聖書の言葉 20:16 あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。出エジプト記 20章16節 メッセージ 久し振りに十戒の学びに戻ります。今日は第九戒の4回目となります。 前回、人間は皆、神の形を持つ者に造られているため、人の真実と名誉を尊ぶ大切さを学びました。今日は私たち自身に焦点を当てたいと思います。 第九戒は直訳しますと、「あなたの隣人のことで、偽りの証人として(あるいは、偽りの証言をもって)答えてはならない」です。 そこで、ある場面を想定してみます。私たちの少し向うに、ある人がいます。その人のことで私たちは何か答えるように周囲から求められています。当然、私たちの答え方次第で、その人への周囲からの評価に影響が出ますし、その人と私たちとの関係にも影響を及ぼします。それだけではありません。私たち自身にも影響が出ます。 例えば、その人の全体を本当はよく知りもしないのに、好ましくない点をやや誇張して語るとか、その人の良い点を殆ど話さなかったならば、どうなるでしょうか。その人への周囲からの評価は落ち、その人と私たちとのこれまでの関係も壊れますし、実はこれは、私たち自身の心、魂、人間性にも影響を及ぼし、私たち自身をも低めます。 逆に私たちが「然りは然り、否は否」と事実を歪めず、またその人のことをよく配慮して答え、あるいは証言する時、私たちの魂や人間性は清く守られます。隣人を愛をもって配慮することを私たちに求められる神は、同時に、私たちのことも常に配慮しておられる慈しみに満ちた神なのです。自分の罪の性質と戦い、第九戒を少しでも守ろうとする私たちを、天の父は更に清め、霊的に高め、御子イエス・キリストに更に似る者に成長させようとして、聖霊をより豊かに賜わるのです。 ですから、私たちの信仰の先輩たちが、第九戒について、隣人に対しての注意だけでなく、私たち自身に対する注意も、結構、詳しく信条文書に書いた理由も分ります。 例えば、ウェストミンスター大教理問答の問144は、第九戒で求められている義務についてこう語ります(宮﨑彌男訳)。「自分自身の名声を重んじて、これを大切にし、必要とあれば、これを擁護すること、合法的な約束を守ること、全て真実なこと、気高いこと、愛すべきこと、評判の良いことに心を留め、実行すること」と。 つまり、私たち自身を大切にすることを教えます。私たちへの神の愛とご配慮をよく受け留め、感謝しているからです。 このことは自分により厳しく、また多方面にわたって注意することともなります。ウェストミンスター大教理問答の問145は、第九戒で禁じられている罪について語ります。余談になりますが、実は十戒の各戒めの解説の内、第九戒で禁じられている罪についての解説が、一番長いものになっています。ウェストミンスター神学者会議に集った人たちが、第九戒を特に詳しく具体的に論じ、自分と教会にこれをしっかり適用しようとしたその熱い姿勢を感じさせられます。それは決して彼らの人間的な好み、嗜好によるものではありません。あくまでも御言葉に則って(のっとって)なのです。ですから、記述の全てに証拠聖句が挙げられています。 そこで二、三の点だけ見ておきます。例えば、私たちが誰かを判断し、裁く立場になった場合を考え、「不当な判決を下すこと。悪を善と呼び、善を悪と呼ぶこと。悪い者に、正しい者のした事に報いるように報いること。正しい者に、悪い者のした事に報いるように報いること」を禁じる、と随分突っ込んで述べています。 「へつらうこと」も挙げています。これは、本心はそうではないのに、自分を偽ることです。証拠聖句に上っている詩篇12:2は神にこう訴えています。「人は互いに空しいことを話し、へつらいの唇と、二心で話します。」 もう一点、「邪推」という点も見ておきます。対人的罪の一つとしてⅠテモテ6:4が邪推を挙げていますが、ウェストミンスター大教理問答がこれを第九戒に当てはめた点が見事だと思います。もし私たちが誰かのことを邪推し始めると、どうなるでしょう。パン種のようにこれは私たちの内でどんどん膨らみ、その結果、人を見る目を狂わせ、誤った評価へ導き、私たちの心を歪め、汚していきます。邪推は怖いです。人も自分も不幸にします。ですから、誰かについて邪推している自分に気付くなら、私たちは直ちにこう命じなければなりません。「醜い邪推の霊よ、イエスの御名によって命じる。直ちに私から去れ!」 偽りは、実は私たち自身を一層卑しめ、神から遠ざけ滅ぼします。ですから、御子イエスを賜わった程に私たちを愛しておられる天の父は、私たちをこの危険な罪から守り、私たちを御子イエスの清さに与らせたいと願って、第九戒「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない」を下さっているのです。 第九戒に込められた私たちへの神の愛、憐れみ、熱心に改めて心から感謝し、喜んで真実に生きたいと思います。 関連する説教を探す 2024年の祈祷会 『出エジプト記』
