聖書の言葉 20:16 あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。出エジプト記 20章16節 メッセージ 第九戒を今日も学びます。 前に申しましたが、信仰の先輩たちが告白しましたウェストミンスター信条の中の大教理問答の問144と145は、多くの分量を割いて第九戒を積極面と消極面から説いています。それ程、第九戒は私たちに広く深く関る戒めと言えると思います。 ちなみに、口語訳聖書の聖書語句大辞典で名詞の「偽り」を調べますと、サーッと数えただけでも、ヘブル語で15種類、ギリシア語で5種類の言葉が出て来ます。動詞の「偽る」は、ヘブル語で9種類、ギリシア語で4種類出て来ます。つまり、偽りの罪は、神の御言葉である聖書の中でも、それ程多岐にわたっていると言えるでしょう。 そういえば、近年よく耳にします「忖度(そんたく)」も、動機やその結果の公文書の改竄(かいざん)、廃棄、削除などを見れば、第九戒に違反する罪でしょう。誰かを守り、けれども、自分の利益も絡んでいますので、純粋に犠牲的とは言えない場合が多いと思います。人間の罪深さを思わないではおられません。 第九戒の禁じる罪として、宮﨑彌男訳で見ますが、ウェストミンスター大教理問答145は「不法行為があって自分たち自身がこれを咎めるか、他の人たちにそれを訴えるかしなければならないのに、沈黙を押し通していること」を上げます。これには、今申しました忖度の一形態の場合もあるでしょう。とにかく、私たちも弱さからついやってしまう「沈黙」という形での黙認の罪を改めて教えられます。第九戒の持つ広がりと深さを、聖書と信仰の先輩たちの霊の戦いに基づく真摯な告白からよく学び、私たちの心にしっかり刻んでおく必要性を、痛感させられます。 念のために、偽りに関係する聖書自身の御言葉を、新約聖書と旧約聖書から四つずつ見ておきます。 ローマ12:9「愛には偽りがあってはなりません。」 エペソ4:25「偽りを捨て、夫々隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、体の一部分なのです。」 コロサイ3:9「互いに偽りを言ってはなりません。あなた方は古い人をその行いと共に脱ぎ捨て…。」 Ⅰペテロ2:21、22「このためにこそ、あなた方は召されました。キリストもあなた方のために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなた方に模範を残された。キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。』」 詩篇34:11~13「来なさい。子たちよ、私に聞きなさい。主を恐れることを教えよう。命を喜びとする人は誰か。幸せを見ようと、日数の多いことを愛する人は。あなたの舌に悪口を言わせず、唇に欺きを語らせるな。」 詩篇39:1「私は言った。私は自分の道に気をつけよう。私が舌で罪を犯さないように。口に口輪をはめておこう。悪しき者が私の前にいる間は。』」 詩篇141:3「主よ、私の口に見張りを置き、私の唇の戸を守って下さい。」 箴言30:7、8「二つのことをあなたにお願いします。私が死なない内に、それを叶えて下さい。空しいことと偽りの言葉を、私から遠ざけて下さい。」 学びたいことはもっともっとありますが、最後に第九戒の求める積極的な面を見ておきたいと思います。この点では、ウェストミンスター大教理問答の問144から大変教えられます。問144は「第九の戒めで求められている義務は、何ですか」と問い、結構多くのことを答えています。本当は全部読んでもいいのですが、その中で私が特に心に留めたいと思った所だけを読んでおきます。 「第九の戒めで求められている義務は、次の通りです。…隣人に対して寛大な評価を下すこと/ 隣人の名声を愛し、願い、喜ぶこと/ 隣人の欠点を悲しみ、包むこと/ 隣人の賜物や長所を率直に認め、彼らの潔白を擁護すること/ 隣人に関する良い評判を受け入れるに早く、悪い評判を認めるに遅いこと。」 どんなに隣人愛に満ちた答になっていることでしょう!クリスチャンになっても、残る罪の性質のために、私たちは自己中心的な罪人です。そうでありますのに、怒ること遅く、赦しと憐れみに富む神の御子・主イエスは、ご自分の真白な義の衣を私たちに着せ、私たち罪人のために、日夜、天の父なる神に執り成し続けて下さっています。 私たちの罪を神に訴えるサタンに対しても、ご自分が私たちに代って十字架で神の怒りを全て受け、また私たちに代って全ての律法を完全に守られたことを根拠に、一歩も引かず、私たちを擁護していて下さいます!一体、何という主の愛、憐れみ、寛容、親切、善意でしょうか! ですから、私たちも主イエスの愛に倣い、是非、隣人に寛大で、隣人の真実と名声を心から尊び、大切にし、隣人の欠点を包みたいと思います。主が御霊によって私たちをご自身に似る者へともっと清めて下さり、第九戒を通しても、神と隣人への愛に喜んで生きる者であらせて下さいますように! 関連する説教を探す 2024年の祈祷会 『出エジプト記』
