聖書の言葉 20:16 あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。出エジプト記 20章16節 メッセージ 今日も第九戒「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない」を学びます。 今日は、特に隣人の真実と名誉を尊ぶという点を再度取り上げ、その大切さを心に留めたいと思います。 創世記1:26は、神が「さあ、人を我々のかたちとして、我々の似姿に造ろう」と言われ、27節は「神は人をご自身のかたちとして創造された」と伝えます。神は人をご自分のかたち(以下、「形」と記します)に造られました。神の形とは、広い意味では人格を意味します。勿体なくも、人は創り主なる神に似た人格を持つものとして特別に造られました。ですから、人は、他のどんな被造物とも違って創り主なる神が分り、神に応答し、祈りなどをもって神と親しく交わることができ、また神のパートナーとして他の被造物を神の御心に従って治め、管理する大切な役割と能力を持つ者とされました。何という光栄でしょうか。 ところが、人は神に背いて堕落し、神の形は大きく損なわれてしまいました。しかし、全くなくなってしまったのではありません。大きく傷つき損なわれましたが、人はなお、神の形を持つことを許されています。ですから、古今東西、人間には皆、宗教心があるわけです。 ところで、十戒の第三戒は「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない」と命じます。前に申しましたが、「みだりに」と訳されている元のヘブル語には「空しく、無意味に」という意味と「偽って」という意味があります。従って、第三戒において一番大切なことは、主という御名が表す神のご人格を、真に畏れ、敬い、愛することであり、決して空しい偽りの心で神を扱ってはならないということです。 実は、第九戒はこの第三戒と大いに関係があります。すなわち、人間は皆、大切なその神のかたちを持つ故に、罪深くても、なお尊厳ある存在なのですから、私たちは隣人を軽々しく無意味に空しく、特に偽りの心で扱うようなことを決してしてはならないということです。 むしろ神は、私たちが隣人の真実と名誉を最大限重んじ、尊ぶことを強く求めておられます。ヨハネ福音書3:16が言いますように、罪人ではあっても私たち皆を神が愛しておられるからであり、また人間の内にご自分の形があるわけですから、私たちが相互に相手の人格を重んじ、尊び合うことを願われるのです。 以上のことと関連して、もう少し心に留めたいことがあります。 もうお気付きのように、第一に神の形を持つ他者の真実と名誉を重んじることは、実は私たちは間接的に神ご自身を尊び、神に栄光を帰してもいるのです。ですから、神は私たちが隣人の真実と名誉を重んじることを、とても喜ばれるのです。 「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない」と第九戒は簡潔です。しかし、こうして見て来ますと、第二にここには、(最近は、私たちの周りでもよく言われるようになりましたが)神がご自分の形に造られた故の「人間の尊厳性」という大変重要な真理が、この背後に教えられていると言えます。 従って更に掘り下げますと、第三に私たちは、単に隣人に対するあり方に留まらず、隣人をご自分の形に造られた神を畏れ敬い、神の真実を尊ぶという対神的姿勢、要するに、何より神への真実な信仰を問われているのです。他の戒めでも皆そうですが、第九戒において、神への真実な信仰というこの大切な点を改めて教えられます。よく心に留めておきたいと思います。 そして、第四にこれらの点から更に引き出される真理があります。それは、第九戒に私たちが自覚的に誠実に努める時、必ず私たちが祝福されることです。 繰り返します。第九戒は単に対人的あり方に留まるのではありません。人間をご自分に似せて造られ、それ故、隣人の真実と名誉を尊ぶことを私たちに期待される、神への真実な姿勢と信仰に大いに関係しています。 私たちが隣人の真実と名誉とを心から尊ぶ時、何度も言いますが、神の真実と名誉をも私たちは間接的に尊び、神を崇めています。それを神がお喜びにならないはずがありません。ですから、神は必ず私たちを祝福されるのです。 私たちが隣人の名誉と真実を重んじることに意識的に努める時、私たちは神から頂いた信仰と良心に基いて、一生懸命誠実であろうと努力すると思います。御霊は、私たちのそういう努力、姿勢、信仰、熱意を喜んでお用いになり、私たちを偽りの罪から遠のかせ、ますます私たちを清め、主イエス・キリストの清い真実なご性質とご人格に似る者へと、一層造り替えて下さるのです。何と感謝なことでしょう! 神の形と関係する第九戒に伴う豊かな意味と恵みと福音を、私たちは改めて覚えさせられます。この戒めにご一緒にますます生きたいと思います。 関連する説教を探す 2023年の祈祷会 『出エジプト記』
