2023年08月20日「冠を受けるために」

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冠を受けるために

日付
説教
服部宣夫 神学生
聖書
使徒言行録 7章54節~60節

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聖句のアイコン聖書の言葉

7:54 人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりしていた。
7:55 しかし、聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、
7:56 「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」と言った。
7:57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、一斉にステパノに向かって殺到した。
7:58 そして彼を町の外に追い出して、石を投げつけた。証人たちは、自分たちの上着をサウロという青年の足もとに置いた。
7:59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで言った。「主イエスよ、私の霊をお受けください。」
7:60 そして、ひざまずいて大声で叫んだ。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、彼は眠りについた。使徒言行録 7章54節~60節

原稿のアイコンメッセージ

 [導 入]

 おはようございます。お初にお目にかかる方もいらっしゃることと思います。私は、神戸改革派神学校より、8月の伝道実習期間として、こちらの岡山西教会へ遣わされて参りました服部宣夫と申します。どうぞよろしくお願いします。今朝は、伝道説教として、すなわち初めてキリスト教の教会に来られた方に向けて、あるいはキリスト教に触れ始められた方に向けて、お話しをするようにと仰せ付かっております。キリスト教の教会では、そういう方々のためにキリスト教の話しや聖書の話しをする説教を伝道説教と呼んでおります。しかしその前に、そういったキリスト教や聖書の話しをする前に、神学生って何ですか?、あるいは神学校ってどんな学校ですか?と思われる方もいらっしゃるのではないかと思われますので、最初にこれらについてお話ししておきます。

 「神学校」とは、プロテスタント教会の牧師となる人材を養成するための学校です。私たちの神学校は、「神戸改革派神学校」と呼びます。そこで、将来教会の牧師となり、説教者となるために学んでいる学生を「神学生」と呼ぶわけです。

 我が神戸改革派神学校での神学生の一日は、学課がある火曜日~金曜日は、朝の6時40分から朝の祈り会(朝祷会)から始まります。講義授業は、午前8時30分から始まり、1コマ50分、遅いときは7時間目の17時30分まで講義授業があります。途中、午前10時30分から11時00分までは、チャペルで必ず礼拝を守ります。土曜日は、特別集会や修養会、研修会がない限り学課はありませんが、大半の神学生は、その週の復習や小テストの準備、次の日の教会学校の準備、応援説教の準備、応援説教のための移動に当てています。日曜日は、1年ごとに割り当てられた奉仕教会で朝から一日を過ごします。翌日の月曜日も学課はありませんが、大半の神学生は適当に休養をとったら、すぐにその週の準備に取りかかっています。

 さて、その「神戸改革派神学校」の教授陣のお一人に、南アフリカの改革派教会出身の、お名前は「ステファン・ファン・デア・ヴァット」という先生がいらっしゃいます。私たちは、ステファン先生からは「牧会学」「宣教学」「牧会カウンセリング」といった一般の大学では受けることがない学びを受けており、この背の高い、青い目の先生を親しみを込めて「ステファン先生」とお呼びしております。このステファン先生の奥様がカリナ夫人で、カリナさんのご両親が、デベット先生(新居浜伝道所定住説教者)ご夫妻になるわけです。

 なぜステファン先生のことを皆様にご紹介したかといいますと、先ほど朗読しました聖書の箇所と関係するからです。お気づきの方もいらっしゃるかもしれません、ステファン先生のステファンは、今日の聖書にでてきた「ステパノ」に由来する名前だからです。名前の「ステパノ」は、ギリシア語の「ステファノス」に由来しますが、実は、このギリシア語「ステファノス」は「冠」を意味する言葉です。今日のお話の題に「冠」という言葉を入れたのは、こういう理由からでした。

 ある時、ある神学生がステファン先生に「ステファン先生のお名前のステファンは、やはり聖書のあの『ステパノ』から取ったのですか?」と伺いました。すると「その通りです。でもなぜ親が僕にステパノを意味するステファンと付け方は、よく分からないね。多分、聖書に出てくるからでしょうね」ということでした。私たち神学生は、なるほどと思い、それから「ステファン先生!」と先生をお呼びするごとに、(ステファン先生のステファンは、あの「ステパノ」に由来するんだ)と心に思い浮かべることができ、聖書を思い出すきっかけを与えてくださっているということで、大変に感謝しているわけです。

