2023年10月08日「体の甦りを信ず(使徒信条の学び35)」

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聖句のアイコン聖書の言葉

15:50 兄弟たち、私はこおことを言っておきます。血肉の体は神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
15:51 聞きなさい。私はあなた方に奥義を告げましょう。私たちは皆眠るわけではありませんが、皆変えられます。
15:52 終りのラッパと共に、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものに甦り、私たちは変えられるのです。
15:53 この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。
15:54 そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着る時、このように記された御言葉が実現します。
    「死は勝利に呑み込まれた。」
15:55  「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
     死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
15:56 死のトゲは罪であり、罪の力は律法です。
15:57 しかし、神に感謝します。神は私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えて下さいました。
15:58 ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなた方は、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているので すから。コリントの信徒への手紙一 15章50節~58節

原稿のアイコンメッセージ

 今日も、キリスト教信仰の基本教理を、ご一緒に使徒信条から学びたいと思います。今朝は「体の甦り」に進みます。

 まず、体の甦りそのものについて確認致します。

 人は死ぬと日本では殆ど火葬にされ、小さな骨と灰になって墓に納められ、最後は土に戻りますね。しかし、イエス・キリストを信じる人の魂は、死後、直ちに聖霊により清められ、神の御許(みもと)に召されます。しかも、これで終りではありません。聖書は復活・甦りを教えます。世の終りにイエスは再び世に来られ、その時のことについてⅠコリント15:51、52は言います。「聞きなさい。私はあなた方に奥義を告げましょう。私たちは皆眠るわけではありませんが、皆変えられます。終りのラッパと共に、たちまち、一瞬の内に変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちない者に甦り、私たちは変えられるのです。」

 キリストの再臨と共に、信者の体は甦ります。今の体と連続性はありますが、クリスチャンは新しい栄光の体を頂くのです。清められた魂とその新しい体を伴った完全な私たちが、Ⅱペテロ3:13の言う通り、「義の宿る新しい天と新しい地」を受け継ぎ、全ての聖徒たちと共に神を永遠に喜ぶ者とされるのです。

 この体の甦りを聖書は方々で教えていますので、確認してみます。ピリピ3:21は言います。「キリストは、万物をご自分に従わせることさえ出来る御力によって、私たちの卑しい体を、ご自分の栄光に輝く体と同じ姿に変えて下さいます。」Ⅰヨハネ3:2も言います。「愛する者たち、私たちは今既に神の子供です。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れた時に、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。」Ⅰテサロニケ4:16は「号令と御使いの頭の声と神のラッパの響きと共に、主ご自身が天から下って来られます。そしてまずキリストにある死者が甦り」と言います。

 旧約聖書のダニエル12:2、3は「塵の大地の中に眠っている者の内、多くの者が目を覚ます。ある者は永遠の命に、ある者は恥辱と永遠の嫌悪に。賢明な者たちは大空の輝きのように輝き、多くの者を義に導いた者は、世々限りなく、星のようになる」と言います。「世々限りなく、星のようになる。」美しい表現ですね。エゼキエル37章の枯れた骨の復活の預言は、バビロン捕囚で悲惨な状態にあったイスラエルの復興に関するものですが、信者の甦りをも現しています。

 何よりイエスは言われました。ヨハネ6:39「私を遣わされた方の御心は、私に与えて下さった全ての者を、私が一人も失うことなく、終りの日に甦らせることです。」

以上、甦り・復活に関する聖書の御言葉を確認しました。

 ところで、復活はそれ程重要なのでしょうか。次にそれを確認したいと思います。

 使徒信条が体の甦りを告白した理由の一つとして、ギリシア哲学の影響を退ける点があったと思われます。霊肉二元論に立つギリシア哲学は、霊魂は清くて不滅ですが、体や物質は罪深いとし、救いとは魂が肉体の牢獄から解放されること、としました。ですから、死んで体から解放された魂が、また再び体と結び付くことは、悪い状態に戻ることとなります。従って、復活は邪魔だったのです。

 霊魂不滅の思想に基き、魂の救いだけを考える思想は、日本を含む東洋にも広く見られます。ギリシア哲学の影響は、グノーシス主義の異端として初代教会にも現れ、肉体は悪だから、イエスの「体」と見えたものは「幻なのだ」と主張しました。これは仮現論と呼ばれるものです。

 しかし、もしそうであるならば、イエスの十字架の死は嘘となります。ということは、罪人の贖いもありません。イエスを信じても無意味となります。ですから、Ⅰヨハネ4:1、2は「霊を全て信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。神からの霊は、このようにして分ります。イエス・キリストを告白する霊は皆、神からのものです」と教え、異端を退けました。

 とにかく、これは聖書の教えではありません。創世記2:7が言いますように、神は土の塵で人を形作り、その鼻にご自分の命の息を吹き入れて、人は生きる者となりました。つまり、体と魂があってこそ人間なのです。

