2023年10月15日「素晴らしい出会い」

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素晴らしい出会い

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
使徒言行録 9章1節~9節

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聖句のアイコン聖書の言葉

9:1 さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅かして殺害しようと息巻き、大祭司のところに行って、
9:2 ダマスコの諸会堂宛の手紙を求めた。それは、この道の者であれば男でも女でも見つけ出し、縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。
9:3 ところが、サウロが道を進んでダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。
9:4 彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか。」
9:5 彼が「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「私は、あなたが迫害しているイエスである。
9:6 立ち上って、町に入りなさい。そうすれば、あなたがしなければならないことが告げられる。」
9:7 同行していた人たちは、声は聞こえても誰も見えないので、ものも言えずに立っていた。
9:8 サウロは地面から立ち上がった。しかし、目を開けていたものの、何も見えなかった。それで人々は彼の手を引いて、ダマスコに連れて行った。
9:9 彼は三日間、目が見えず、食べることも飲むこともしなかった。使徒言行録 9章1節~9節

原稿のアイコンメッセージ

 「人生は出会いで決まる」と言われることがよくあります。確かに、私たちが人生で誰と出会うかは、とても大きなことだと思います。

 もう10年以上前ですが、私は兵庫県立芸術文化センターで開かれた知り合いの女性のピアノリサイタルに行きました。『リストと彼の愛した作曲家たち Vol.6』という題の付いた興味深い演奏内容でした。それと共に私は、プログラムに書かれていたリストの他の音楽家たちとの出会いに興味を覚えました。

 例えば、1823年、11歳のF.リストはウィーンでオーケストラと共演するその前日、52歳のベートーヴェンに初めて会いました。実際にベートーヴェンに会ったことを、リストは生涯誇りに思い、ことある毎にそれを人に語ったそうです。また、ベートーヴェンの作品を心から尊敬し、生涯演奏し続け、ベートーヴェンの交響曲9曲全部をピアノソロ用に編曲したぐらい、とても大きな出会いでした。

 リストには、超絶技巧で有名なイタリアのバイオリニスト、N.パガニーニとの出会いもあります。21歳の時、パリで初めてパガニーニの演奏に触れ、衝撃を受けたリストは、「僕はピアノのパガニーニになるのだ」と叫び、偉大な芸術家になることを決意したといいます。その日からすぐ、聖書、古典、哲学書を貪り読み、先達の楽曲を研究し、毎日猛練習をし、ピアノの演奏技術を飛躍的に高めました。

 リストにはシューマン夫妻との美しい出会いと交流もあります。

 私は、リストの曲を少しは知っていましたが、彼が誰と出会い、どんな影響を受けて作曲活動をしてきたかは、全く知りませんでした。その一部を知り、出会いが人の一生にとても大きな意味を持つことを改めて思ったものです。

 実は、聖書は意義深い出会いを沢山伝えています。例えば、旧約聖書の創世記12章などは、後に「信仰の父」と呼ばれるアブラハムが、天地の創り主なる真(まこと)の神に本当の意味で出会ったことを伝え、出エジプト記3章は、古代イスラエル民族をエジプトから脱出させたモーセの、神との出会いを伝えています。

 先程お読みしました新約聖書の使徒の働き9章は、パウロが、神の御子イエス・キリストと劇的な出会いをしたことを伝えています。ここでは生来の名前サウロで呼ばれていますパウロは、元々非常に熱心なユダヤ教徒であり、律法、すなわち、神の戒めを厳格に守ることで、人は罪を神に赦され、永遠の命を与えられると信じていました。ですから、こういうユダヤの宗教を惑わすキリスト教は撲滅することが神の前に正しいと信じて疑わず、恐ろしく熱心にクリスチャンを迫害しました。

 しかし、ここが伝えますように、パウロは復活されたイエスと、ある時、劇的に出会い、自分が知りもしないで恐ろしい罪を犯して来たことを知り、神の前に自分がとんでもない罪人であることを悟りました。晩年になっても彼は「私は…罪人の頭」だと書いています(Ⅰテモテ1:15)。かつての自分を思い出すと、こう言わずにはおれなかったのでしょう。

 けれども、イエス・キリストと出会って知ったのは、これだけではありません。イエス・キリストを通して、本当の意味で真(まこと)の神と出会い、神をより正しく豊かに知り、それに伴い、様々な喜びや感謝も体験しました。

 私を初め多くのクリスチャンは、このパウロのような劇的な出会いではありませんが、聖書の伝えるイエス・キリストを通して、天地の創り主なる真(まこと)の神と出会い、人生をずっと導かれて来た者であるのです。

 では、神との素晴らしい出会いは、私たちにどんなことを体験させるでしょうか。

 第一に、私たちは本当の意味で、自分の永遠の救いを、つまり、罪の完全な赦しと、愛に満ちた神のそばで神と共に永遠の喜び、平安、感謝の内に生きることが出来るという確信を与えられます。

