2024年01月21日「十二使徒の選び」

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聖句のアイコン聖書の言葉

10:1 イエスは12弟子を読んで、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすためであった。
10:2 十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、
10:3 ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、
10:4 熱心党のシモンと、イエスを裏切ったイスカリオテのユダである。マタイによる福音書 10章1節~4節

原稿のアイコンメッセージ

 暫く離れていましたが、マタイ福音書の学びに戻ります。今日は、イエス・キリストが大勢の弟子たちの中から12人を使徒に選ばれたことを学びます。

 「使徒」とは、派遣された者という意味です。主イエスの代理人として福音を人々に伝え、またイエスから授けられた権威により、1節後半にありますように、要は、愛の働きに励むことが務めでした。

 9:36が伝えていましたが、イエスは群衆を見て「深く憐れまれ」、9:38、要するに「働き手を送って下さるように祈りなさい」と命じられたその弟子たちの中から、イエスは大切な伝道と愛の業(わざ)の働き手を選ばれたのでした。神と人のための働きは、それを知った者が、自分もそれに召されているのではないか、と自らに問うべきことを教えられます。

 使徒が12人なのは、旧約時代の神の民イスラエルの12部族と関係があります。つまり、12人の使徒は、新しい神の民、霊のイスラエルとしての教会の土台となるために選ばれたのでした。ですから、パウロは後にエペソ教会にこう書きました。エペソ2:19、20「あなた方は、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族」であり、「使徒たちや預言者という土台の上に建てられて」いると。

 イエスから任命された使徒職は紀元1世紀だけのものでしたが、事実、彼らは忠実な働きをなし、全世界の教会の礎となったのでした。

 

 では、そんな尊い働きにイエスが選ばれたのはどんな人たちだったでしょうか。

 12人は4人ずつの3グループからなります。第一グループが2節「ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ」、第二グループが3節「ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ」、第三グループが3節後半「アルパヨの子ヤコブとタダイ」と4節「熱心党のシモンとイエスを裏切ったイスカリオテのユダ」でした。

 各グループは更に2人ずつの組になっています。マルコ6:7は、イエスが12人を2人ずつ働きに遣わされたことを伝えています。1人では弱いですが、2人だと協力して大切な務めができます。使徒たちが、そのようにいつも2人で動いていましたので、マタイはそれをそのまま書いたのでしょう。

 12人を少し詳しく見てみます。

 第一に、彼らは普通の人でした。最初に名前があげられている4人がガリラヤ湖の漁師だったことから、それが分ります。イエスは普通の人の中から使徒を選ばれたのでした。ここに神の御心があり、キリスト教の特徴があると思います。のちにⅠコリント1:26~29も言います。「兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。肉なる者が誰も神の御前で誇ることがないようにするためです。」

 第二に、ここには2組の兄弟がいました。第1グループのペテロとアンデレ、ゼベダイの子ヤコブとヨハネです。気心の知れた兄弟です。ですから、何かと助け合い、託された尊い働きに励んだことでしょう。ということは、他のペアも割合気が合い、助け合って、伝道と愛の働きに、きっと励んだことでしょう。神の栄光と人の救いという大切な目的のため、気心の知れた相手とペアを組むことを良しとされたイエスの愛を思います。

 第三に、12人には色々な性格と背景がありました。

 まず、ペテロの特徴は秀でた行動力ですが、せっかちで衝動的な性格でした。マタイ14:22以降が伝えますように、ある夜、ガリラヤ湖で皆と舟に乗り、向こう岸へ渡ろうとしたのですが、逆風で悩まされました。しかし明け方、湖の上を歩いて来られたイエスを見ますと、ペテロは喜び、舟を降りて水の上を歩き、イエスの方へ行こうとしました。ところが強風を見て怖くなり、「主よ、助けて下さい」と叫びました。必要のないことをしては失敗し、全体をよく考えずに行動する面がありました。しかし後には、イエスが付けられたペテロ(岩の意味)というあだ名通り、強い信仰者に変えられます。伝承によると、ペテロは逆さ磔(はりつけ)を自ら望んで殉教しました。

 アンデレは、ヨハネ1章によりますと、元は洗礼者ヨハネの弟子であり、神の前で自分を省みる誠実な人でした。しかしイエスを知ってイエスの弟子となり、自分の兄弟ペテロに話をし、イエスの所にペテロを連れていくというなかなか熱心な人でした。