 確かに、罪が入って来たため、体はしばしば罪深い欲に支配されますが、本来、体は神の清い作品です。ですから、神はご自分の御子イエスにより、私たちの体をも救って下さるのです。

 私たちの体は土に帰ります。しかし、救われる選民の数が満ちた時、神は世を終らせ、再臨のイエスは信仰者を甦らせ、信仰者は清められた魂と体とで神を喜び、神と共に永遠に生きます。使徒信条はこうして異端を退け、福音を鮮明にしたのでした。

 しかし、このことに加え、復活は何より神の最高の恵みですので、告白したのだと思います。すなわち、神が私たちの体をも愛しておられることを何より示しているからです。

 神は、私たちの魂だけでなく、体をも愛しておられます。創世記によれば、私たちの体は熟慮して造られた神の大切な作品です。ですから、神はご自分の子供にした信仰者の体を決して朽ちたままになさらず、Ⅰコリント15:54の言う通り、終りの時に朽ちない栄光の体をお与えになります。これは神のお喜びなのです。ご自分の子供たちの救いの完成だからです。Ⅰヨハネ3:2は、勿体なくも、クリスチャンは「キリストに似た者」にされると言います。「体の甦りを信ず」とは、私たちを丸ごと愛される神の溢れる愛を、心から賛美する告白でもあるのです。

 私たちの体は確実に老います。活力も張りも輝きも失せ、やがて死にます。では、そんな私たちに神はげんなりされるのでしょうか。いいえ!決して!神の愛は永遠に変りません!ヘブル13:8は言います。「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。」

 甦りとは、罪の影響を被っている私たちの今の体が、神の愛によって完全な状態に修復されることでもあります。先程、老いに伴う厳しさに少し触れました。しかし、辛さや痛みといった厳しさは、他にも色々あります。体に重い病気や障害のあることは、クリスチャンであっても、大変辛いものです。痛いものは痛く、苦しいものは苦しいのです。

 目の不自由な人は、愛する人の顔や美しい景色をどれ程見たいでしょうか。耳の不自由な人は、愛する人の声や美しい音楽、鳥のさえずりなど自然の音を、どんなに聞きたいでしょうか。足の不自由な人は、どんなに自由に飛び跳ね、皆と一緒にはしゃぎたいでしょうか。これらは当り前の願いですが、もし永遠に叶わない夢だとしたら、クリスチャンであっても、どんなに辛いでしょうか。

 それに、古代教会のクリスチャンたちは、ローマ帝国から迫害され、体を火で焼かれたり、闘技場に引き出されて獣に襲われたり、無残な体にされた者もいました。これでは絶望的ではないでしょうか。

 いいえ、御子を賜った程に私たちを愛しておられる神は、体のことでも決して私たちをお忘れになりません。主イエスが、生れつきの盲人や耳の聞こえない人や足の不自由な人を癒されたことは、決して意味のないことではありません。神は万物を更新される時、ご自分の愛する子供たち一人一人を完全な体に甦らせられるのです。私たちがどんなにひどく老い、重い病気や障害があり、ボロボロの体であっても、全知全能の神には関係ありません。夫々の特徴が失われることなく、しかも主イエス・キリストの麗しい体に似た素晴らしい栄光の体を与え、私たちの救いが体においても完成することを、神は最高の喜びとされるのです。

 私たちは、目や口や手を初めとして、体で罪を犯し、人を傷つけ、自分を卑しめ、神の御名を汚しています。ですから、パウロもローマ7:24「私は本当に惨めな人間です。誰がこの死の体から、私を救い出してくれるのでしょうか」と叫びました。いつになったら、私たちは体の問題からも解放されるのでしょうか。

 無論、地上での忠実な信仰生活を通しても、神は私たちを少しずつ清めて下さっています。ただ、完全な聖化は地上ではありません。けれども、私たちには甦り・復活があり、ここに希望があります!万物が更新される世の終りに、神はご自分の子供にした者たちに、愛する独り子イエスの体に似た麗しい最高の体を与え、救いを完成されるのです。神は私たちの体をも気にかけ、愛しておられます。「体の甦りを信ず」とは、私たちに対する神の驚くべき愛を信じ、神を賛美することなのです。

 従って、私たちも自分の体を愛して大切にし、清く保ち、ローマ6:13が言いますように、死者の中から生かされた者として、私たち自身を神に献げ、是非、私たちの手足を義の道具として神に献げたいと思います。暴飲暴食などで決して自分の体を粗末にせず、むしろ体を愛おしみ、良く管理して、より健康に保ち、そうして神の前に「命の質」を高めたいと思います。

 どうか私たちが、体をもってしても神の清い愛に応え、神と人に最後まで喜んで仕えることが出来ますように!

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