 私たちには、思い出すと自分の良心が疼き、自分でも自分を赦せないようなことをしたことが、大なり小なりあると思います。その中には、到底償えず、埋め合わせが出来ないものもあり、それらを抱えて私たちはやがて神の前に立ち、裁かれます。これが分っていて、私たちは平安でおられるでしょうか。その意味で、私たちは本当は惨めな者だと思います。

 しかし、絶望する必要はありません!罪も汚れも全くない、あの聖い(きよい)神の御子イエスの十字架の救いの力は無限なのです。「私は…罪人の頭」だと老人になっても告白したパウロです。でも、ご自分の方から近づき、彼と出会い、彼に働きかけて下さったイエス・キリストの故に、パウロは、自分の罪の全き赦しと、愛に満ちた神のかたわらで神と共に永遠の平安の内に生きることが出来るという揺るぎない確信を持つことが出来ました。

 そしてこの確信は、イエス・キリストとの出会いから逃げないで、イエスをただ心から信じ、受け入れ、依り頼むあらゆる人に必ず与えられます。以上が第一点です。

 実は、ここから様々な恵みと祝福が拡がるのですが、二つだけ申し上げたいと思います。

 すなわち、二つ目として、物事を大きな、かつ永遠の次元から見ることを可能とされるということがあります。

 パウロは、イエス・キリストを宣べ伝えたため、牢獄に何度か繋がれましたが、その獄中で手紙をいくつか書いています。その一つ、エペソ1:4で、「神は、世界の基が据えられる前から、この方(=イエス・キリスト)にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです」と書き、永遠の神の目から、自分と他の信徒たちをもしっかり見ています。

 この世は目まぐるしく変り、私たちも変ります。ですから、今、見聞きし、今、分っていることだけで全てを判断して生きるなら、私たちは確実に自分を失うでしょう。今日笑っていても、明日はパニックに陥り、わめき散らしているかも知れません。

 しかし、パウロのようにいつ殺されるかも知れない状況にあっても、天地の創り主にして万物の支配者なる永遠の真(まこと)の神を仰ぐ時、自ずから(おのずから)心は静まります。そして、自分や周囲がどうなろうとも、神の前に自分が何者で、自分がどんな恵みに既にイエス・キリストにより入れられているかを思い、むしろ、残る日々を自分が神の前に如何に生きるかこそが、自分の最重要テーマであることが分ります。

 パウロは勿論、16、17世紀の宗教改革者たちや20世紀に活躍したマザー・テレサなど、優れたクリスチャンたちは、この世界と自分を、神の大きな、また永遠の次元から見つめました。ですから、問題に四方を囲まれ、ひどく落胆することはあっても、彼らは決して大きくブレることなく、神から自分に与えられた大切な使命を覚えてコツコツ励むことが出来ました。イエス・キリストまた神との素晴らしい出会いがそうさせました。これが二つ目です。物事を神の大きな、かつ永遠の次元から見ることを可能とさせ、困難はあっても、より客観的で冷静な判断を私たちにさせ、大切な使命に押し出します。

 三つ目を見ます。少し抽象的かも知れませんが、人格的に神から本当に幸いな影響を受け、変えられることです。

 私たちは、人格的に優れた人に接しますと、感謝なことに人格的に良い影響を受けますね。例えば、学校で素晴らしい先生と出会ったことで、自分も学校の先生になりたいと思った人は結構いると思います。

 相手が人間でもそうであるなら、清さや正しさ、愛や真実などにおいて最高のお方である本当の神としっかり出会い、生涯、親しく交流を与えられるならば、どんなに幸いな人格的影響を受けることでしょう。

 今朝取り上げたパウロは、かつては多くのクリスチャンにひどく恐れられた人でした。非常に強い人で、恐れを知らない人でした。しかし、神の御子イエスを知り、本当の意味で神と出会ってからの彼は、愛や思い遣りが加わり、人格的にすごく豊かになったと思います。

 聖霊に導かれて書きましたが、パウロはローマ12:15、16で「喜んでいる者たちと共に喜び、泣いている者たちと共に泣きなさい」と、人のことを何より思い遣り、また「互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません」と謙遜を求めて丁寧に教えます。14:1では「信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見を裁いてはなりません」と穏やかに諭します。最晩年の手紙となったⅡテモテ4:16では「私の最初の弁明の際、誰も私を支持してくれず、皆私を見捨ててしまいました」と書きますが、すぐ「どうか、その責任を彼らが負わせられることがありませんように」と、彼らの赦しを願って書いています。何より、多くの手紙で「私のために祈って下さい」と実に謙虚に頼んでいます。何と愛に満ちた豊かな人になっていることでしょう。

 この三つだけでも色々教えられますが、他にも、神と出会うことで、物事を選ぶ際に、より適切な優先順位を導かれるとか、私たちにとって実は最も厄介な自我から自分が解放されるとか、ひどい境遇やひどい出会いにより深く傷つき歪められた私たちが癒され、回復させられるなど、色々あります。しかし、もうこれで終ります。

 ヘブル1:3が言いますように、「神の本質の完全な現れ」であられる神の独り子(ひとりご)イエス・キリストを、聖書により更に知ることで、私たちを極みまで愛して下さっている神との幸いな出会いと交わりを是非、生涯、許されたいと思います。

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