素晴らしい王イエス
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- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 2章1節~5節
2: 1 イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
2: 2 「ユダヤ人の王としてお生れになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」
2: 3 これを聞いてヘロデ王は動揺した。エルサレム中の人々も王と同じであった。
2: 4 王は民の祭司長たち、律法学者たちをみな集め、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。
2: 5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれています。マタイによる福音書 2章1節~5節
今朝もクリスマスに関係する御言葉に注目致します。今日は特に、神の御子イエスが王のような救い主であられることに心を傾けたいと思います。
マタイ2:1からの所をご覧下さい。生れたばかりのイエスを捜して東の国から博士たちがエルサレムに来た時、彼らは救い主を2節「ユダヤ人の王」と呼びました。エルサレムの人々も、それが神からの救い主を指すことは分っていました。また幼子イエスに会った博士たちは、11節「ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げ」ました。これはイエスを王として敬う行為でした。
今の私たちには、王について余り良いイメージはないかも知れません。歴史を振り返りますと、権力を振りかざして民を支配し、搾取し、自分は贅沢をして好き勝手に生きた王が多いからです。3節が伝えるヘロデ王などは、イドマヤ出身の外国人ですのにユダヤの王となり、また息子たちを次々殺し、疑い深さと残酷さで有名でした。ですから、「ヘロデの息子になるより、ヘロデの豚になった方が良い」とまで噂されました。
しかし、聖書で神が示される王は違います。祭司長や律法学者が旧約聖書のミカ5:1の神の言葉を引用した6節を読みます。「ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、私の民イスラエルを牧するからである。」実際のミカ5:1と言葉遣いは少し違いますが、意味は同じです。
ここで神の民イスラエルを治める指導者が、「牧する者」、つまり、羊飼いと言われています。これは聖書における王の性質をよく表しています。紀元前1000年頃、イスラエルの長老たちもダビデに王になってほしくてこう言いました。Ⅱサムエル5:2「主はあなたに言われました。『あなたが私の民イスラエルを牧し、あなたがイスラエルの君主となる』と。」
「牧する」とは羊の世話をすることです。神の民を治め導く王とは、羊飼いのような職務であり、神の御子イエスも正にそのような王として私たちのためにおられるのです。
では、もう少し具体的に言って、イエスはどのような王でしょうか。
第一は私たちに対するもので、それに更に二つの面があります。
一つは消極的な面です。つまり、最後には永遠の死に至らせる罪から私たちを守り、私たちを神の道、救いの道に連れ戻すことです。
悪い羊飼いもいますが、羊を愛する良い羊飼いは、羊の気儘(きまま)な行動を放っておきません。勝手に群れから離れ、迷って危険な所へ行く羊もいます。そのままですと、ケガをしたり野獣に襲われ、羊は命を落します。しかし、羊一匹一匹の性格や癖をよく知っている良い羊飼いは、迷い出た羊を懸命に捜して引き戻します。羊を愛しているからです。
主イエスも同じです。柔和な主ですが、私たちが気儘に生きて最終的に自分を滅ぼしてしまうことを大変嫌われ、悲しまれます。そこで、時には試練や挫折や悲しみ、痛みを与え、自分自身を省みるように私たちを導き、また御言葉の説教を用い、訓戒や陪餐停止などの戒規により、悔い改めに導かれます。悔い改めとは神に立ち返ることに他なりません。イエスは目に見えない神の国の王として、私たちを罪と不信仰と滅びから、本当に常に守ろうとしておられます。私たちを真に愛し、救いの道を歩ませるためです。
もう一つは積極的な面です。つまり、イエスは私たちを、神と人を愛し、神と人に仕え、神の清い御心にますます生きることができる者へと養い、清め、全人格的に成長させる王でもあります。
