いのちの休息
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- 柏木貴志 牧師
- 聖書 マルコによる福音書 6章30節~34節
6:30 さて、使徒たちはイエスのもとに集まり、自分たちがしたこと、教えたことを、残らずイエスに報告した。
6:31 するとイエスは彼らに言われた。「さあ、あなたがただけで寂しいところへ行って、しばらく休みなさい。」出入りする人が多くて、食事をとる時間さえなかったからである。
6:32 そこで彼らは、自分たちだけで舟に乗り、寂しいところに行った。
6:33 ところが、多くの人々が、彼らが出て行くのを見て、それと気づき、どの町からもそこへ徒歩で駆けつけ、彼らよりも先に着いた。
6:34 イエスは舟から上がって、大勢の群衆をご覧になった。彼らが飼い主のいない羊のようであったので、イエスは彼らを深くあわれみ、多くのことを教え始められた。マルコによる福音書 6章30節~34節
<はじめに>
昨年に引き続き、北四国伝道会講壇が守られましたこと、感謝しています。
ただ、わたしは昨年も、説教奉仕をさせていただきまして、またお隣の教会からということで、代わり映えしない顔で申し訳ありません。
しかし、わたしとしては、御言葉を共に聴くことがありがたく、楽しみにして参りました。
今日、お読みしたところは、「五千人への給食物語」として知られるお話へと続く、その導入のところです。「五千人への給食物語」は、イエス様が、五千人を越える多くの群衆を、五つのパンと二匹の魚でもって、それらを弟子に配らせることで養われたというお話しです。
食べるものは尽きることなく、そこにいたすべての人が満腹になりました。
心も体も満たされました。神様の祝福に満たされました。
神様が人間に求められることは、生きることなんです。
満たされて生きることです。神の、あなたは生きよと、神の恵みに生きよという、そういう御心に満たされて生きることです。
その神様の、人間に対する思いというものが、この「五千人への給食物語」には本当に美しくあらわされています。だからでしょうか、新約聖書にある四つの福音書すべてに、このお話が記されています。そういうお話は意外に多くない。
いわゆる「奇跡物語」に限りますならば、四つの福音書が共通して記しますのはこの「五千人への給食物語」しかない。それほど、弟子たちにとりまして、最初期のキリスト教会にとりまして、このお話は大切なものであったということですね。
文書にするわけですから、何かを選んで、何かを外さなければいけない。
しかし、このお話はどうしても外すことができない、外してはいけないものであった。ここに、神様の御心が端的に、鮮やかにあらわされていたからです。
神の恵みの中に生きよ、という御心がです。
と、ここまで語りながら、今日は「五千人への給食物語」には入らないんです。
その手前のところまでをお読みしました。五千人を越えるような人たちが、どのようにして、また、なぜ、「寂しいところ」、すなわち「荒れ野」という場所に集ることになったのか。ご一緒に思いを向けて参りましょう。
31節に、こういうイエス様の言葉が記されています。
「さあ、あなたがただけで寂しいところへ行って、しばらく休みなさい。」
どうやら弟子たちは疲れていたようなんですね。
この前のところを読みますと、弟子たちは方々に伝道旅行に行っていまして、ここはそこから帰ってきたところなんです。それで、疲れていた。
皆さんは、どうでしょうか。
一週の旅路を終えて、それぞれ神様から遣わされた場所で、お家で、仕事場で、学校で、御自身の務めをなして、今日、ここにやって来られた。
お疲れではないでしょうか。疲れてないわけ、ないですよね。
どうか、その疲れに、ちゃんと心の耳を傾けていただきたい。
本当に疲れていますと、疲れていることに気づかなくなるからです。あるいは、クリスチャンというのは真面目ですから、疲れを認めないということもあります。
疲れますと、神様の恵みをちゃんと受け取ることができなくなります。
神様の恵みはいつもわたしを取り囲んでいます。
でも、そう思えなくなってくる。
