2024年01月14日「永遠の命を信ず(使徒信条の学び36)」

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永遠の命を信ず(使徒信条の学び36)

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 10章22節~30節

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聖句のアイコン聖書の言葉

10:22 そのころ、エルサレムで宮きよめの祭りがあった。時は冬であった。
10:23 イエスは宮の中で、ソロモンの回廊を歩いておられた。
10:24 ユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。あなたがキリストなら、はっきりと言って下さい。」
10:25 イエスは彼らに答えられた。「私は話したのに、あなた方は信じません。私が父の名によって行うわざが、私について証ししているのに、
10:26 あなた方は信じません。あなた方が私の羊の群れに属していないからです。
10:27 私の羊たちは私の声を聞き分けます。私もその羊たちを知っており、彼らは私について来ます。
10:28 私は彼らに永遠の命を与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、誰も彼らを私の手から奪い去りはしません。
10:29 私の父が私に与えて下さった者は、全てにまさって大切です。誰も彼らを、父の手から奪い去ることはできません。
10:30 私と父とは一つです。ヨハネによる福音書 10章22節~30節

原稿のアイコンメッセージ

 2022年7月17日の礼拝から始めました使徒信条の学びも、36回目の今日で終ります。

 使徒信条は最終部分で、神の御子イエス・キリストが聖霊を通して信仰者に下さる大切な「罪の赦し、体の甦り、永遠の生命」を告白します。今朝は「永遠の生命を信ず」を学びます。

 ローマ国からの迫害で殉教者が大勢出ていた中、古代教会のクリスチャンたちは使徒信条の最後で「永遠の生命を信ず」と、きっと力を込めてこれを告白し、天の国を仰いだことでしょう。

 そこで今朝は第一に、天地の創り主、全能の神が信仰者に永遠の命を明確に約束しておられる点を確認したいと思います。

 主イエスが弟子たちについて語られたヨハネ福音書10:28~30をもう一度読みます。「私は彼らに永遠の命を与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、誰も彼らを私の手から奪い去りはしません。私の父が私に与えて下さった者は、全てにまさって大切です。誰も彼らを、父の手から奪い去ることはできません。私と父とは一つです。」

 ここには、イエスが弟子たちに永遠の命を与え、また彼らを御父とご自分の手から奪うことは誰にも、ですから、サタンにもできないと、明確に約束しておられます。

 ヨハネ福音書はこのことを繰り返し伝えています。イエスは言われました。11:25、26「私は甦りです。命です。私を信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていて私を信じる者は皆、永遠に決して死ぬことはありません。」6:40「私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を持」つことだと。また3:16も言います。「神は、実に、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。」聖書全体で、これは何度言われていることでしょう。

 いいえ、それだけでありません。神は御子イエス・キリストを十字架の死の三日後、復活させ、御子により永遠の命のあることを示されたのでした。もう十分でしょう。神は聖書で、また御子イエス・キリストの復活の事実を通して、これ以上なく明確に、御子を信じる者に永遠の命を約束しておられるのです。

 では、永遠の命とはどんなものでしょうか。第二にこれを確認します。これは文字通り永遠に続く命なのですが、大切なのはその内容です。

 私たちは、世にある限り、時間の制約の下にあります。私たちは否応なしに変化し、歳を取り、体も衰えます。私たち相互の関係も、時間的制約の下にあります。時間の経過と共に親しさも変ることがあり、夫婦や家族にも死別の時が来ます。弱い私たちにはとても辛いです。

 しかし、永遠の命とは、時間に制約されず、時間を超えた命なのです。イエスはヨハネ17:3でこう言われました。「永遠の命とは、唯一の真(まこと)の神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです。」

 「知る」とは交わりを指します。永遠の命とは、最高のご人格である真の神と私たちが、言葉では言い尽くせない最高の交わりを許されることです。神の御顔(みかお)を仰ぎ、贖われた全ての聖徒たち、愛する神の家族と共に、神を永遠に賛美し喜ぶ!これが永遠の命です。

 人間は元々神に似せて造られ、他の被造物にはない神との素晴らしい人格的交わりを頂いていました。ところが、人は神に背き、それを失い、それ以来、人は惨めにも木や石で作ったものや死者など、神ならぬものを崇めることで、心に大きく開いた穴を塞ごうとする者になりました。しかし、所詮、それは神との交わりの代りにはなりません。

 ところが、こんな私たちを神は憐れまれ、何と御子イエスを賜り、御子は十字架と復活により神と私たちとの架け橋となられ、再び神との交わりを永遠に回復して下さったのでした。

 死の時、私たちの魂は直ちに聖霊により完全に清められ、神の御側(みそば)に召されます。それだけではありません。世の終りには、御子イエス・キリストに似た清い栄光の体に復活し、義の宿る新しい天と地に与り、全ての聖徒たちと共に永遠に神を喜び、また信仰者同志も清い交わりを永遠に喜ぶのです。

 ところで、前にも申しましたが、永遠の命は退屈ではないのでしょうか。いいえ、いいえ!決して!神は余りに素晴らしい方ですから、私たちが神を知り尽くすのに永遠を要するのです。これが神の下さる永遠の命なのです。正にⅠコリント2:9「目が見たこともないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮んだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えて下さった」のです。何という神の恵みでしょうか!

