2023年09月17日「罪の赦しを信ず 2(使徒信条の学び34)」

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罪の赦しを信ず 2(使徒信条の学び34)

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ヨハネの手紙一 1章5節~10節

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1: 5 私たちがキリストから聞き、あなた方に伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。
1: 6 もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行なっていません。
1: 7 もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの地が全ての罪から私たちをきよめて下さいます。
1: 8 もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちの内に真理はありません。
1: 9 もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちを全ての不義からきよめて下さいます。
1:10 もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちの内に神の言葉はありません。ヨハネの手紙一 1章5節~10節

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 使徒信条により、キリスト教信仰の基本内容を今朝も学びます。

 前回は「罪の赦しを信ず」に進み、自分の罪の自覚と、信仰を通して神が私たちに下さる罪の赦しの重要性を確認しました。今朝は、この告白に実際に生きる上で大切な点を心に留めたいと思います。実際には幾つもありますが、三つに絞ります。

 一つ目は、これを唱える時、イエス・キリストのお蔭でクリスチャンである自分が罪を赦されていることを、改めて信じ直すことです。

 「私はクリスチャンなのに、時には気付かず、時には分りながら、罪を犯している。それなのに、主イエスの十字架のお蔭で、神は罪人の私を本当にお赦し下さる。神様、感謝致します。罪の赦しを心から信じます」と改めて信じるのです。

 この感謝な罪の赦しを、私たちクリスチャンは本当に信じて良いのでしょうか。良いです。かまいません。聖書は至る所で信仰者に語っています。例えば、イザヤ44:22で神はこう言われます。「私はあなたの背きを雲のように、あなたの罪をかすみのように消し去った。私に帰れ。私があなたを贖ったからだ。」

 私たちは、自分の罪はすぐ忘れ、でも人の罪や悪は忘れません。身勝手です。それなのに、神はこう言われます。イザヤ43:25「私、この私は、私自身のために、あなたの背きの罪を拭い去り、もうあなたの罪を思い出さない。」

 私たちは、罪を犯しては悔い、悔いてはまた犯す、実に罪深い者です。しかし何と神は、キリストを信じる他、何もない私たちのただその信仰の故に、私たちの罪を本当に拭い去り、思い出さないと言われるのです。イザヤ38:17のヒゼキヤの祈りの通り、神は私たちの「全ての罪を」ご自分の「後ろに投げやられ」る!何という神の赦しと愛でしょうか。

 ですから、使徒信条を唱える時、私たちもこう信じ直すのです。「私は今も情けない罪人だ。でも神は私の罪をイエス・キリストの故にもう思い出さないと言われる。こんな風に、私は赦されて良いのか。良い!これは神のお約束なのだ。だから、私は心から信じる」と。私たちはここまで信じることを許されているのです!事実、私たちは、全世界を贖って余りあるイエス・キリストの十字架の贖いの故に、無限の赦しの中にあります!神の愛とイエスの十字架は、それ程絶大なのです。

 神の愛とイエス・キリストの十字架による私たちの罪の赦しは、言い換えますと、前回お話した通り、神との和解です。イエスの血による神との和解の故に、神は私たちクリスチャンを今や全く新しい人と見做して下さいます。神との和解を語るⅡコリント5:17は言います。「誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました」と。

 Ⅱコリント5:18で和解と訳されているギリシア語は、元は「入れ替る」という意味だそうです。その通り、イエスは私たち罪人と入れ替り、十字架で死なれ、神と私たちとの壊れた関係を完全に修復して下さいました。それも全て神がして下さいました。ですから、18節は「これらのことは全て、神から出ています。神は、キリストによって私たちを御自分と和解させ」と言い、神の一方的な愛に注目させます。イエスの十字架の故に、クリスチャンはここまで罪を赦され、今や神のものとされている!何という神の愛でしょうか。

 ルターは、宗教改革運動の中で無数の試練を受け、心身共に疲れ、罪の赦しと救いの確信も弱ることがありました。そういう時、彼は自分の机の上にチョークで大きく「私は洗礼を受けている」と書き、声を出してそれを読んだといいます。洗礼の最大の意義の一つは、キリストによる罪の洗い清め、つまり、罪の赦しです。ルターは、洗礼を思い起すことで、水で洗われるように自分がイエス・キリストにより本当に罪を洗い流され、すなわち赦され、もはや罪も悪魔も決して彼を支配することも滅ぼすこともできないことを信じ直し、そうして再び勇気と力を与えられ、改革運動を推進したのでした。