それは決して信仰が弱いとか、祈りが足りない、聖書を読むのが足りない、そういうことではなくて、あるいは教会の奉仕を一生懸命にする、そこで満ち足りたものがある、それでも、疲れというのは、わたしたちを覆うものです。
と言いますのは、わたしは10月2日から11日まで、韓国に行ってまいりました。
一番の目的は、四国中会と姉妹関係にあります大韓イエス教長老会高神派のソウル西部老会(こちらで言う「中会」)で問安の挨拶をするということでした。
が、その前に、高松東教会の崔先生と姜さんを日本への宣教師として送り出してくださっている支援者の人たち、教会を訪問して、お礼を伝えるということがありました。ソウルから南の麗水(ヨス)というところまで、崔先生の車の運転で3時間、4時間かけて行くという肉体的にはハードだったかもしれない旅でした。
でも、わたしは疲れなかったんです。というより、どんどんと元気になっていった。
と言いますのは、支援者の人たち、その教会に伺って、一緒にたくさんお祈りしたんです。たくさん賛美したんです。韓国の人のお祈りは熱いですね。日本のことをいろいろとお話をしました。韓国の教会のことをいろいろと聞きました。
韓国のクリスチャン人口は全人口のおよそ3割ぐらいです。町をちょっと歩けば、幾つもの教会を見つけることができる。そこにある信仰の懐の深さがある。
たくさん感動したことがあるんですけれども、一つあっと思ったことがあった。
韓国には、宣教師が一時帰国したときに、宿泊できる施設があります。そこに荷物を置きに行ったんです。そのときに、祈祷課題を受け付けに出すように言われるんです。それは、その部屋をお掃除をしてくれる人が、お掃除をしながら祈るためのものでした。こういうふうにして、祈りを積み重ねていくのか。本当に、一つ一つの祈りの力を信じているという在り方に感動しました。
そういうものに触れていくうちに、何かわたしのなかで癒されていくものがありました。そこで初めて気づいたんです。そうだ、自分は疲れていたんだと。疲れていたんだということを、その疲れが癒されていくなかで初めて気づかされたんです。
それは、今回の旅で、本当にありがたいことでした。
こういうことは、みなさんもあるんじゃないでしょうか。
神様はいつも共にいてくださいます。恵みがわたしたちから片時もなくなることはありません。「それでも」ということがある。
イエス様の弟子たちも、伝道旅行に行っていた。福音を語っていた。
神様の祝福の中にあった。それでも、疲れたんです。そういうことがある。
イエス様は、「しばらく休みなさい」と言われます。
「寂しいところ」。要するに、賑やかではない、人がいない、静まれる場所ということです。本当に、神の恵みの中に憩うところで休まなければいけない。
体もそうです。心もそうです。魂もそうです。休息を取らなければいけない。
そうしなければ、人間は壊れてしまいます。
あるいはどこかの部分を鈍くさせて、麻痺させて、ごまかしごまかし行かなければいけない。しかし、それを長く続けていますと、必ずどこかにガタがきます。
イエス様は休みなさいと言われます。
この五千人への給食物語は、人びとがイエス様のもとで休むというお話なんですね。
弟子たちは疲れていました。
31節に、「出入りする人が多くて、食事をとる時間さえなかったからである」と記されています。弟子たちはずっと働き続けたんですね。
福音を求めて、次から次へと人が押し寄せてきました。
もう食事をする時間もない、疲れを覚える暇もない、そういう日々が続きました。
そこで、イエス様は言われた。
「さあ、あなたがただけで寂しいところへ行って、しばらく休みなさい。」
不思議なもので、人に会うということは、今日ここに来させていただいても思いますけれども、人と会うと元気になる、お話していると元気になる、という面があります。神様は「人が独りでいるのは良くない」と言われた。それは本当です。
が、他方で、どれほど気の合う仲間といても、疲れるということはある。
わたしたちがこうして共に生きていくという場合に、それはひとり静まる、ひとり休息するという時間があってこそ、豊かになっていくものですね。
