聖書の言葉 5:6 ですから、あなた方は神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなた方を高く上げて下さいます。5:7 あなた方の思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなた方のことを心配してくださるからです。ペトロの手紙一 5章6節~7節 メッセージ 改めて言うまでもなく、私たちは今まで決して独りで生きて来たのではなく、これからも独りで生きていくことは出来ません。若くて元気で、夢と希望とエネルギーに満ち、自分で何でも出来そうに思える時は、実際には私たちの人生の中で短い時間に過ぎません。むしろ、弱くて欠けだらけの私たちは皆、本当は例外なく誰かの支えを必要としています。 現に直接的にも間接的にも必ず色々な人に支えられて、初めて私たちは自分が自分として存在し、今までも生きて来られましたし、これからも一人の人間として泣いたり笑ったり感謝しながら、生きていくことが出来るのだと思います。 更に言いますと、どこまで気付いているかどうかは別として、私たちは、本当は互いに赦し赦され合って、初めて生きることを可能とされています。私たちはしばしば他の誰かのことを、「あの人は本当に自分勝手だ」「彼女は何故ああなのだろう」「彼はいい歳をして未だに自分のことも回りのことも分っていない」などと批判することがあると思います。そういう批判は、全くの的外れでない場合があるでしょう。むしろ、かなり当っている時もあると思います。 けれども、批判している私たち自身も、自分では気付いていないだけで、本当は随分人をやきもきさせ、呆れ(あきれ)られ、或いは、我慢してもらってはいないでしょうか。 こういう現実を思いますと、聖書が教えますように、私たちは改めて互いに心を低くして本当に謙遜であること、そして弱い欠けだらけの者同士なのですから、むしろ互いに赦し、励まし、助け、支え合う、人を思いやる温かい愛こそが、何より大切であることを思わされます。それこそが、私たちを真に意味のある、ですから、「辛いこともイヤなことも悲しいことも一杯あった私の人生だけど、最後まで生きてきて良かった」と、神にも人にも自分に対しても言えることを可能とさせるのだと思います。 もう随分前のことです。ある方から、次のような話を聞きました。その方がある日、自宅でテレビを見ていますと、ある悪性の病気に侵されていた一人の少年とその母親の闘病生活が放送されていました。少年が病気のために一番恐れたのは、友だちに自分の存在を忘れられることだったといいます。入院生活が始まった最初の頃は、色々な友だちから、毎日、沢山手紙が届きました。彼はとても喜びました。本当に嬉しかった! ところが、日が経つにつれ、段々減っていきました。その子は寂しくなっていきました。 そこで母親は、子供の友人たちに手紙を書くようにそっと頼みました。すると、次の日から手紙がまた沢山届くようになりました。少年はとても喜び、元気になりました。しかし、手紙は一時的なものでしかありませんでした。 そこで、母親はどうしようかと考えた末に、自分が“秘密の友だち”と称して、毎日少年に手紙を書き始めました。それに応じて、少年も毎日返事を書きました。 ある日、少年はその“秘密の友だち”にこう書きました。「ずっと続けたいね。ママ。」そうなのです。少年は“秘密の友だち”が母親だと、ちゃんと知っていたのです。 その後も、少年が亡くなるまで互いにそのことは口にせず、ずっとやり取りを続けました。不安な心を、そうやって少年は母親と一緒に支え合うことが出来たのでした。 少年は、自分が死を迎えるのに、あくまでも母親を優しく気遣って(きづかって)自分を失うことなく一生を終えました。母親の方も、自分の子を失うという耐えられない位、たまらなく辛く悲しい状況でしたのに、少年を愛し、少年を支えることで自分を失わず、“秘密の友だち”であり続けたのでした。 私たちが真に(しんに)一人の人間として生き、特に、掛け替えのない人生を全う出来るためには、どうしても人の支えと愛が必要であり、そうして初めて私たちは自分が自分として、今も、また最後の時も生きられるのだと思います。 そうであるなら、まして私たち一人一人を造られ、更に御子イエスをこの世に送り、私たち罪人の贖いとして御子を十字架につけられたほどに私たちを愛して下さっている全知全能の生ける真(まこと)の神に、私たちがただ御子イエスへの信仰の故に、死を超えて永遠に愛され、その御腕(みうで)にしっかり抱かれ(いだかれ)、心にかけて頂けるなら、どんなに幸いで感謝なことでしょうか! 最後に、Ⅰペテロ5:6、7を、今度は新共同訳聖書で読んで終ります。 「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めて頂けます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなた方のことを心にかけていて下さるからです。」 関連する説教を探す 2024年の祈祷会 『ペトロの手紙一』