良い羊飼いは、水や草のある所へ羊を導いて養い、また具合の悪い羊には優しく手当てをして癒し、健康を回復させてやります。良い羊飼いには、それは喜びです。ですから、イエスは言われました。ルカ15:4~6「あなた方の内の誰かが羊を百匹持っていて、その内の1匹をなくしたら、その人は99匹を野に残して、いなくなった1匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んで下さい。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。あなた方に言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない99人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。」
イエスも同じです。私たちに教会と牧師を与え、魂を養い育てる霊の食べ物、飲物である御言葉を与え、傷つき弱った魂を癒し、学びと奉仕と交わりによって信徒を訓練し、魂の健康を増進させられます。群れの中で羊が成長するように、私たちも教会の中で霊的に養われ、何が真に神に喜ばれ、また神に嫌われるかを識別できる者へと育てられます。そうして私たちが神の栄光を顕し、神をますます喜べる者へと成長させられます。
イエスは良い羊飼いのように、今この時も私たちを愛し、守り、訓練し、育てようとしておられます。王としてのイエスのこの熱い愛を改めて覚え、是非、主の愛に応えたいと思います。
大きな第二点に進みます。イエスは、永遠の滅びに至らせようとする悪魔・サタンから、私たちを守って下さる王だということです。
羊を愛していない悪い羊飼いは、野獣が襲ってきたら逃げます。しかし、良い羊飼いは自分の命をかけてでも戦って野獣を退け、羊を守ります。羊を真に愛しているからです。
イエスも同じです。神の国の王としてイエスは私たちのために悪魔・サタンと戦い、全てに勝利されました。例えば、マタイ4章が伝えますが、イエスは荒野において悪魔の誘惑を全て退けられました。また16:22以降が伝えますように、イエスが十字架につかないようにサタンは弟子のペテロを使って妨げようとしました。罪も汚れもなく、全くきよいイエスの十字架の死には、全人類を罪から贖う絶大な力のあることを知っていたからです。しかし、イエスは16:23「下がれ、サタン」と言ってこれを退けられました。
すると、次にサタンは、弟子たちにイエスを裏切らせ、彼らを躓かせようとしました。しかし、十字架の死の三日後、イエスは約束通り復活して弟子たちに現れ、彼らを励まし、サタンから守られました。そして天と地の全ての権威を授かったイエスは今、天の父なる神の右に座し、ご自分の許しがなければ、私たちの髪の毛一本地に落ちない程に支配しておられます。
私たちは皆いつか必ず死にます。けれども、今や死の力もサタンも、イエスを心から信じる者を神の愛から引き離すことはできません。イエスが王の王、主の主であられるからです。ですから、パウロは言いました。ローマ8:37~39「これら全てにおいても、私たちを愛して下さった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私はこう確信しています。死も、命も、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高い所にあるものも、低い所にあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
イエスは世の終りに再び来られ、最後まで神と福音を頑なに拒み、不信仰だった者を裁かれます。しかし、どんなに弱く失敗が多くても、心から悔い改めてはイエスを仰ぎ、誠実に生きた信仰者の目からイエスは涙を拭い取り、この世での彼らのどのような労苦も涙も絶対無駄にされません。世の終りのことを教える黙示録7:17は、イエスを子羊と呼んでこう語ります。「御座の中央におられる子羊が彼らを牧し、命の水の泉に導かれる。また、神は彼らの目から涙をことごとく拭い取って下さる。」
イエスは義の王として世の終りに来られ、全ての者を裁かれます。神を侮っていたら、大変なことになります。
けれども、母マリアの胸に抱かれる幼子の姿や、後にはロバの子に乗ってエルサレムに入城された姿によく現れていますように、小さな者、弱い者に、イエスは限りなく憐れ深い柔和な王として臨まれます。
クリスマスのこの時期、神の御子イエスが私たちの王であられることの素晴らしさを改めて深く心に刻み、悔い改めと感謝をもってこの1年を神にお返しし、主イエス・キリストのご支配と導きとを心から祈り求めつつ、2024年を迎えたいと思います。