 今日は、この歴史上実在した、初代の教会のキリスト者であったステパノという人物に焦点を当てて、キリスト教の話し、聖書の話しをします。ただ、題の「冠を受けるために」に込めた意味をお話しする前に、「ステパノ」というこの人物を通して知ることができる大切なメッセージの言葉を、問い掛けの言葉をお伝えしておきます。それは、「キリスト教は、何を見つめているか?」ということです。やや大胆に言い換えれば、「キリスト教とは、見る宗教である」になるかも知れない。「えっ?」と思われた方がいらっしゃると思います。教会でする話しなら、「見つめているか?」よりは、「信じているか?」の方がぴったくるのではないかと。そうです。教会でする話しなら、「キリスト教は何を信じているか?」の方が確かにキリスト教らしい。もちろん、「キリスト教は何を信じているか?」という問いが重要であることに間違いはありません。しかし、それと同じくらい「キリスト教は、何を見つめているか?」も、とても大切なのです。「何を信じているか?」と「何を見つめているか?」の二つの問いは、深く結びついています。

 [展開01] 

 それでは、今日の聖書の話しを少ししましょう。初代の教会のキリスト者ステパノのことを伝えている今日の聖書の箇所は、キリスト教の教会の歴史の中で一番最初に起きた「迫害」についてを伝えています。「キリスト教への迫害」というと、キリスト教がローマ帝国で公認されるまでの1世紀後半から4世紀前半に起こったローマ帝国内での迫害が真っ先に思い浮かぶかもしれません。が、実は、もっと早くから迫害はあったのです。まず、イスラエルの都エルサレムのゴルゴタの丘でイエス様が十字架で死なれました。三日後、イエス様が復活されました。イースターを迎えます。やがて聖霊が注がれて教会が誕生しました。ペンテコステを迎えます。という流れを振り返ると、教会が誕生したとき、ペンテコステのときから、もう迫害は始まっていたのです。ステパノが迫害をうけたのは、イエス様の十字架と復活の後、僅か数ヶ月後でしょう。

 それでは誰が迫害したかというと、先ほど出ていた「人々」です。この「人々」とは、単なる群衆ではなく、ユダヤ教の最高法院の議員たちを含むユダヤ教の指導者たちです。彼らが迫害したのです。ユダヤ教からの迫害、これがキリスト教会が最初に被った大きな迫害でした。

 ステパノは、イエス様の直接の12弟子ではありませんでしたが、イエス様に従っていた多くの弟子たちの中の一人であったようです。聖書によれば、彼は神様の霊、聖霊に満たされた信仰者であったため、「信仰」「恵み」「力」「知恵」に満ちたキリスト者であったということです。ユダヤ教指導者の人々との論争が起きましたが、最高法院という今で言う最高裁判所で行われたステパノの弁論に彼らは歯が立ちませんでした。7:54にある「人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりしていた」は、このとき、ユダヤ教指導者たちの切歯扼腕(せっしやくわん)ぶりを伝えています。

 その時のステパノは、7:55にあるとおり「しかし、聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て」とあります。「見つめていた」「見て」が出てきました。さらに7:56「『見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます』と言った」とあります。また「見なさい」、「見えます」という言葉がステパノの口から出ています。やはり「見る」が出てくるのです。

 予め申し上げておくと、ステパノは、この迫害によって絶命します。残酷な仕方で殺されます。石打ちというやり方です。ステパノは、自分がいよいよ殺されることは予感していたのでしょう。そのとき「じっと天を見つめてい」たというのです。そして、見たというのです。「天が開けて」「神様の栄光」と「神様の右に立っているイエス」様を。

 聖書は、このステパノの前にもあった驚くべき出来事を証言しています。それは何か。イエス様の弟子たちは、復活されたイエス様にお会しいたことをです。つまり、弟子たちは、復活されたイエス様を見たのです。

 「キリスト教は、何を見つめているか?」。復活されたイエス様です。言葉を換えれば、人間の罪と死に勝利したいのちを見つめている。地上のいのちを越えた天のいのちを見つめている。こう言ってよいでしょう。弟子たちは見ました。ステパノは見つめました。そして、ここにいるキリスト者たち、信仰者たちも復活されたイエス様のお姿を見つめています。人間の罪と死に勝利したいのちを見つめています。地上の今のこのいのちを越えた天のいのち、永遠のいのちを見つめています。

 [展開02] 

 さて、今、人間の罪ということも申し上げましたが、ユダヤ教指導者たちの姿には、神様の御心に逆らう人間の罪がはっきりと現れています。罪について一言だけ申し上げておきます。7:57~58で「人々は大声で叫びながら、耳をおおい、一斉にステパノに向かって殺到した。そして彼を町の外に追い出して、石を投げつけた」とありました。論争で歯が立たないとわかるやいなや、彼を取り囲んで殺そうとしました。つまり、正式な裁判を開かずに殺そうとします。ですから、これはリンチです。しかし実は「町の外に追い出して、石を投げつけた」ことは、彼らの律法にきちんと則っていた、と指摘されています。神様が与えてくださった聖なる律法に従って、自己正当化のためのリンチを行う。ここにおぞましい人間の罪の姿が見て取れます。しかも、ステパノが最高法院で論じたのは、「指導者のあなたがたは、罪のない正しい方を殺しましたよね」ということ、つまり「あの方、イエス様を十字架につけて死に追いやったのはあなたがたでしたよね」ということを論じたのです。

