2023年09月07日「信仰のもたらす益」

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信仰のもたらす益

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
テモテへの手紙一 4章8節~9節

聖句のアイコン聖書の言葉

4:8 肉体の鍛錬も少しは有益ですが、今の命と来るべき命を約束する敬虔は、全てに有益です
4:9 この言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。テモテへの手紙一 4章8節~9節

原稿のアイコンメッセージ

 今日は十戒の学びを離れ、Ⅰテモテ4:8から「信仰のもたらす益」と題してお話致します。

 使徒パウロはここで、「肉体の鍛錬も少しは有益ですが、今の命と来るべき命を約束する敬虔は、全てに有益です」と語ります。「敬虔」と訳されているのは「よく恐れる」という意味のギリシア語であり、神をよく恐れることを意味します。同じ言葉が、Ⅱペテロ3:11では「敬虔な生活」と訳されています。ですから、神を真に深く畏れ敬い、特に実際に行動と生活が伴う信仰と言えるでしょう。

 パウロがここで教えていることは、要するに、主イエス・キリストを自分の救い主として心から信じ、自覚的に神に従おうとする信仰は、死んで全てが終りではなく、来るべき永遠の命を神から授かることは勿論、この世で生きる上でも必ず益をもたらすということです。

 では、どんな益があるでしょうか。パウロは、ここでは特に書いていませんが、恐らく多すぎて書けなかったでしょう。しかし、少し知りたい気も致します。そこで私自身の体験をも含めて三つお話させて頂きます。

 一つは、どんなに辛い時でも、何か希望を持てることです。今起っている周囲の状況だけを見るなら、八方塞がりで絶望的。しかし、上が開(あ)いています!すなわち、神を見上げる時、何かしら期待できるのです。

 創世記が伝えるアブラハムは、普通なら望みえない状態にありましたが、彼は、ローマ4:17「死者を生かし、無いものを有るものとして召される神」、無から有を生じさせることの出来る全能者の神を尚も信じ、その約束に与り(あずかり)ました。神は、古代イスラエル民族をエジプトでの絶望的奴隷状態から、人の全く想像も出来ない方法により救われた方です。ですから、人間的には絶望でも、聖書で自らを示しておられる天の神を見上げる時、「何とかなるかも知れない。神に期待してみよう」とフッと心の一部が解放され、問題自体は未解決でも、私たち自身が守られることがしばしばあります。信仰って、やはり本当にありがたいものです。

 第二に、死んだ後のことについての安心があります。これも感謝だと思います。

 私たちは死後、神の裁きの座に立たなければなりません。ヘブル9:27と4:13は言います。「人間には、ただ一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている…」「神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目には全てが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。」

 嘘、ごまかし、意地悪。自分は出来ていないのに、人には厳しく、傲慢に人を裁く。或いは隠れて恥ずかしい罪を犯したことのない人がいるでしょうか。無意識で気付かない罪も含めるなら、誰が大丈夫でしょうか。当然、私もこの意味では神の前に顔も上げられません。

 しかし、ここに神の御子、主イエス・キリストを信じる信仰のもたらす安心があります!主の十字架の恵みは、全世界を贖って余りある程、絶大だからです!

 ところで、罪赦される信仰が本当に自分にあることは、どうすれば分るでしょうか。「私の罪の身代りに十字架につき、復活して下さった神の御子イエス・キリスト以外、私を救えるものはこの世に一切存在しない。イエス・キリストだけが、私の唯一絶対の救い主」と心から言えるかどうかです。神の前に平伏し、心底そう言えるなら、私たちは救われ、主は永遠の命を下さいます。死後、神は赦しを宣言され、私たちは永遠の御国に入れられます。安心して構いません。

 第三に、最後までしっかり生きることを支えられます。

 40代の中頃、私は医者から癌だと言われる夢を見ました。夢の中ですのに、私は血の気が引いて体が冷たくなるのを感じました。自分の弱さを改めて思いました。

 その約20年後の60代の中頃、病院の健診で「胃癌の疑いあり」と書かれた健診結果を見てドキッとし、胸が騒ぎました。まあ、色々なことが次々頭をよぎりました。

 ところが、前回とは違っていました。胸は騒ぎましたが、その後、腹が据わったというか、覚悟が自分の中で固まりました。「よし、これからがいよいよ僕の本番だ。いつ死を迎えても、神の前にしっかり立てるように、本気で神の御言葉に従って生きるんだ。もっと喜んで神と人に仕え、きよいイエス様に少しでも似る者にならせて頂くのだ」と、いつまでの命かは神に任せ、残された時間を悔いなく精一杯神の前に生きようという覚悟が出来るようになっていました。

 パウロは最晩年に書いたⅡテモテ4:8で「あとは、義の栄冠が私のために用意されているばかりです」と見事な確信を述べています。私もこうなりたいと願いました。

 その後、詳しい検査で癌でないことが分り、私の覚悟も少し緩んでしまいましたが、あの時、私を動かないように守り、むしろいよいよ本気で神の前に生きる強い覚悟を、主が与えて下さったことは忘れられません。

 私の小さな体験も含めての話ですが、信仰のもたらす益は確かにあることを思います。イエス・キリストへの信仰のもたらす益を、皆でますます体験したいですね。

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