改めて言うまでもなく、私たちは今まで決して独りで生きて来たのではなく、これからも独りで生きていくことは出来ません。若くて元気で、夢と希望とエネルギーに満ち、自分で何でも出来そうに思える時は、実際には私たちの人生の中で短い時間に過ぎません。むしろ、弱くて欠けだらけの私たちは皆、本当は例外なく誰かの支えを必要としています。
現に直接的にも間接的にも必ず色々な人に支えられて、初めて私たちは自分が自分として存在し、今までも生きて来られましたし、これからも一人の人間として泣いたり笑ったり感謝しながら、生きていくことが出来るのだと思います。
更に言いますと、どこまで気付いているかどうかは別として、私たちは、本当は互いに赦し赦され合って、初めて生きることを可能とされています。私たちはしばしば他の誰かのことを、「あの人は本当に自分勝手だ」「彼女は何故ああなのだろう」「彼はいい歳をして未だに自分のことも回りのことも分っていない」などと批判することがあると思います。そういう批判は、全くの的外れでない場合があるでしょう。むしろ、かなり当っている時もあると思います。
けれども、批判している私たち自身も、自分では気付いていないだけで、本当は随分人をやきもきさせ、呆れ(あきれ)られ、或いは、我慢してもらってはいないでしょうか。
こういう現実を思いますと、聖書が教えますように、私たちは改めて互いに心を低くして本当に謙遜であること、そして弱い欠けだらけの者同士なのですから、むしろ互いに赦し、励まし、助け、支え合う、人を思いやる温かい愛こそが、何より大切であることを思わされます。それこそが、私たちを真に意味のある、ですから、「辛いこともイヤなことも悲しいことも一杯あった私の人生だけど、最後まで生きてきて良かった」と、神にも人にも自分に対しても言えることを可能とさせるのだと思います。
もう随分前のことです。ある方から、次のような話を聞きました。その方がある日、自宅でテレビを見ていますと、ある悪性の病気に侵されていた一人の少年とその母親の闘病生活が放送されていました。少年が病気のために一番恐れたのは、友だちに自分の存在を忘れられることだったといいます。入院生活が始まった最初の頃は、色々な友だちから、毎日、沢山手紙が届きました。彼はとても喜びました。本当に嬉しかった!
ところが、日が経つにつれ、段々減っていきました。その子は寂しくなっていきました。
そこで母親は、子供の友人たちに手紙を書くようにそっと頼みました。すると、次の日から手紙がまた沢山届くようになりました。少年はとても喜び、元気になりました。しかし、手紙は一時的なものでしかありませんでした。
そこで、母親はどうしようかと考えた末に、自分が“秘密の友だち”と称して、毎日少年に手紙を書き始めました。それに応じて、少年も毎日返事を書きました。
ある日、少年はその“秘密の友だち”にこう書きました。「ずっと続けたいね。ママ。」そうなのです。少年は“秘密の友だち”が母親だと、ちゃんと知っていたのです。
その後も、少年が亡くなるまで互いにそのことは口にせず、ずっとやり取りを続けました。不安な心を、そうやって少年は母親と一緒に支え合うことが出来たのでした。
少年は、自分が死を迎えるのに、あくまでも母親を優しく気遣って(きづかって)自分を失うことなく一生を終えました。母親の方も、自分の子を失うという耐えられない位、たまらなく辛く悲しい状況でしたのに、少年を愛し、少年を支えることで自分を失わず、“秘密の友だち”であり続けたのでした。
私たちが真に(しんに)一人の人間として生き、特に、掛け替えのない人生を全う出来るためには、どうしても人の支えと愛が必要であり、そうして初めて私たちは自分が自分として、今も、また最後の時も生きられるのだと思います。
そうであるなら、まして私たち一人一人を造られ、更に御子イエスをこの世に送り、私たち罪人の贖いとして御子を十字架につけられたほどに私たちを愛して下さっている全知全能の生ける真(まこと)の神に、私たちがただ御子イエスへの信仰の故に、死を超えて永遠に愛され、その御腕(みうで)にしっかり抱かれ(いだかれ)、心にかけて頂けるなら、どんなに幸いで感謝なことでしょうか!
最後に、Ⅰペテロ5:6、7を、今度は新共同訳聖書で読んで終ります。
「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めて頂けます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなた方のことを心にかけていて下さるからです。」