久し振りに十戒の学びに戻ります。今日は第九戒の4回目となります。
前回、人間は皆、神の形を持つ者に造られているため、人の真実と名誉を尊ぶ大切さを学びました。今日は私たち自身に焦点を当てたいと思います。
第九戒は直訳しますと、「あなたの隣人のことで、偽りの証人として(あるいは、偽りの証言をもって)答えてはならない」です。
そこで、ある場面を想定してみます。私たちの少し向うに、ある人がいます。その人のことで私たちは何か答えるように周囲から求められています。当然、私たちの答え方次第で、その人への周囲からの評価に影響が出ますし、その人と私たちとの関係にも影響を及ぼします。それだけではありません。私たち自身にも影響が出ます。
例えば、その人の全体を本当はよく知りもしないのに、好ましくない点をやや誇張して語るとか、その人の良い点を殆ど話さなかったならば、どうなるでしょうか。その人への周囲からの評価は落ち、その人と私たちとのこれまでの関係も壊れますし、実はこれは、私たち自身の心、魂、人間性にも影響を及ぼし、私たち自身をも低めます。
逆に私たちが「然りは然り、否は否」と事実を歪めず、またその人のことをよく配慮して答え、あるいは証言する時、私たちの魂や人間性は清く守られます。隣人を愛をもって配慮することを私たちに求められる神は、同時に、私たちのことも常に配慮しておられる慈しみに満ちた神なのです。自分の罪の性質と戦い、第九戒を少しでも守ろうとする私たちを、天の父は更に清め、霊的に高め、御子イエス・キリストに更に似る者に成長させようとして、聖霊をより豊かに賜わるのです。
ですから、私たちの信仰の先輩たちが、第九戒について、隣人に対しての注意だけでなく、私たち自身に対する注意も、結構、詳しく信条文書に書いた理由も分ります。
例えば、ウェストミンスター大教理問答の問144は、第九戒で求められている義務についてこう語ります(宮﨑彌男訳)。「自分自身の名声を重んじて、これを大切にし、必要とあれば、これを擁護すること、合法的な約束を守ること、全て真実なこと、気高いこと、愛すべきこと、評判の良いことに心を留め、実行すること」と。
つまり、私たち自身を大切にすることを教えます。私たちへの神の愛とご配慮をよく受け留め、感謝しているからです。
このことは自分により厳しく、また多方面にわたって注意することともなります。ウェストミンスター大教理問答の問145は、第九戒で禁じられている罪について語ります。余談になりますが、実は十戒の各戒めの解説の内、第九戒で禁じられている罪についての解説が、一番長いものになっています。ウェストミンスター神学者会議に集った人たちが、第九戒を特に詳しく具体的に論じ、自分と教会にこれをしっかり適用しようとしたその熱い姿勢を感じさせられます。それは決して彼らの人間的な好み、嗜好によるものではありません。あくまでも御言葉に則って(のっとって)なのです。ですから、記述の全てに証拠聖句が挙げられています。
そこで二、三の点だけ見ておきます。例えば、私たちが誰かを判断し、裁く立場になった場合を考え、「不当な判決を下すこと。悪を善と呼び、善を悪と呼ぶこと。悪い者に、正しい者のした事に報いるように報いること。正しい者に、悪い者のした事に報いるように報いること」を禁じる、と随分突っ込んで述べています。
「へつらうこと」も挙げています。これは、本心はそうではないのに、自分を偽ることです。証拠聖句に上っている詩篇12:2は神にこう訴えています。「人は互いに空しいことを話し、へつらいの唇と、二心で話します。」
もう一点、「邪推」という点も見ておきます。対人的罪の一つとしてⅠテモテ6:4が邪推を挙げていますが、ウェストミンスター大教理問答がこれを第九戒に当てはめた点が見事だと思います。もし私たちが誰かのことを邪推し始めると、どうなるでしょう。パン種のようにこれは私たちの内でどんどん膨らみ、その結果、人を見る目を狂わせ、誤った評価へ導き、私たちの心を歪め、汚していきます。邪推は怖いです。人も自分も不幸にします。ですから、誰かについて邪推している自分に気付くなら、私たちは直ちにこう命じなければなりません。「醜い邪推の霊よ、イエスの御名によって命じる。直ちに私から去れ!」
偽りは、実は私たち自身を一層卑しめ、神から遠ざけ滅ぼします。ですから、御子イエスを賜わった程に私たちを愛しておられる天の父は、私たちをこの危険な罪から守り、私たちを御子イエスの清さに与らせたいと願って、第九戒「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない」を下さっているのです。
第九戒に込められた私たちへの神の愛、憐れみ、熱心に改めて心から感謝し、喜んで真実に生きたいと思います。