2020年07月19日「あなた方は世の光です」

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あなた方は世の光です

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 5章13節~16節

聖句のアイコン聖書の言葉

5:13 あなたがたは地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れることができません。
5:15 また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。
5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。
   (新改訳聖書 2017年度版から)

マタイによる福音書 5章13節~16節

原稿のアイコンメッセージ

 主イエスがクリスチャンの使命について語られたマタイ5:13~16を今朝も学びます。

 繰り返しますが、当時のユダヤ人の多くはローマ帝国の支配を断ち切ることや自分の救いには熱心で、自分は神の民だという意識、いわゆる選民意識を強く持っていました。しかし、神が彼らを神の民とされた目的、すなわち、彼らが全世界の祝福となるという尊い使命についての自覚は希薄でした。

 そんな中、イエスは弟子たちに言われます。「あなた方は地の塩…世の光」だと。今朝は、クリスチャンがこの世で光のような使命と役割を神から授かっていることを学びます。

 具体的には、これはどんなことでしょうか。

 第一に、光は闇を追い払います。15節に「明かり」とあります。これは油を灯す小さなランプのことで、昔はどの家でも使われました。光は暗い所を照らし、闇を追い出します。

 イエスは弟子たちに、あなた方は「世」の光だと言われます。イエスによれば、この世は煌(きら)びやかに輝いているようでも、実は深い闇を持っているということです。

 では、闇とは何でしょうか。色々ありますが、最大の闇は何といっても宗教的・霊的暗闇です。この世界と人間を造られ、御子を通して、ご自分の存在、知恵、力、聖さ、正しさ、愛、真実を示し、特に罪と永遠の死からの救いをイエスへの信仰だけで下さる真の神を知らないことです。

 確かに科学の発達で、人類の知識は驚く程高まりました。宇宙や天体についての天文学、地球を探求する地球物理学、小宇宙と言える私たち人間の体と精神を研究する医学において、二千年前とは桁違いの膨大な知識を得ました。科学は色々な知識の闇を追い払いました。

 しかし、最も肝心な宇宙と時間、全ての生命体を造られたお方、今も万物を保持し統治しておられる真の神について、科学は何も発見していません。ですから、優秀な頭脳を持つ多くの人が、かつてのオーム真理教のように、今も偶像を拝む色々な宗教に入って平安を求め、あるいは無神論を主張します。ですから、Ⅰコリント2:21は言います。「世は自分の知恵で神を知ることができ」ないと。

 多くの情報や知識が氾濫している現代社会ですが、真の神を知ることや、それ故に自分の生きる本当の意味や目的を知ることにおいて、神の御子イエスが来られた二千年前と何ら変っていません。深い闇のままです。

 しかし、正にここにクリスチャンの大切な使命と存在意義があります。私たちには、世間をアッと言わせるような凄い知識も能力もありません。しかし、十字架に架かり、復活されたイエス・キリストにより、私たちをご自分の計画によって造り、生かし、愛しておられる全知全能の真(まこと)の神を知っています。科学者がスーパーコンピューターを何百年駆使しても知ることの出来ない究極の真理であられる神を、信仰により聖書から知っています。

 その神を、私たちは、イエス・キリストが共にいて下さることによるブレナイ信仰、苦しい時にもなお前進できるキリストにある忍耐と希望、キリストの福音に喜んで従う愛のある生活により証しし、そうして、人の内にある最も深い宗教的・霊的暗闇を追い払う光の働きをさせていただけるのです。これが一つのことです。

 第二に、光は闇を追い払うだけでなく、闇の原因をも明らかにします。光は闇の奥に潜むものを暴き、取り除います。

 人間に闇があることに、人は昔から気付いていました。実際、暴力や殺人、差別、性の乱れ、搾取、虚偽、飽くなき欲望など、人間の闇はどこまで深いでしょうか。ですから、人類は絶えず法律を設け、政治や教育に力を入れ、解決に努力してきました。でも、根本的解決には至っていません。闇の根本原因が分っていないからです。

 では、根本原因は何でしょうか。人の内に潜む罪です。創り主なる真の神との関係が壊れていることです。ですから、光を当てて罪の問題を暴かないといけません。闇の奥に潜むものを照らして暴けるのは光しかなく、光にはそれが出来ます。

 同じように、人間の根本的な闇の原因である罪を明らかにし、それを解決出来るのは、神からの真理の光、キリストの福音の光だけです。クリスチャンは、その光を放つためにも世に派遣され置かれているのです。

 創世記19章は、神がかつて罪と暴虐に満ちた町ソドムとゴモラを滅ぼそうとされた時、人の姿をした天使たちを遣わされたことを伝えています。その彼らを見てソドムの男たちは集り、襲おうとしました。信仰者ロトは食い止めようとしました。すると彼らは「こいつは、よそ者のくせに、裁きをするのか」と怒りました。ロトは彼らをいつも偉そうに裁いていたのではないでしょう。しかし、神を畏れ、神の戒めに従って生きていたことが、彼らには自分たちへの裁きとして感じられたのでした。