第九戒を今日も学びます。
前に申しましたが、信仰の先輩たちが告白しましたウェストミンスター信条の中の大教理問答の問144と145は、多くの分量を割いて第九戒を積極面と消極面から説いています。それ程、第九戒は私たちに広く深く関る戒めと言えると思います。
ちなみに、口語訳聖書の聖書語句大辞典で名詞の「偽り」を調べますと、サーッと数えただけでも、ヘブル語で15種類、ギリシア語で5種類の言葉が出て来ます。動詞の「偽る」は、ヘブル語で9種類、ギリシア語で4種類出て来ます。つまり、偽りの罪は、神の御言葉である聖書の中でも、それ程多岐にわたっていると言えるでしょう。
そういえば、近年よく耳にします「忖度(そんたく)」も、動機やその結果の公文書の改竄(かいざん)、廃棄、削除などを見れば、第九戒に違反する罪でしょう。誰かを守り、けれども、自分の利益も絡んでいますので、純粋に犠牲的とは言えない場合が多いと思います。人間の罪深さを思わないではおられません。
第九戒の禁じる罪として、宮﨑彌男訳で見ますが、ウェストミンスター大教理問答145は「不法行為があって自分たち自身がこれを咎めるか、他の人たちにそれを訴えるかしなければならないのに、沈黙を押し通していること」を上げます。これには、今申しました忖度の一形態の場合もあるでしょう。とにかく、私たちも弱さからついやってしまう「沈黙」という形での黙認の罪を改めて教えられます。第九戒の持つ広がりと深さを、聖書と信仰の先輩たちの霊の戦いに基づく真摯な告白からよく学び、私たちの心にしっかり刻んでおく必要性を、痛感させられます。
念のために、偽りに関係する聖書自身の御言葉を、新約聖書と旧約聖書から四つずつ見ておきます。
ローマ12:9「愛には偽りがあってはなりません。」
エペソ4:25「偽りを捨て、夫々隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、体の一部分なのです。」
コロサイ3:9「互いに偽りを言ってはなりません。あなた方は古い人をその行いと共に脱ぎ捨て…。」
Ⅰペテロ2:21、22「このためにこそ、あなた方は召されました。キリストもあなた方のために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなた方に模範を残された。キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。』」
詩篇34:11~13「来なさい。子たちよ、私に聞きなさい。主を恐れることを教えよう。命を喜びとする人は誰か。幸せを見ようと、日数の多いことを愛する人は。あなたの舌に悪口を言わせず、唇に欺きを語らせるな。」
詩篇39:1「私は言った。私は自分の道に気をつけよう。私が舌で罪を犯さないように。口に口輪をはめておこう。悪しき者が私の前にいる間は。』」
詩篇141:3「主よ、私の口に見張りを置き、私の唇の戸を守って下さい。」
箴言30:7、8「二つのことをあなたにお願いします。私が死なない内に、それを叶えて下さい。空しいことと偽りの言葉を、私から遠ざけて下さい。」
学びたいことはもっともっとありますが、最後に第九戒の求める積極的な面を見ておきたいと思います。この点では、ウェストミンスター大教理問答の問144から大変教えられます。問144は「第九の戒めで求められている義務は、何ですか」と問い、結構多くのことを答えています。本当は全部読んでもいいのですが、その中で私が特に心に留めたいと思った所だけを読んでおきます。
「第九の戒めで求められている義務は、次の通りです。…隣人に対して寛大な評価を下すこと/ 隣人の名声を愛し、願い、喜ぶこと/ 隣人の欠点を悲しみ、包むこと/ 隣人の賜物や長所を率直に認め、彼らの潔白を擁護すること/ 隣人に関する良い評判を受け入れるに早く、悪い評判を認めるに遅いこと。」
どんなに隣人愛に満ちた答になっていることでしょう!クリスチャンになっても、残る罪の性質のために、私たちは自己中心的な罪人です。そうでありますのに、怒ること遅く、赦しと憐れみに富む神の御子・主イエスは、ご自分の真白な義の衣を私たちに着せ、私たち罪人のために、日夜、天の父なる神に執り成し続けて下さっています。
私たちの罪を神に訴えるサタンに対しても、ご自分が私たちに代って十字架で神の怒りを全て受け、また私たちに代って全ての律法を完全に守られたことを根拠に、一歩も引かず、私たちを擁護していて下さいます!一体、何という主の愛、憐れみ、寛容、親切、善意でしょうか!
ですから、私たちも主イエスの愛に倣い、是非、隣人に寛大で、隣人の真実と名声を心から尊び、大切にし、隣人の欠点を包みたいと思います。主が御霊によって私たちをご自身に似る者へともっと清めて下さり、第九戒を通しても、神と隣人への愛に喜んで生きる者であらせて下さいますように!