 最後、第三に、永遠の命に伴うこの世での恵みや幸いを三つほど見て終ります。

 第一に、永遠の命を確実に与えられますから、クリスチャンは人生でどんなに苦しみがあっても、忍耐できるという幸せがあります。

 もし永遠の命がないなら、私たちがこの世で頑張ることに何の意味があるでしょうか。進化論が言うように、私たちは単に宇宙の偶然の産物に過ぎず、死ねば一切が終るのであるなら、私たちの生きる意味は何なのでしょうか。仏教が生老病死を四苦と呼ぶ通り、生れることすら無意味な苦しみではないでしょうか。

 また罪と不信仰のため、死後、永遠に死んで滅んで行くだけなら、何と空しいでしょう。イエスは言われます。マタイ16:26「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の益があるでしょうか。その命を買い戻すのに、人は何を差し出せば良いのでしょうか。」

 しかし、真心から御子イエスを自分の救い主と信じ、受け入れ、依り頼むなら、私たちには限りない慰めが天の御国で待っています。黙示録21:3、4は言います。「見よ、神の幕屋が人々と共にある。神は人々と共に住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、共におられる。神は彼らの目から涙をことごとく拭い取って下さる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」

 希望があれば、人間は耐えられます。永遠の命こそ、私たちの究極の希望です。何という幸いでしょうか!

 第二に、永遠の命がありますから、私たちは自分の務めや主(しゅ)の業(わざ)に力一杯取り組めるという幸いがあります。

 死後、神は信仰者に生前の努力や献げ物、祈りや奉仕などに必ず報いて下さいます。黙示録14:13は言います。「また私は、天からの声がこう言うのを聞いた。『書き記せ。「今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである」と。』御霊も言われる。『然り。その人たちは、その労苦から解き放たれて安らぐことができる。その行いが、彼らと共についていくからである。』」

 「その行いが、彼らと共についていく」とは、神が信仰者の行いに報いて下さるという意味です。

 私たちクリスチャンは、自分の行った奉仕や献げ物や祈りなどは忘れますね。ところが、神は全部記憶しておられ、彼(か)の世で、逐一必ず報いて下さるのです。その時、私たちは神の報いに驚き、どう感謝して良いか分らず、驚き、嬉しくて、いつまでも神を賛美している自分自身を発見するでしょう。

 第三に、永遠の命が用意されているからこそ、弱虫でいくじなしの私たちもこの世で勇気を奮って正しい善いことのために行動し、戦い、自分を献げることが出来るという幸いがあります。

 永遠の命の素晴らしさをよく考えたいと思います。これ以上のものがあるでしょうか。これをよく覚える時、弱い私たちにも自ずと勇気、希望、喜び、力が湧いて来るのではないでしょうか。

 ご承知のように、第二次世界大戦の時、ボンヘッファーはナチスに抵抗して逮捕され、1945年4月9日(日)早朝、フロッセンビュルク強制収容所で処刑されました。彼は自分が本当は臆病な弱い人間であることをよく知っていました。しかしその彼が、命がけで抵抗運動に身を投じたのです。イエス・キリストによる罪の赦しと永遠の命を知る以外に、どうしてそんなことができたでしょうか。彼の最後の言葉はこうでした。「これが最後です。私にとっては命の始まりです。」

 ローマ帝国の迫害下でも、隣人の魂の救いのために危険を犯してでも福音を伝え証しした古代教会のクリスチャンたち、猛烈な弾圧の中で真理のために命を献げた宗教改革者たち、狂喜じみたファシズムや人種差別と命懸けで戦った無数のクリスチャンたち、ぼろきれのように道に横たわり死を待つだけの貧しい病人たちに、周囲から色々中傷されながらも主イエスに仕えるようにして最後まで仕えたマザー・テレサたちも皆、キリストよる永遠の命の喜びと確信、神への感謝の故にそう出来たのでした。

 永遠の命ほど、大それたことなど全然できないと思っている普通のクリスチャンに勇気を与え、正しいことや善いことのために立ち上がらせ、自分を捧げさせるものはありません。

 「我は永遠の生命を信ず。」この力強い告白で締めくくる使徒信条の信仰に、今、誠実に神と人々に仕えている全世界の神の民と共に、また世々の信仰の先輩たち同様、私たちも強く誠実に生きたいと思います。

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