2023年09月14日「冷たいか熱いかであってほしい」

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冷たいか熱いかであってほしい

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ヨハネの黙示録 3章14節~22節

聖句のアイコン聖書の言葉

3:14 また、ラオディキアにある教会の御使いに書き送れ。「アーメンである方、確かで真実な証人、神による創造の源である方がこう言われる--。
3:15 私はあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。
3:16 そのように、あなたは生温く、熱くも冷たくもないので、私は口からあなたを吐き出す。
3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実は惨めで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。
3:18 私はあなたに忠告する。豊かな者になるために、火で精錬された金を私から買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。
3:19 私は愛する者を皆、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。
3:20 見よ、私は戸の外に立って叩いている。誰でも、私の声を聞いて戸を開けるなら、私はその人のところに入って彼と共に食事をし、彼も私と共に食事をする。
3:21 勝利を得る者を、私と共に私の座に着かせる。それは、私が勝利を得て、私の父と共に父の御座に着いたのと同じである。
3:22 耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。ヨハネの黙示録 3章14節~22節

原稿のアイコンメッセージ

 アジアの七つの教会宛の復活のキリストからの手紙の中で、ラオディキア教会へのものが最も厳しいですね。主は言われました。15、16節「私はあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。そのように、あなたは生温く、熱くも冷たくもないので、私は口からあなたを口から吐き出す。」ここを読みますと、私たちは二度と忘れられないのではないでしょうか。「そうだ。生温い信仰では駄目だ。熱いか冷たいかでなければいけない」と決意すると思います。

 ところで、「熱くあれ」は分りますが、「冷たくあれ」とはどういうことでしょう。よく引き合いに出されるのが、Ⅱペテロ2:21の「義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる戒めから再び離れるよりは、義の道を知らなかった方が良かった」です。信仰がなくても良いというのではありません。信仰者なのに、神の戒めから離れる位なら、無知なためにキリスト教に反対している人の方がまだましだ、と大体理解されていると思います。

 しかし、別の解釈もあります。実は、黙示録の今朝の箇所で、イエスはラオディキア教会の信仰に直接言及してはおられません。「私はあなたの行いを知っている」とありますが、どんな行いだったかも特に言われてはいません。

 実は、ラオディキアの北にあったヒエラポリスには温泉があり、体の癒しに熱いお湯は効果的でした。またラオディキアの南にあったコロサイでは、大変冷たい水が出たそうです。火照った体を冷やし、疲れを取るのに有益だったでしょう。

 では、ラオディキア教会はどうだったのでしょう。サロン的で楽しかったかも知れない。しかし、魂に福音が熱く迫って悔い改めを促し、魂を救って真に癒すとか、冷水で目が覚まされるような強い霊的刺激を与える様子もなく、生温かった!そういう意味で、キリストは「冷たいか熱いかであってほしい」と言われた、という解釈があります。こちらの方が良いでしょう。要は、生温い霊的状態が問題だったのです。

 では、「口から吐き出す」と主に言われるまで、ラオディキア教会は何故生温くなったのか。自己満足し、魂の飢え渇きを失ったからです。主は言われます。17節「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実は惨めで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分っていない。」

 恐らく、これにはこの町の背景があるようです。金融業が盛んで、結構豊かでした。「パンフィリアの粉」と呼ばれる薬にオリーブ油を加えて目に塗る目薬を造っては出荷していました。また黒い羊毛で造った服の製造も盛んでした。ですから、イエスは敢えてこういう言い方で語られたのでしょう。

 ここには、あらゆる時代の教会と信徒のよく覚えるべき、とても大事な警告があります。すなわち、霊的飢え渇きを忘れ、自分の現状に満足すること程、危険なことはない、ということです。そういう時、私たちは、人に対して何らイエス・キリストによる救いも癒しも慰めも霊的刺激も与えず、地の塩でも世の光でもない(マタイ5:13~16参照)無益な者になっているということです。

 怖いことですが、霊的飢え渇きを忘れ、自分の状態に満足するようになることは、誰にも起り得ます。ほぼキリスト教が分り、教会生活や信仰生活も分り、クリスチャンとしての自信も出来る。それも感謝なことですが、そのことと、私たちが霊的飢え渇きを忘れ、今の自分の状態に満足することとは全く別です。怖いことに、それに慣れてしまいますと、私たちの霊性は下がり、私たちは、主が口から吐き出したい程生温い無益な存在になりかねません。

 あの見事に強い信仰者であったパウロは、同時に自らの弱さや欠けもよく知る人でした。エペソ6:19では「私のためにも祈って下さい」と頼み、ピリピ3:12では「私は、既にそれを得たのでもなく、既に完全にされているのでもありません」と言いました。ヘブル書の著者も13:18、19「私ためのために祈って下さい」と重ねて頼んでいます。彼らは、自己満足から程遠い者でした。イエスが、マタイ5:6で「義に飢え渇く者は幸いです」と言われたことの意味は本当に大きいです。

 まだ自分が霊的に貧しく、霊の目が十分に見えておらず、主イエスの義の衣を着せられなければ、自分の罪が神の目に丸見えの恥ずかしい裸の者であることを自覚することは、何と大切でしょう。そこから私たちは、真に霊的な豊かさや主イエスの真白な義の衣、そして霊的に更に見えるようにして下さる御霊を、一層真剣に求め出すからです。

 そうして、私たちは主の口から吐き出されることなく、自分を本当の意味で救うことができ、愛する主とその教会、そして真の神をまだ知らず救われていない多くのに人に対しても、必ず主に用いて頂けます。19、20節を読んで終ります。「私は愛する者を皆、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。見よ、私は戸の外に立って叩いている。誰でも私の声を聞いて戸を開けるなら、私はその人の所に入って彼と共に食事をし、彼も私と共に食事をする。」

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