主はわたしの旅路を導く
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- 李 建昌 牧師
- 聖書 創世記 24章1節~14節
24: 1 アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しおておられた。
24: 2 アブラハムは自分の全財産を管理している、家の最年長のしもべに、こう言った。「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。
24: 3 私はあなたに、天の神、地の神である主にかけて誓わせる。私はカナン人の間に住んではいるが、あなたは、その娘たちの中から、私の息子の妻を迎えてはならない。
24: 4 あなたは、私の国、私の親族のところに行って、私の息子イサクの妻を迎えなさい。」
24: 5 しもべは彼に言った。「もしかしたら、その娘さんが、私についてこの地に来ようとしないかもしれません。その場合、ご子息をあなたの出身地へ連れて戻らなければなりませんか。」
24: 6 アブラハムは彼に言った。「気をつけて、息子をそこに連れて戻ることのないように死なさい。
24: 7 天の神、主は、私の父の家、私の親族の地から私を連れ出し、私に約束して、『あなたの子孫にこの地を与える』と誓われた。その方が、あなたの前に御使いを遣わされるのだ。あなたは、そこから私の息子に妻を迎えなさい。
24: 8 もし、その娘があなたについて来ようとしないなら、あなたはこの、私との誓いから解かれる。ただ、私の息子をそこに連れて戻ることだけはしてはならない。」
24: 9 それでしもべは、主人であるアブラハムのももの下に自分の手を入れ、このことについて彼に誓った。
24:10 しもべは主人のらくだの中から十頭を連れて出かけた。主人のあらゆる良い品々をその手に携えていた。彼は立って、アラム・ナハライムのナホルの町へ行った。
24:11 彼は夕暮れ時、水を汲む女たちが出て来るころ、町の外の井戸のそばにらくだを伏させた。
24:12 そうして言った。「私の主人アブラハムの神、主よ。どうか今日、私のために取り計らい、私の主人アブラハムに恵みを施して下さい。
24:13 ご覧ください。私は泉のそばに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出て来るでしょう。
24:14 私が娘に、「どうか、あなたの水がめを傾けて、私に飲ませてください』と言い、その娘が、『お飲みください。あなたのらくだにも水を飲ませましょう』と言ったなら、その娘こそ、あなたが、あなたのしもべイサクのために定めておられた人です。このことで、あなたが私の主人に恵みを施されたことを、私が知ることができますように。」
創世記 24章1節~14節
創世記24章は、67節もある創世記の中で最も長い章で、イサクの結婚物語を扱っています。24章の全体を見ながら、神の言葉に耳を傾けたいと思います。
神はアブラハムを特別に召し、「私が示す土地に行きなさい。その地をあなたの子孫に与えて大いなる国民とする」と語られました。土地と子孫に関する約束をくださいました。アブラハムは神の言葉に従い、旅立ち、カナンの地に到着しました。しかし、時には困難にも直面し、人間的な弱さを見せる失敗もありました。神は続けてアブラハムの信仰を成長させます。なぜなら、神がアブラハムを直接呼び出してくださったからです。アブラハムの信仰の旅路は、創世記25章でアブラハムの死の時まで続きます。アブラハムの信仰は続けて成長し、後代には信仰の父と呼ばれる程になります。
1.アブラハムの信仰者としての姿勢
創世記23章では、アブラハムが妻サラを葬るためにマクペラの畑と洞穴を買い取る話が紹介されています。これは非常に重要な意味を持っています。アブラハムとその子孫に、小さな地域ではありますが、公的にカナンの地を所有するようになったからです。このように、カナンの地をアブラハムとその子孫に与えるという神の約束が成就されていきます。
しかし、もう一つ、土地の問題ほどに重要な約束が存在します。アブラハムの子孫の問題はどうなるのでしょうか?24章1節には、「アブラハムは年を重ねて、老人になっていた」と記録しています。アブラハムは100歳の時に奇跡的にイサクという約束の子を得て、その後も年月が経過し、サラは亡くなりました。またさらに3年が経ち、アブラハムは140歳になりました。息子イサクは40歳の時でした。
サラが亡くなり、アブラハムには他の子供が生まれる可能性は消えました。しかし、息子イサクはまだ結婚していないため、いつ子供が出来るか見込みもありません。それでは、神がアブラハムにくださった子孫に関する約束はこれで終わるのでしょうか。1節の後半では、アブラハムに対して「主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた」と記録されています。