 私たちクリスチャンも、いつも世の罪を指摘したり糾弾するのではありません。しかし、神を仰ぎ感謝し、神の御言葉に忠実で清い生活を送り、福音を生活で飾る時、ある人たちは反発し、批判するでしょう。しかし、ある人たちの心の奥にある良心を刺激せずにはおれないでしょう。そこに御霊が働かれる時、人が生れながらに持っている根本的な罪への傾向、つまり、原罪に気付かせ、全ての問題の根本原因が、人が創り主なる神から離れている罪にあることを悟らせます。そして、自分ではどうにも出来ない闇の根本原因である罪からの救い、つまり、神との関係の回復を切に求め始めます。その時、正に世の光であられるイエス・キリストを仰ぐことで、人は罪の解決を許されるのです。

 私たちを、人々の救いのために用いようとしておられるイエスは、今朝も言われます。「あなた方は世の光です」と。

 第三に光には、人の心に安らぎや喜び、希望を与えるという素晴らしい面があります。

 真暗な所でこわごわ手を出し、足を出し、でも何かにぶつかって、痛い思いをした経験は誰にもあるでしょうね。暗闇は危険です。不安を煽り、心から余裕を奪います。

 しかし、そこに明かりがあると、どうでしょうか。状況は一変します。危険は去り、探し物は見つかり、行きたい所へ行けます。いいえ、何より光には、人の心への素晴らしい働きがあります。不安を追い払い、安心や落ち着きを与え、余裕や喜び、また全体を見通せる所から来る希望や勇気を与えます。実際、気持が沈んでいる時でも、明るい日の光を浴びて、やる気や元気が生れる時が、私たちにはありますね。

 実はクリスチャンは、そういう光のような働きや奉仕を、周りの方々にさせて頂くことが出来るのです。「そんなのは無理!私は自分のことだけで精一杯です」と言いたい時や、そんなことなど考えられない大変な時も私たちにはあると思います。しかし、私たちの神は、私たちの弱さを超えて偉大なことのお出来になる神です。

 使徒16章は、パウロとシラスがピリピの町で捕えられ、牢に入れられた時のことを伝えています。二人は何度も鞭打たれ、一番奥の牢に入れられ、木の足枷を足にはめられ、最悪の状態でした。でも二人は真夜中頃、賛美の歌を歌い、神に祈るのでした。

 突然、大地震が起り、牢の扉が皆開き、囚人たちの鎖も全部外れ、目を覚ました看守は、牢の戸が全部開いているので、囚人は皆逃げたと思い、剣で自害しようとしました。その時、パウロは大声で「自害してはいけない。私たちは皆ここにいる」と叫びました。看守は驚き、二人の前に平伏し、牢の外に出して言いました。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」二人は答えました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」この後、看守は二人を外へ出し、自分も家族も全員すぐ洗礼を受けました。

 看守は、牢の扉が皆開いているのを見て、絶望の闇へ突き落されました。何もかも終りだ!生きていけない、と。

 しかし、そこにパウロの声がありました。「自害してはいけない!」それだけではありません。信じられないことが起っていました。囚人は全員いたのです!どうして?パウロたちが凄いことをしたからではありません。イエス・キリストについて説教もしていません。ただ痛む体で賛美を歌い、神に祈っていただけです。看守もその様子を見ていました。が、それが囚人たちの心に消え難い光を与え、彼らは逃げませんでした。看守はこれらのことを通して、生きる希望、つまり、救いの光を見ました。ですから、「先生方、救われるためには、何をしなければなりませんか」と言い、家族と共に洗礼を受け、神を信じる者になったことを家族皆で喜ぶ者に変えられたのです。

 私たちには、パウロたちのような強い信仰はない。しかし、彼らもいつも目を瞠(みは)るようなことが出来たわけではありません。動けず、うずくまり、じっと痛みをこらえ、辛うじて賛美と祈りしか出来ない時もあったのです。

 しかし、神はこんな彼らを用い、囚人たちにも光を与えられました。すなわち、逃げないできちんと囚人としての刑期を終え、もう一度社会に出る勇気と力と希望を与えられたのです。

 また看守は、自殺を選ぶのではなく、困難から逃げないで生きて行く本当の意味での力、勇気、希望、真に家族を大切にする愛、永遠の命の喜びを家族と共に与えられたのです。

 私たちの力でではなく、私たちの内に生きて働いておられるイエス・キリストが、私たちを世の光としてお用いになります!この主を改めて信じ、置かれた所で夫々賛美と祈りに生きていきたいと思います。主は今朝も言われます。「あなた方は世の光です!」

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