2023年10月05日「十戒の学び45 第八戒1」

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十戒の学び45 第八戒1

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
出エジプト記 20章15節

聖句のアイコン聖書の言葉

20:15 殺してはならない。出エジプト記 20章15節

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 私たちは昨年の5月から十戒を学び始め、何度も中断しましたが、この6月末に第七戒まで一応学び終りました。今日から第八戒に進みますが、その前に今までの学びを少し振り返ってみます。

 対人関係の戒めとして、まず私たちは第五戒で、私たち人間の人格形成と他者との関係性構築の土台となる親へのあり方を学びました。続く第六戒では、私たちの存在そのものに関わる掛け替えのない命について、そして第七戒では、大切な結婚と性について学びました。

 では、これらに続く第八戒で、神は何を告げられるでしょうか。「持ちもの」についてです。「盗んではならない」という表現ではありますが、要するに、私たちの持ちものについて、第八戒は教え、考えさせます。

 そこで、まず私たちが「自分のもの」と考えているものが、そもそも何であったかを確認しておきたいと思います。何であったでしょうか。無論、答は「神のもの」です!私たちの持ちもの全ては、神のものに他なりません。しかし、当り前のこの根本的なことが、実際には何としばしば忘れられているでしょうか。そのため、何と多くの犯罪や争い、不幸が起っていることでしょう。

 持ちもの、所有ということで、主イエスが語られましたルカ12:16以降の「愚かな金持の譬え」を思い起します。「ある金持ちの畑が豊作だった。彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産は全てそこにしまっておこう。そして、自分の魂にこう言おう。「わが魂よ。これから先何年もいっぱい物が貯められた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし、神は彼に言われた。『愚か者、お前の魂は、今夜お前から取り去られる。お前が用意した物は、いったい誰のものになるのか。』自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこの通りです。」

 新改訳聖書の2017年度版ではキチンと訳されていますが、この金持ちは、17節「私の作物」、18節「私の倉…私の穀物」、19節「わが魂よ」と、4回も「私の、私の」と言っています。実際には、特に強い思いを込めて「私の」という言葉を発したのではないかも知れませんが、無意識に口から出る言葉の中に、その人の本質が現われていることがよくあります。この人は、要するに自分が中心であり、自分が全てでした。

 イエスが語られた譬えですから、当然、彼はユダヤ人でしょう。それなのに、彼の言葉には神への言及が全くありません。それ程、彼の中には、神への思いや神からの視点が欠落し、自分中心で、自分が全てでした。

 彼は犯罪に当るようなことは何もしていません。しかし、自分のものは自分のものでしかなく、人に命を与え、生きる上に必要な諸々の良いものや楽しみなども与えておられる神が、彼の魂と命を初め一切の所有者だという認識と意識がスッポリ抜け落ちていました。

 この話の前に、イエスは15節で「人の命は財産にあるのではない」と語っておられます。「財産」と訳されている元のギリシア語は「持ちもの」という広い意味の言葉です。15節は直訳しますと、「人の命は持ちものにはよらない」(口語訳)となります。

 私たちはここから、命は元より、家、財産、家族、力、才能、時間も含め、私たちが極普通に「自分のもの」と思っているものと私たち自身との関係、特にそれらが根本的には誰のものであったかをも教えられます。では誰のものなのか。無論、全ては神のものです。神のものに他なりません。

 驕り高ぶる信徒も多かったコリント教会に対して、パウロはⅠコリント4:7でこう述べています。「一体誰が、あなたを他の人よりも優れていると認めるのですか。あなたには、何か、人からもらわなかったものがあるのですか。もしもらったのなら、何故、もらっていないかのように誇るのですか。」

 この通り、私たちが自分のものと思っているものは例外なく、神が御子イエスを通して、ただ恵みにより、誰かや何かを通して下さった頂きものであり、もらいもの、預りものに他なりません。国のものと言われているようなものも、例外ではありません。

 「盗んではならない」という第八戒により、まず確認すべきは、空気も水も草木も山も海も空も国土も地球も宇宙もそうですが、特に私たちが「自分のもの」と思っている一切合切が、「神のものに他ならない」ということです。今まで、「私の、私の」と思っていた一つ一つを、「神の、神の」という告白に変えていく真に神の民と呼ばれるに相応しい者に、主イエス・キリストにより、是非、もっと変えられていきたいと思います。

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