神様がアブラハムに祝福をお与えになったことは、神が彼の人生に共におられ、アブラハムの歩みを導いてくださることを意味しています。子孫の約束に関する危機に直面しても、どんな試練にも、主は究極の祝福を授けます。ヨセフの人生でも多くの困難はあっても、創世記39章2、3、23節のように「主がヨセフとともにおられたので、彼は成功する者となり」と記録されたように、神様は祝福をお与えになるお方です。どんな状況にも共におられ、導いてくださることが神様の真実さです。
子孫への約束を、神様はどのように実現して行かれるでしょうか。
2.イサクの結婚問題 : 信仰者の解決方法
創世記24:2-6節を要約してみましょう。
アブラハムは、カナンの地で行われている偶像崇拝や淫らな行為で満ちているカナンの異教の女性をイサクの妻として受け入れたくありませんでした。創世記9章以降の聖書がカナンの人々を邪悪な者たちとして描いていることから、アブラハムの考えがうかがえます。
神の約束としての子孫への契約の成就のため、アブラハムは信頼しているしもべにイサクの結婚相手を見つけるために旅立つように命じました。自分の故郷に行って、嫁をめとってくることを願いました。それから、彼女がカナン地方に来たくないとしても、イサクを彼の地に連れていくことはしないように命じます。なぜなら、神はアブラハムとその子孫に、カナンのこの地を約束されたからです。
アブラハムはしもべを送り出す際、神の約束への固い信仰に基づいて、祝福の中で送り出します。まだまだこの旅の先の結果は見えていない状況でも、神の言葉を信頼することこそが信仰であることが覚えられます。アブラハムは神の約束を信頼し続け、それを一生涯、心に留めていました。ここからアブラハムの信仰の姿勢を伺うことができます。7節の後半です。「その方が、あなたの前に御使いを遣わされるのだ。あなたは、そこから私の息子に妻を迎えなさい。」
さらに、9節では「それでしもべは、主人であるアブラハムのももの下に自分の手を入れ….. このことについて彼に誓った」と記されています。この行為により、しもべは自分の主人アブラハムがそうしたように、神の導きと約束の成就を信頼していることが分かります。それゆえ、しもべは自分の命をかけて誓いを立て、旅立つ決意をしています。この旅は、カナンのヘブロンからメソポタミア(ハランのナホルの町)まで、約900キロメートルもの長い旅でした。当時の交通や道路の状況を考えると、命がけの危険が伴う遠い旅だったのです。
続いて、創世記24章 12-14節の箇所を見てみましょう。アブラハムのしもべもアブラハムと同じような信仰を持っていることが分かります。彼は主人の旨を遂行するために、神様の導きを求めます。自分の使命が全うできるように祈りながら旅を続けます。12節です。
「私の主人アブラハムの神、主よ。どうか今日、私のために取り計らい、私の主人アブラハムに恵みを施してください。」
彼の祈りは、まず、神が「私を顧みて」、そして「主人アブラハムに慈しみを示してくださること」を願います。さらに「賢くて心優しい」結婚相手に出会えるように神様に祈っていることが示されています。彼の祈りは非常に具体的で、神の備えられた人を願い求めていることでした。
3.リベカを迎えて妻とする : 神様の導き
この祈りは神様に受け入れられたでしょうか。はい、15節。エリエゼルの祈りがまだ終わっていない内に、リベカとの出会いが実現されました。そして、16節以降、リベカの言葉や行動を見ますと、しもべは自分が祈った女性がリベカであることを確信できたのです。このように、神の約束は成就され、イサクとリベカの結婚は進むようになりました。
このことが神の導きである証拠を二つ伺うことができます。まず17節から29節に見られます。神様がしもべの祈りに答えると、しもべは直ちに神を賛美し、感謝しました。27節です。「こう言った。『私の主人アブラハムの神、主がほめたたえられますように。主は、私の主人に対する恵みとまことをお捨てになりませんでした。主は道中、この私を導いてくださいました。主人の兄弟の家にまで。』」
しもべは神の導きに感謝し、主人アブラハムの神を賛美しています。これは神の導きが実現し、神の約束が成就していることへの感謝と賛美の表れです。
年寄りのしもべは、主人の息子の妻探しの旅を通じて、神様が真実に導いてくださったことを確信しました。それで、何よりもまず神に感謝の讃美を捧げました。私たち被造物が行うべき最も偉大なことは、創造主である神様を礼拝することです。また、礼拝者の祈りは、神様の前で何かを得ようとするものではありません。主が先立って行われる、主が導いてくださるということを告白する信仰の表現が祈りなのです。