福音書を読んでいますと、イエス様もしばしば荒れ野に一人でていかれるお姿が記されています。そこで、イエス様は何をされているかと言いますと祈っておられる。
荒れ野で祈っておられる。父なる神と対話しておられる。そこで御自身を見つめておられる。「寂しいところ」って、そういう場所なんですね。
人の声に遮られることなく、神さまと交わる。
そうして、人間を取り戻していくと言いますか、活力を回復させると言いましょうか。そういう「荒れ野」が、わたしたちに必要です。
それは、広い意味での礼拝の場と言えるでしょう。場所はどこでだっていいんです。傍から見たら、何にもしていないように見えるかもしれない。しかし、その人の内側で、いろいろと思い巡らしている。神の恵みのもとに神との対話が起こっている。
弟子たちも、そういう時間、そういう場所を必要としていました。
そこで、弟子たちは舟をこぎ出しまして、「寂しいところ」という荒れ野に行った。
が、行ったはいいんですけれども、福音を求める多くの人がそれを見ていまして、その弟子たちのいるところに、押し寄せてしまったということです。
それがのべにすると五千人、しかもそれは男性だけの人数ですから、女性や子供を含めると、もう1万人を越えるような、とんでもない一大イベントになってしまった。これではもうちょっと、弟子たちは休めませんね。
そこで、イエス様が出ていかれる。
で、そこに集って来た群衆たちを見ると、事態はより深刻であったわけです。
弟子たちも疲れていました。しかし、もっと疲れている人たちが、そこには溢れていた。「飼い主のいない羊のよう」と記されています。
ここで、弟子たちの休み方が変わります。変わることが余儀なくされます。「飼い主のいない羊のよう」と言われる、この人たちに注がれる神の恵みを直接に見る、その中に身を置く、そういうかたちでの休息へと導かれていきます。
「飼い主のいない羊のよう」。
羊というのは不思議な動物で、立派な角や牙があるわけではない。
足が速いわけではない。むしろ遅い。
羊は、自分の身を守るすべを持たない動物なんですね。
おまけに目が悪いときたもので、狼なんかの餌食になりやすかった。
飼い主がいないと生きていけない、羊飼いがいないと生きていけない。
そこで、ほとほと弱り果てた人間の様をあらわすのに、「飼い主のいない羊のよう」というモチーフが、聖書のなかでしばしば用いられています。
ひとつ代表的な箇所を見ておきますと、エゼキエル書34章です。旧約1476頁。
その5節、6節にこうあります。
5節「彼ら(「彼ら」というのは神の民イスラエルのことです)は牧者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となった。こうして彼らは散らされた。」6 節「わたしの羊はすべての山々、すべての高い丘をさまよった。わたしの羊は地の全面に散らされ、尋ね求める者もなく、捜す者もない。」
イスラエルの指導者たち、王も祭司も預言者も、民衆に神様の恵みを見せてくれることはありませんでした。民がどう苦しもうとも、気にもとめない。
そうしたなかで生活を送るイスラエルは、飼い主のいない羊のような有様で、ほとほと疲れ果てていた。神様の恵みが分からない。どこにも見えない。それで、生きる希望を見出すことができなくなっていた。
神はそこでエゼキエルに言葉を託されたのです。
11節です。「まことに、神である主はこう言われる。『見よ。わたしは自分でわたしの羊の群れを捜し求め、これを捜し出す。』」
そのために、23節「わたしは、彼らを牧する一人の牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、その牧者となる。」
民衆が、神の祝福を見失い、生きる力が奪われていく。
だから、神自らが彼らの羊飼いとなる。
そのために、一人の牧者、ダビデの子なる救い主を、彼らに送る。
その救い主が、彼らを養い、その牧者となる。
神は、そう約束された。
そして、その救い主が彼らに福音を語る時に、24節「主であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデが彼らのただ中で君主となる。わたしは主である。わたしが語る。