今日も第九戒「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない」を学びます。
今日は、特に隣人の真実と名誉を尊ぶという点を再度取り上げ、その大切さを心に留めたいと思います。
創世記1:26は、神が「さあ、人を我々のかたちとして、我々の似姿に造ろう」と言われ、27節は「神は人をご自身のかたちとして創造された」と伝えます。神は人をご自分のかたち(以下、「形」と記します)に造られました。神の形とは、広い意味では人格を意味します。勿体なくも、人は創り主なる神に似た人格を持つものとして特別に造られました。ですから、人は、他のどんな被造物とも違って創り主なる神が分り、神に応答し、祈りなどをもって神と親しく交わることができ、また神のパートナーとして他の被造物を神の御心に従って治め、管理する大切な役割と能力を持つ者とされました。何という光栄でしょうか。
ところが、人は神に背いて堕落し、神の形は大きく損なわれてしまいました。しかし、全くなくなってしまったのではありません。大きく傷つき損なわれましたが、人はなお、神の形を持つことを許されています。ですから、古今東西、人間には皆、宗教心があるわけです。
ところで、十戒の第三戒は「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない」と命じます。前に申しましたが、「みだりに」と訳されている元のヘブル語には「空しく、無意味に」という意味と「偽って」という意味があります。従って、第三戒において一番大切なことは、主という御名が表す神のご人格を、真に畏れ、敬い、愛することであり、決して空しい偽りの心で神を扱ってはならないということです。
実は、第九戒はこの第三戒と大いに関係があります。すなわち、人間は皆、大切なその神のかたちを持つ故に、罪深くても、なお尊厳ある存在なのですから、私たちは隣人を軽々しく無意味に空しく、特に偽りの心で扱うようなことを決してしてはならないということです。
むしろ神は、私たちが隣人の真実と名誉を最大限重んじ、尊ぶことを強く求めておられます。ヨハネ福音書3:16が言いますように、罪人ではあっても私たち皆を神が愛しておられるからであり、また人間の内にご自分の形があるわけですから、私たちが相互に相手の人格を重んじ、尊び合うことを願われるのです。
以上のことと関連して、もう少し心に留めたいことがあります。
もうお気付きのように、第一に神の形を持つ他者の真実と名誉を重んじることは、実は私たちは間接的に神ご自身を尊び、神に栄光を帰してもいるのです。ですから、神は私たちが隣人の真実と名誉を重んじることを、とても喜ばれるのです。
「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない」と第九戒は簡潔です。しかし、こうして見て来ますと、第二にここには、(最近は、私たちの周りでもよく言われるようになりましたが)神がご自分の形に造られた故の「人間の尊厳性」という大変重要な真理が、この背後に教えられていると言えます。
従って更に掘り下げますと、第三に私たちは、単に隣人に対するあり方に留まらず、隣人をご自分の形に造られた神を畏れ敬い、神の真実を尊ぶという対神的姿勢、要するに、何より神への真実な信仰を問われているのです。他の戒めでも皆そうですが、第九戒において、神への真実な信仰というこの大切な点を改めて教えられます。よく心に留めておきたいと思います。
そして、第四にこれらの点から更に引き出される真理があります。それは、第九戒に私たちが自覚的に誠実に努める時、必ず私たちが祝福されることです。
繰り返します。第九戒は単に対人的あり方に留まるのではありません。人間をご自分に似せて造られ、それ故、隣人の真実と名誉を尊ぶことを私たちに期待される、神への真実な姿勢と信仰に大いに関係しています。
私たちが隣人の真実と名誉とを心から尊ぶ時、何度も言いますが、神の真実と名誉をも私たちは間接的に尊び、神を崇めています。それを神がお喜びにならないはずがありません。ですから、神は必ず私たちを祝福されるのです。
私たちが隣人の名誉と真実を重んじることに意識的に努める時、私たちは神から頂いた信仰と良心に基いて、一生懸命誠実であろうと努力すると思います。御霊は、私たちのそういう努力、姿勢、信仰、熱意を喜んでお用いになり、私たちを偽りの罪から遠のかせ、ますます私たちを清め、主イエス・キリストの清い真実なご性質とご人格に似る者へと、一層造り替えて下さるのです。何と感謝なことでしょう!
神の形と関係する第九戒に伴う豊かな意味と恵みと福音を、私たちは改めて覚えさせられます。この戒めにご一緒にますます生きたいと思います。