2023年09月21日「終りの時を覚えて」

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終りの時を覚えて

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ペトロの手紙一 4章7節~8節

聖句のアイコン聖書の言葉

4:7 万物の終りが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
4:8 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。ペトロの手紙一 4章7節~8節

原稿のアイコンメッセージ

今日は「終りの時を覚えて」と題して、御言葉に耳を傾けたいと思います。

 改めて言うまでもなく、聖書は常に私たちに、世の終りが来ることを覚えて生きるようにと教えています。今読みましたⅠペテロ4:7、8は、紀元1世紀後半の初代教会のクリスチャンたちに言います。「万物の終りが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」またイエスはマタイ福音書24、25章で世の終りのことに触れ、「目を覚ましていなさい」と繰り返しお教えになります。終末意識をもって生きることは、創世記から黙示録まで聖書全巻が語る非常に重要な教えです。そしてこれはまた、私たち個々人の命の終りを覚えることにも繋がります。

 必ずやって来る世の終りと自分の命の終りを覚えることは、私たちの心を騒がせ、私たちを深く探りますが、大変重要であることを聖書は教えます。

 では、どういう意味でそれ程重要なのか。第一に、これは生ける真(まこと)の神の前に私たちが謙って自分を吟味し、イエス・キリストへの信仰により私たちを神に立ち返らせ、そうして神に喜ばれる正しい真実な清い生き方に私たちを導くからです。

 私たちは死んだ後、信仰のあるなしに関らず、皆、神の裁きの座に立ちます。ヘブル9:27は言います。「人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている…。」

 「人は死ねば、全てが終り」ではありません。私たちの一生の行い、口にした言葉、心の中の密かな思いの一切合切について神の裁きを受けます。何と恐れ多く、厳粛な事実でしょうか。

 この世は罪の世です。頭のいい人や立場の上の人は、ずるいことや横暴で強引なこともします。しかし、それは彼らだけではありません。生れてこの方一度も嘘をつかず、ごまかしもせず、隠れてずるいことや恥ずかしいことを、したことも考えたことも一切なく、悪い言葉も一切口にせず、今ここで自分の全てが皆の前で露(あらわ)にされても平気な人がいるでしょうか。私たちは一人一人神の前に立ち、一生の思いと言葉と行いを裁かれます。誰が大丈夫でしょうか。

 しかし終りの時を意識しますと、改めて明確になることがあります。こんな私たちの罪を全部背負い、十字架で私たちの代りに神の呪いと刑罰を受けて死なれ、また復活された御子イエス・キリストが確かにいて下さることと、その恵みの大きさ、ありがたさです。罪と不信仰を心から悔い改め、イエス・キリストを信じても、なお罪を赦されず救われない人など、一人もいません。

 それと、私たちは救われて最後にただ天国に行けたら良いというのではありません。いつ死んでも、喜んで神の前に立てるように絶えず自分を吟味し、信仰と良心に恥じず、むしろ、少しでも神に喜ばれ、神の栄光を現す、真実で正しく清い生き方に努めます。それが私たちを祝福します。ですから、終りの時を意識することは、とても大切なのです。

 もう一つ意義があります。それは希望が与えられることです。

 その希望に二つあります。一つは、どんな苦しみにも終りがあることです。

 自分の命の終りを思いますと、当然、心は騒ぎます。しかし御子イエスを心から信じ、依り頼む者は、既に神の子供とされ、永遠の命に与っていますし、どんな苦しみ、痛み、悲しみも永遠に続くことはなく、死で終ります。その意味で希望があります。

 もし肉体的、精神的、霊的苦しみが永遠に続くならば、私たちには絶望しかありません。しかし、事実はそうではありません。クリスチャンには、どんな苦痛も必ず終りが来るのです。

 もう一つの希望は、御子イエスを信じ、あらゆる苦難を耐え忍び、その中でも神に喜ばれようとして御心に従い、神と人に祈りと愛をもって仕え、忠実に生きた人は、忍耐と祈りと愛の業(わざ)の一切を必ず報われることです。終りの時、主はそのような人に、マタイ25:21「よくやった。良い忠実な僕(しもべ)だ。お前はわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びを共に喜んでくれ」と言って、ご自身の栄光をまとわせて下さるでしょう。

 ですから、数え切れない位、多くの厳しい苦難に遭っていた使徒パウロですが、この希望に立って、Ⅱコリント4:17で「私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです」と言えたのでした。

 ルターは、常に死を意識する厳しい宗教改革運動の中にいましたが、「明日世界が滅びようとも、今日私はリンゴの木を植える」と、ブレることなく希望に立って言うことができました。

 私たちも、聖書の教えに従い、それこそ明日、世の終りが、また自分の命の終りが来ても良いように、イエス・キリストへの信仰と良心に恥じず、また天を仰ぎ、神が全てのことに必ず報いて下さるとの希望に立ち、一日一日、神の召しに喜んで忠実に生きて行きたいと思います。

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