2020年07月16日「主の祈りの学び15 第三祈願 3」

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主の祈りの学び15 第三祈願 3

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 6章9節~13節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:9 ですから、あなた方はこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
6:11 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』
    (新改訳聖書 2017年度版)
マタイによる福音書 6章9節~13節

原稿のアイコンメッセージ

 主の祈りの第三祈願を今日も学びます。

 これまで私たちは、神の前で自分の思いのままに進むのではなく、自分を後ろに引くこと、また御子を十字架につけられた程に私たちを愛して下さっている父なる神を信頼し、神の御心に自分を委ね明け渡すことを学びました。

 今日は、信仰の先輩たちがこの祈りについて教えたハイデルベルク信仰問答を見たいと思います。

「問124 第三の願いは何ですか。」

 答「『御心の天になる如く、地にもなさせたまえ』です。すなわち、私たちや全ての人々が、自分自身の思いを捨て去り、唯一正しいあなたの御心に、何一つ言い逆らうことなく、聞き従えるようにして下さい、そして、一人一人が自分の務めと召命とを、天の御使いのように、喜んで忠実に果たせるようにして下さい、ということです。」

 どちらかというと消極的な表現ですが、まずこう述べます。「私たちや全ての人々が、自分自身の思いを捨て去り、唯一正しいあなたの御心に、何一つ言い逆らうことなく、聞き従えるようにして下さい」と。

 先程申しました「自分の思いのままに進むのでなく、自分を後ろに引くこと」というのが、今の部分にほぼ相当すると言えるでしょう。しかし、折角ハイデルベルク信仰問答を見ているのですから、もう少し詳しく学びたいと思います。

 ハイデルベルク信仰問答は「私たちや全ての人々が」と述べ、私たちの思いや意識を自分だけでなく、「全ての人々」に向けるべきことを教えます。昨年の11月27日の祈祷会で第1祈願を学んだ際にも、主の祈りが隣人愛の祈りであることをお話しましたが、これは第3祈願においても同じです。

 無論、私たちは自分のことで「御心の天になる如く、地にもなさせ給え」と祈って構いません。むしろ、自分の罪深さ、弱さ、欠け、小ささ、愚かさが本当によく分っているならば、私たちは「神様、この私にあなたの御心こそがなりますように」と心から祈らずにおられません。むしろ、絶えず真剣にこう祈るべきでしょう。

 しかし同時に、私たちは、自分が神を知ることを許され、イエスを信じる信仰を与えられ、永遠の救いに与り、神の子供、神の民とされたことの意義と目的を忘れてはなりません。

 創世記12:2、3が伝えますように、信仰の父アブラハムは、全世界の祝福の源となるために、神との特別な関係、つまり、恵みの契約に入れられたのでした。彼は自分の幸せのためだけに救われたのではなく、全世界の人々の本当の幸せ、すなわち、救いのためにも救われたのです。そしてこのことは、アブラハムの霊的子孫である私たちクリスチャンにおいても全く同じです。私たちは、様々な折に、自分以外の色々な人のことに、いいえ、全世界のあらゆる人のことに意識をグイと広げ、また彼らのことで思いを巡らし、特に彼らの救いと祝福のために神に祈ることへと召されているのです。先程、主の祈りが隣人愛の祈りだと申しましたが、本当にその通りなのです。

 そして御子イエスご自身も、私たちクリスチャンの使命、関心、働きが、常に全世界的であることをお教えになりました。マタイ28:19は、復活の主イエスの御言葉をこう伝えます。「あなた方は行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け」なさい、と。

 それだけではありません。聖霊なる神もあのペンテコステの日、祈っていた弟子たちに臨まれ、彼らは「御霊が語らせるままに、他国の色々な言葉で話し始め」ました(使徒2:4)。ここからも、イエス・キリストの十字架の贖いに与った私たちクリスチャンの使命、関心、働きが、更に言うならば、祈りと愛が、常に全世界的であること、あるべきことを教えられます。

 ところで、ハイデルベルク信仰問答が作られた1563年といえば、1555年9月のローマ・カトリック教会とルター派教会のアウブスブルク講和により、ドイツでの宗教改革運動はある程度落ち着いていました。とはいえ、フランスなどの状況から見ますと、改革者たちにとっては、まだなお厳しく思える状況だったでしょう。

 しかし、そういう厳しさの中にあっても、この信仰告白を作り、これを自分たちの信仰告白とした人たちは、決して自分の救いや安全や幸せしか頭になかったのではありませんでした。何より神の御言葉、聖書に明確に示されています神の壮大な救いの御心、ご計画、またエペソ3:18が述べますが、神の愛の「広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるか」をよく理解し、それ故、「私たちや全ての人々が」と告白し、事実そのように全世界の全ての人々(そこには当然ローマ・カトリック教会の人たちのことも含まれていたでしょう)に、常に関心を広げているべきことを覚えようとしたのでした。彼らの信仰、意識、祈りと愛に本当に教えられます。

 今を生きる私たちも、常にこういうことをよく自覚しつつ、祈りたいと思います。「御心が天で行われるように、地でも行われますように!」アーメン

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