 私たちも信仰を告白し、洗礼を受け、今イエス・キリストを自分のただ独りの救い主として、心から信じ、受け入れ、依り頼んでいるなら、ルターと同じようにハッキリ自分の罪の赦しを信じてかまいません。使徒信条を唱える時、私たちは繰り返しそうしたいと思います。

 二つ目に進みます。キリストの恵みによる罪の赦しと和解の福音が、今度は私たちを通して他の人にも伝わることを願い、神が私たちを用いて下さるように、自分を神に明け渡し、神の道具として自分を神に献げることです。そういう意味で、「神と人に私は仕えるのだ」という意識を新たにしたいと思います。

 「罪の赦しを信ず」と告白し直すことで、私たちはイエスによる自分の罪の赦しを信じてかまいません。しかしそれに加え、私たちは、私たちを通してキリストによる救い、つまり、罪の赦しが、また神との最も幸いな関係への回復である神との和解が、更に多くの人に広がるという素晴らしい役割にも与っています。Ⅱコリント5:18、19は言います。「神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えて下さいました。すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解の言葉を私たちに委ねられました。」

 要するに、キリストによって罪を赦され、神との和解に与った者は皆、新しく創られた者であり、他の人のために和解の奉仕をする資格と賜物を与えられているのです。牧師など特定の者だけでなく、信仰者皆に「和解の言葉」、福音が委ねられているということです。普通のクリスチャンを通して、イエス・キリストによる罪の赦しと神との和解の素晴らしさが人に分り、永遠の救いに入れられる人が、実際、起されるのです。

 20世紀の初め、自由主義神学の中で育ったオランダの有名な改革派神学者で、アムステルダム自由大学を創設し、総理大臣も務めたアブラハム・カイパーを、正統的信仰に回心させたのは何だったでしょうか。彼が牧師として赴任した田舎の教会の極素朴な一婦人の信仰でした。普通の素朴なクリスチャンを通して、神は素晴らしいことをなさるのです。ですから私たちも、「罪の赦しを信ず」と唱える時、罪の赦しの恵みにもっともっと多くの人が与れるように、「主よ、一番良い時に、あなたの方法で、どうぞ私をお用い下さい」と祈り、是非、自分を神に捧げたいと思います。

 三つ目を見て終ります。先程、Ⅰヨハネ1:5以降を読みました。そこから分りますように、私たちは使徒信条で「罪の赦しを信ず」と唱える度に、心から自分の罪と不信仰を思って悔い改めると共に、特に主イエス・キリストに似る者へと自分が9節「清め」られることを、是非、祈り求めたいと思います。

 神への自分の不信仰と、人への自分の無礼や身勝手、愛のないことなどを何ら省みず、ただ機械的に「罪の赦しを信ず」と唱えることはできません。それは信仰者の姿勢ではありません。イエスが語られたルカ18:9以降の譬話の中の取税人は、目を天に向けようともせず、胸を叩き「神様、罪人の私を憐れんで下さい」と祈りました。同じように、自分の罪や汚れを心底悲しみ、赦しを神に真剣に願う時、私たちはイエスの十字架の故に「我は罪の赦しを信ず」と確信をもって唱えることができるのです。Ⅰヨハネ1:9は約束します。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちを全ての不義から清めて下さいます。」

 そして今特に覚えたいことは、特に直前の1:7に「光の中を歩」むとありますように、神の赦しの故に、私たちも他の人の罪を赦し、また他の人の罪の赦しを心から願い、そうして「光の中」を、すなわち、御子、主イエス・キリストが歩まれたその清い足跡に続くことを、是非、繰り返し決意したいということです。そうすることで、私たちは御子イエスにますます似る者へと清められていくのです。これが今朝確認したい「罪の赦しを信ず」という告白に生きることの三つ目です。

 確か元上智大学教授のデーケン神父の本に書いてあったと思いますが、ドイツのクリスチャンたちは、三度三度の食事の前に、次のような祈りをよくするそうです。「主よ、私たちになくてならぬものが二つあります。あなたの憐れみによってそれをお与え下さい。日毎のパンと罪の赦しを。」

 「日毎のパンと罪の赦しを!」何と大切な祈りでしょう!

 「罪の赦しを信ず」と告白する時、私たちも、こういう具体的で真摯な告白と祈りに、是非、皆で喜んで生きていきたいと思います。

 最後に詩編130:3、4を読んで終ります。「主よ、あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、誰が御前に立てるでしょう。しかし、あなたが赦して下さる故に、あなたは人に恐れられます。」

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