もう一つ、25節「わたしは彼らと平和の契約を結び、悪い獣をその地から取り除く。彼らは安らかに荒野に住み、森の中で眠る。」
神が救い主を通して、民と、あなたたちと平和の契約を結ぶ。
その時、「荒れ野においても」、「森の中でも」、そこは羊にとって危険な場所です。
いのちが危うくなる場所です。わたしたちが生きる世界と言って良い。
が、そこでも、神の守りがあって、それが分かって安んじる、眠れるようにする。
これが神の約束です。
イエス様も言われました。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている(ヨハネ16:33参照)。ここにわたしたちの安らぎがある。
救い主イエス・キリストが、わたしたちの羊飼いとなってくださる。
神御自身がわたしたちの平和となられ、勇気となられ、安息となられる。
やがて復活の主は、弟子たちの真ん中に立たれ、言われました。
「あなたがたに平和があるように。」(ヨハネ20:19以降参照)そう祝福を贈られました。
その時、彼らは荒れ野においても安んじて住み、森の中でも眠れるようになる。
わたしたちには、いろいろな疲れがあります。
そのために、いろいろな休息があります。
体を休めること、心を休めること、魂を休めること。
そのなかで、神にしか、神のもとで休むことでしか、取れない疲れがあります。
神がいてくださる交わるのなかでしか癒せない疲れがあります。
そういうものがあるのだと知っているだけで全然、違います。
とかく現代は忙しい時代だと言われる。合理性、効率性が求められる。
休息が罪悪のように語られることもある。
しかし、わたしたちもまた「飼い主のいない羊のよう」という部分をもっていることを忘れてはいけません。一週に一度は癒されなければいけないものをもっていることを忘れてはいけない。わたしたちは弱く、疲れやすい存在です。
イエス様は群衆たちが「飼い主のいない羊のよう」であるのを御覧になって、深く憐れまれた、とあります(マルコ6:34)。激しく心を動かされたんですね。
「深く憐れまれた」という言葉は、内臓を揺り動かすというギリシア語からきています。胃が痛くなる感じ。胃だけではない、内臓全体が苦しくなる。
そういう辛さを覚えられた。
それは大変なことなんです。
そのわたしたちを御覧になって、この朝、イエス様は、わたしたちをこの場所へと招いてくださいました。
神の平安に憩うためです。礼拝は、弱く、すぐに疲れるわたしたちの魂を、神様に開け放す場所です。
わたしたちは鈍い、たくさんの失敗をします。
この一週間も、そうであったはずです。
言わなければいいこと、しなければいいことがたくさんあったはずです。
逆にしなければいけないこと、言わなければいけないこと、それをしなかったことがあったはずです。
が、わたしたちは羊であっても、飼い主のいない羊ではない。
ぜんぶ、ほんとうにぜんぶの重荷を、今、神の御前におろしましょう。
ゆるされない罪はないのです。ゆるされない罪はないのです。
わたしたちの羊飼いはイエス・キリストです。
わたしたちの罪のために、イエス・キリストは十字架に架かられたのです。
ゆるされない罪はありません。すべての重荷を今、おろしましょう。
そして、まっさらになって、新しい面持ちで、一週間の歩みに旅立ちましょう。
また、罪を犯すでしょう。疲れるでしょう。
また、重荷を下ろすために集りましょう。
疲れた者、重荷を負う者は誰でもわたしのもとに来なさい。
わたしがちの主が導かれています。
わたしたちの休息は、その主との交わりのなかにあるのです。
お祈りをいたします。
<祈り>
詩篇23:1 主は私の羊飼い、私は乏しいことがありません。
〃 23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます。
〃 23:3 主は私の魂を生き返らせ、御名のゆえに、私を義の道に導かれます。
〃 23:4 たとえ、死の陰の谷を歩むとしても、私はわざわいを恐れません。
あなたが、ともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。