2023年11月12日「待ち望め、主を。雄々しくあれ。」

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待ち望め、主を。雄々しくあれ。

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
詩編 27章14節

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27:14 待ち望め、主を。
    雄々しくあれ。心を強くせよ。
    待ち望め、主を。詩編 27章14節

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 私たちには、時々、大変なことが起って自分を失いそうになり、先のことを思うと不安で堪らなくなることがあると思います。そういう時、どうすれば良いのでしょうか。今朝は詩篇27に学びたいと思います。

 標題に「ダビデによる」とあります。標題は聖書本文ではなく、詩篇の編集時に昔からの伝承として付けられました。また「ダビデによる」は、「ダビデ作の、ダビデのための、ダビデを覚えての」などと訳せて、必ずしもダビデの著作を意味しません。

 とにかく作者は1~6節で力強く歌います。1節「主は私の光、私の救い、誰を私は恐れよう。主は私の命の砦。誰を私は怖がろう。」3節の終りでは「私は動じない」と歌います。

 しかし、7~13節では様子がガラッと変わります。7節「聞いて下さい、主よ、私が呼ぶこの声を。私を憐れみ、私に答えて下さい。」9節「どうか、御顔(みかお)を私に隠さないで下さい。あなたのしもべを怒って、押しのけないで下さい。あなたは私の助けです。見放さないで下さい。見捨てないで下さい。」12節「私を敵の意のままにさせないで下さい。」

 彼は痛々しく神に訴え、助けを求めます。恐らく、7~13節の苦しみと不安が現実の彼の状況でしょう。12節では「偽りの証人…暴言を吐いている」とも言っています。

 しかし、こういう苦しみを自分が味わうことになった原因を思いますと、思い浮かぶのは神への自分の罪と不信仰でした。ですから、9節「どうか、御顔を私に隠さないで下さい。あなたのしもべを怒って、押しのけないで下さい」と祈ります。

 苦しみは、私たちの罪や不信仰が直接、原因の時もあれば、そうでない時もあります。しかし、辛い時、私たちはつい自分の罪や不信仰が原因ではないかと考え、詩篇27篇の作者も同じでした。そしてこれが一層彼を精神的に追い込みました。

 しかし彼は、ただ悶々としたり、落ち込んで、自分を失うことはしませんでした。問題は未解決。先のことを思うと不安と心配で胸が締め付けられる。けれども、彼は1~6節で言うように、神について知り確信していることを告白し、自分に語り聞かせます。

 ここに私たちは大切なことを教えられます。私たちは、苦難の時にこそ、神の言葉をもっと告白し、また自分に語り、神の御旨(みむね)と御業(みわざ)を何度でも自分に教育し、確認させるべきだということです。作者はそのようにし、最後に14節で再び神の言葉を自分に語り、自分を鼓舞しています。

 何が何でも自力で立ち上れ、というのではありません。14節2行目で「雄々しくあれ。心を強くせよ」と命じますが、その前後で言いますように、主を待ち望むことと共にであり、主を待ち望むことにおいてなのです。

 ところで、私は14節で彼が神の言葉を自分に語ったと言いましたが、こういう言葉はあるのでしょうか。全く同じではありませんが、この詩篇作者の数百年前の出来事を伝えるヨシュア記1:6にあります。そこは、古代イスラエル民族の偉大な指導者モーセが死に、ヨシュアが後継者として立たされる場面です。彼はひどく不安でした。独りで全イスラエルを導けるのか。その彼に神は言われました。1:6「強くあれ。雄々しくあれ。」

 では、「待ち望め、主を」はどうでしょうか。直前の1:5で主なる神はヨシュアに言われました。「私はモーセと共にいたように、あなたと共にいる。私はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」ある意味、これは「主を待ち望め」と同じです。

 そして事実、主はヨシュアを見放されませんでした!この神の言葉を詩篇27の作者は知っていたでしょう。ですから、彼は詩篇27:10でこう歌います。「私の父、私の母が私を見捨てる時は、主が私を取り上げて下さいます。」背景にヨシュアへの神の言葉があり、彼はそれを自分に説教し、そこに立ち、やがてヨシュア同様、困難を克服しました。ですから、この詩篇が残っているのです。

 死が近づいた時、ダビデも息子ソロモンを呼び、Ⅰ歴代誌22:11「わが子よ、主があなたと共におられ」と言った後、13節「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない」と教えました。ダビデの死後、若いソロモンがイスラエル12部族を治めるのは、どんなに困難でしょうか。怖気(おじけ)づき、不安に押し潰されかねません。しかし、賢明な父親であった信仰者ダビデは、ヨシュアへの神の御言葉をソロモンに与え、自分の力に頼らず、主を待ち望むように教え命じました。ソロモンは、それにより自分の召された道を歩むことが出来ました。

 敵に狙われ、苦境にあった詩篇31の作者も、同様な言葉で終っています。詩篇31:24「雄々しくあれ。心を強くせよ。全て主を待ち望む者よ。」

 私たちも困難に遭う時、いつこれが終るのかと、不安や焦りに自分を失いそうになるかも知れません。

 しかし第一に、詩篇作者に倣い、「主を待ち望め。雄々しくあれ」と、御言葉を何度でも自分に語り、自分に説教し、確認し、御言葉に立つのです。

 第二に、これらの御言葉に実際に従うのです。

 「雄々しく」あることの一つは、問題を直視することです。問題を直視しないために、私たちは過度に不安になることがあります。しかし、直視すると、問題に案外冷静に対処出来ることがあります。

 主イエス・キリストは、恐るべき十字架を常に直視され、目を逸らされませんでした。また、ご自分の十字架の苦難により、全世界の神の民を救い、彼らの心と生活に神の国、つまり、神の恵みのご支配が広がるというご自分の苦難の結ぶ実を覚え、命を献げられました。

 第三に、私たちは「主を待ち望」むことを忘れたくないと思います。

 ローマ8:28が言いますように、神はご自分を愛する者のために、最後には必ず万事を益として下さいます。それが早いか遅いかは、神がご自分の知恵によってお決めになり、一番良い時に、ご自分の方法で、ご自分の約束を果たされます。

 またⅠコリント10:13が言うように、神は、信仰者を耐えられない試練に遭わせず、試練と共に、耐えられるように必ず脱出の道も備えておられます。ですから、私たちは自分の出来る所までは逃げずに努力し、しかし、それ以上は静まって「主を待ち望」み、主に期待し、主のなさることを見せて頂くのです。

 親が子供を見捨てることは、悲しいことですが、あります。しかし、神がご自分の子を見捨てることは、天地がひっくり返ってもありません。Ⅱテモテ2:13が言うように、神はご自分を偽ることがお出来にならないのです。ご自分の真実と名誉にかけて、神は御言葉を成就させ、信仰者を守られます。

 「雄々しく」、しかし静まって「主を待ち望」み、今年の残る日々と新しい2024年を、共に真実に、また固く踏みしめて行きたいと思います。

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