そして、しもべは33節「彼は『私の用件を話すまでは、いただきません』と言った」と述べています。彼はリベカの家に招かれ、ラバンの歓待で用意された華やかな食事の前でも、「主人の意志が実現するまでは食事を受けません」と言います。しもべの忠実さは、クリスチャンの使命者の有様をも示しているのです。そして、しもべは34節から49節まで、自分の旅地の経過を語ります(1-27節を繰り返しています)。神が彼をここまで導かれ、祈った通りにリベカに会わせてくださったことを、ラバンの前で証ししています。神様が導いてくださった出来事を証しすることは、いつも神様の栄光を表す手段となるのです。
もう一つの証拠は、アブラハムのしもべの言葉を聞いたリベカの兄ラバンの告白です。
私たちは(創24:30)から、ラバンがどのような人物で、どのような価値観を持って生きているかをまず注目する必要があります。ラバンは「飾り輪と、妹の腕にある腕輪を見(て)、」と述べられているように、贈り物として受けた妹の宝物にまず目が向いている人物でした。彼はお金か財物に導かれる人物であることが分かります。しかし、ラバンですら、リベカに起こった出来事が、神の摂理の中にあることを否定できないことを告白します。
24章50節です。「主からこのことが出たのですから、私たちはあなたに良し悪しを言うことはできません。」 命がけで旅をし、アブラハムのしもべがリベカに出会う過程を全部聞くと、リベカだけでなく、その場にいたすべての人々が、リベカがイサクの妻になることについて、神の確かな導きであることに同意したことが分かります。
このように、私たちも何かを決める際に、神様の御旨が明らかであれば、すべての人が同じ心を持つようになります。神の導きを感じ、共に神様を賛美することができるでしょう。
神の働きが明白に見えたので、ラバンは創世記24章60節でリベカを祝福し、アブラハムのしもべとともにカナンに送り出そうとします。「われらの妹よ、あなたは幾千万にも増えるように。 あなたの子孫が敵の門を勝ち取るように。」 この祝福は、創世記12章と15章、また22章で神がアブラハムに与えた子孫に関する約束と同じ内容です。(創22:17)です。「確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。」
この結婚はとても重要な意味を持っています。イサクとリベカの結婚を通して、約束された子孫が生まれるからです。ヤコブとユダから、またその後に多くの子孫が生まれ、特別な子孫が現れて敵を打ち破ることが宣言されています。この子孫の約束を貫いて、やがてイエス・キリストがこの地に来られ、約束が実現されました。今は、イエス・キリストを信じるすべての人々は、神の約束の民となります。
このようにアブラハムのしもべは、神様の導きによってリベカとともにカナンに戻りました。そうすると、イサクの結婚に関するすべての出来事は、老いたしもべの信仰と奉仕によって実現されたのであり、イサクは何もしていなかったかと考えがちです。しかし、創世記24章63節では、イサクが妻を待つ間、野原を歩いていたことが記されています。ここで「散策」という言葉は、実際には「黙想していた、祈っていた」という意味です。イサクも祈っていたのです。アブラハムのしもべとイサクが祈ったということは、神様の導きを信じていたからこそであります。これは、むしろ確かな導きを信じる信仰の表現でもありました。
今日のメッセージを通じて、神の約束は必ず実現すること、そしてその実現のための神の導きが確かであることを学びました。このような導きは、信仰者の揺るがない信仰の歩みによって示されるものであることを忘れないでください。
[結論]
アブラハムのしもべとリベカの出会いは神様の約束の御言葉により、神様の導きによって実現されました。同様に、私たち一人ひとりにも、「これは神の御心によって出会った祝福された導きである」と感じられる瞬間があったと思います。
神様はアブラハムに約束をお与えになったように、私たち各自にも約束の言葉を与えられ、私たちの人生を導いてくださいます。神様は私たちの弱い信仰を成長させ、その信仰が私だけではなく、周りにも広がっていけるようにしてくださいます。神様のご計画は、キリスト者の次の世代や私たちの周りにも影響を与えることが望まれています。今、私たちの弱い信仰や困難な状況にだけ目を留めることなく、私たちはただ神様に導かれていることを信じましょう。信頼して歩む人には、神が働いておられることが見えます。神様に対して惜しまない人には、神様のお導きによる道が開かれます。導かれていることを信頼して、祈りましょう。そして、私たちが出会ったイエス・キリストが、生ける神様の存在を信じていない家族や隣人に対して伝えられることを願います。