 ゼベダイの子、ヤコブとヨハネはどうでしょうか。まずヤコブは、使徒12:2が伝えますように、12使徒の中で最初に殉教します。一方、ヨハネは伝承では使徒たちの中で一番長生きし、福音書と手紙を新約聖書に残しました。その特徴は愛です。ですから、よく愛の使徒と呼ばれます。しかし、若い頃の二人は気性が激しく、ルカ9:54によりますと、サマリア人がイエスを歓迎しませんでしたので、二人は「私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言い、イエスに叱られます。ですから、イエスはこの二人にボアネルゲ(雷の子の意味)というユーモラスなあだ名を付けられました(マルコ3:17)。感謝なことに、彼らもイエスに変えられていきました。

 ピリポはどうでしょうか。ヨハネ1:45によりますと、イエスの弟子となった彼は、ナタナエル、つまり、バルトロマイにイエスを紹介する積極的な人でした。またヨハネ14:8は、ピリポが「主よ、私たちに父を見せて下さい。そうすれば満足します」と言い、イエスは「ピリポ、こんなに長い間、あなた方と一緒にいるのに、私を知らないのですか。私を見た人は、父を見たのです」と言われました。ピリポは、イエスの語られることがすぐ理解できませんと、それをすぐ口に出す正直な人でした。

 トマスは、ヨハネ20章によりますと、十字架の死の三日後、イエスが復活されたことを他の仲間が彼に伝えても、それを疑い、8日後、再び現れられたイエスが手と脇腹をお見せになり、漸く信じました。ですから、「疑い深いトマス」と呼ばれもします。しかし、ヨハネ11:16によりますと、彼は他の弟子たちに「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか」と言いました。つまり、イエスを深く愛する情熱家でもあったのです。このトマスとマタイがペアで、どんな会話をしたかと思うと、楽しくなりますね。

 アルパヨの子ヤコブとタダイについては、タダイにユダという別名もあったことだけ申し上げておきます。

 熱心党のシモンはどうでしょうか。熱心党は、当時、ユダヤを支配していたローマ帝国に反発し、武力闘争も厭い(いとい)ませんでした。しかし、そういうシモンをイエスは選ばれたのです。ローマ帝国に協力的で多くのユダヤ人から嫌われていました取税人マタイ。一方は丁度その反対のシモン。しかし、今やイエスの下で心を合せ、神と人のために愛をもって自分を献げるのでした。エペソ2:15、16「こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つの体として、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました」という御言葉を思います。

 では、最後のイスカリオテのユダはどうでしょうか。イスカリオテは「ケリオテの人」という意味です。ケリオテが旧約聖書のヨシュア記15:25にあるケリヨテならば、そこはユダヤの南部にあり、ユダだけがガリラヤ出身でないようですね。

 それはともかく、やがてイエスを裏切るユダについては色々議論されますが、聖書が語っていないことまで勝手に憶測しないことが大切でしょう。分るのは、私たちへの大きな教訓があることです。

 ユダも最初は信仰深い人でした。ヨハネ6章によりますと、多くの弟子が去っても、彼はイエスの許に留まったのでした。では、そういう彼は何故イエスを裏切ったのでしょうか。

 ヨハネ12:6によりますと、彼は仲間の皆から預った財布のお金を盗んでいました。最初は少額だったかも知れません。しかし、盗みであれ、ごまかしであれ、最初は小さな罪であっても、それを繰り返す内に段々、良心が麻痺して変になり、ついにはイエス・キリストのように自分を無にして神と人に自分を献げる人を疎(うと)ましく感じるようになり、段々心が離れていきます。イエスが折角警告を与えても、無視するようになります。大変危険なのです。ですから、Ⅰコリント10:12の「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」という御言葉を、是非、心に留めなければ、と思います。

 以上、様々な背景や性格、また欠点や偏りや癖もある12人を、ただ私たち罪人の永遠の救いのために使徒として立てられた神の御子イエスの大きな愛を改めて覚えます。

 イエスを裏切ったユダの教訓を決して忘れず、けれども、主イエスの愛を覚え、「主よ、こんな私ですが、あなたの大切な御業(みわざ)のために、どうぞ、お用い下さい」と祈って自分を差し出し、神のきよい永遠のご計画がなるために、是非、用いられたいと思います。

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