅に出なさい。働く者が食べ物を得るのは当然だからです。」

 当時は、重ねて巻いた帯の間を財布として使ったようですが、とにかく余計なお金は持っていくな、ということです。また、物を詰め込む旅行用の「袋」も「二枚目の下着も履き物も杖も持たずに、旅に出なさい」とイエスは言われました。金持ちになるとか自分を飾る贅沢は、伝道者には元より論外ですが、生活出来るだろうかなどと心配するなということです。

 

 イエスは何故こんなことを言われたのでしょうか。伝道は、決して伝道者が片手間で出来るようなことではなく、全身全霊、全生活を献げる必要のある非常に重要な務めだからです。牧師が「これで食べていけるだろうか。家族を養っていけるだろうか」などと生活のことで思い煩っているなら、キリストを十分に伝え、福音を証しすることはできません。生活に心が搔き乱されていては、肝心な日々の聖書研究や祈り、面会や手紙や訪問などによる伝道や牧会が、どうしても疎か(おろそか)になります。神の国の進展、福音の前進にとって、これは大変大きな損失です。牧師は、他のことに心を乱されずに伝道や福音の証しに専心すべきなのです。

 では、生活はどうでも良く、貧乏であることが、牧師や牧師家庭の美徳なのでしょうか。違います。イエスは10節「働く者が食べ物を得るのは当然」と言われます。これを受けてパウロは、Ⅰテモテ5:17、18で「よく指導している長老は、二倍の尊敬を受けるに相応しいとしなさい。御言葉と教えのために労苦している長老(つまり、牧師)は特にそうです」と述べ、牧師の待遇に触れます。

 そのあと、申命記25:4の御言葉、「脱穀をしている牛に口籠(くつこ)をはめてはならない」を引用し、更に「働く者が報酬を受けるのは当然である」という、当時よく言われていた言葉も持ち出します。

 パウロはまた、信徒の献げ物により牧師の生活が支えられるべきことを、Ⅰコリント9:13、14でこう教えます。「あなた方は、宮に奉仕している者が宮から下がる物を食べ、祭壇に仕える者が祭壇の献げ物に与ることを知らないのですか。同じように主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活の支えを得るようにと定めておられます。」

 

 細かい説明は必要ないでしょう。繰り返します。牧師が、生活面で心配せず、安心して全生活を献げて福音宣教に励むなら、牧師を支える信徒も増え、それにより牧師は更に御言葉の奉仕に打ち込めるということです。

 現実には、牧師にも信徒にも罪がありますし弱いため、この通りに行かないことは多々あります。しかし、このイエスの教えにとことん従う時、主は必ず私たちを祝福して下さることを、今朝もう一度よく覚えたいと思います。

 今朝は、第一に伝道には順序、優先順位があること、第二に伝道のあり方、方法について、第三に伝道者・牧師は生活に心を乱されることなく福音宣教に専念すべき、という大切な主の御心を教えられました。心に刻み、御霊の助けを熱心に祈り求め、イエス・キリストがご自分の命をかけてまでなさった大切な福音宣教に、私たちも具体的に、是非、活かしたいと思います。

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