 四方から取り囲まれ、石を投げつけられ始めたステパノは、いよいよ最期の時が近いことを予感して、このように叫びました。7:59~60「『主イエスよ、私の霊をお受けください』。そして、ひざまずいて大声で叫んだ。『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』」。このステパノの姿に思い出される姿があります。十字架に付けられたイエス様の姿です。新約聖書のルカの福音書という書物には、イエス様が十字架に付けらたときをこう報告しています。朗読しますのでお聞きください。

 23:33 「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。

 23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。

 23:44 さて、時はすでに十二時ごろであった。全地が暗くなり、午後三時まで続いた。

 23:45 太陽は光を失っていた。すると神殿の幕が真ん中から裂けた。

 23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

 このように、イエス様は十字架に付けられたとき、「父よ、彼らをお赦しください」と言われ、最後に「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」と叫ばれて息を引き取られたのです。この御言葉から、私たちはステパノが見つめていたもう一つのものが示されます。ステパノは、イエス様の十字架を目撃していました。イエス様が十字架に掛かられる現場を見たのです。そうしてその時から、イエス様の十字架を心の内で見つめ始めました。ペテロを始め近くにいた弟子たちはイエス様を裏切り、遠くからイエス様の十字架を見ていました。しかし、おそばにいて最期を見届けた弟子たちもいました。彼ら全員はイエス様がこのように死になれて愕然とします。イスラエルをローマから解放して下さるのは、間違いなくこの方だと望みを掛けていたのに…と意気消沈するのです。中にはユダヤ人指導者たちを恐れて、エルサレムから逃げ出す弟子たちも現れます。

 ですから最初、弟子たち全員は、本当に落胆と混乱した気持ちでイエス様の十字架を何度も思い出し、心の中で見つめていました。本当に辛かったと思います。ところが、この十字架から三日目の朝、まず女性の弟子たちが、次に男性の弟子たちが、見てしまいます。イエス様の亡きがらをお納めした墓が空っぽになっていたことを。そうして弟子たちはお会いしてしまいます。そう、復活されたイエス様と。

 このときから、弟子たちの十字架を見つめる心は全く変わり始めます。落胆と混乱ではなく、感謝と喜びに変わり始めたのです。「ああ、イエス様がずっと私たちに教えてくださっていた通りだった!聖書に書かれていたとおりだった!メシア、キリストは必ず苦しみを受けて栄光に入るという聖書の預言は、こうやって本当に実現し、成就したんだ!」と。

 「キリスト教は、何を見つめているか?」。弟子たちも、ステパノも、そして、ここにいるキリスト者たち、信仰者たちも見つめています。イエス様の十字架を。しかも感謝と喜びの心を持って、イエス様の十字架を見つめています。

 さらにさらに次のことも言えます。ステパノは、「主イエスよ、私の霊をお受けください」「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と叫びました。これは、イエス様が十字架で死なれたときの言葉と全く同じでした。つまりステパノは、見つめていたのです。イエス様の言葉を。そうしてイエス様の言葉を見つめるとは、イエス様の教えを見つめることと一つです。イエス様の十字架刑は、完全に不当な裁判によって執行されました。ステパノの石打ちは、裁判を経ない完全なリンチでした。しかしこう叫ぶのです。「父よ、彼らをお赦しください」「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」。彼らとは、誰でしょうか。ユダヤ人指導者たちです。ユダヤ人指導者を含むイスラエルの人々です。同朋の仲間たちです。天の父なる神様に向かい、天の父なる神様の右に立っておられるイエス様に向かい、彼らの罪が赦されることを叫ぶのです。なぜ彼らの赦しを叫ぶのか。それはイエス様が、かつてこう教えられていたからです。マタイの福音書にこうあります。

 5:43 『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

 5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

 「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。ステパノは、イエス様のこの言葉、教えを見つめていたのです。

 「キリスト教は、何を見つめているか?」。弟子たちも、ステパノも、そして、ここにいるキリスト者たち、信仰者たちも見つめています。イエス様の言葉を。しかもこの方が復活されたが故にこの方の言葉は完全な真実であると、神の御言葉であると確信してイエス様の言葉を見つめています。

 [展開03]

 「キリスト教は、何を見つめているか?」。3つ申し上げました。もう一つだけ申し上げることがあります。ステパノが息を引き取ったときを聖書はこう言っていました。7:60 「彼は眠りについた」。亡くなったではなく、死んでしまったでもなくです。間違いなく彼は亡くなった、死んだのです。しかし聖書によれば「眠りについた」が最も正確な表現なのです。眠りとは、目覚めるときがあることを暗示しています。つまり、ステパノにとって、もはや死は眠りです。目覚めるときが必ず来る一時の眠りです。それでは目覚めるときとは、いつのときでしょうか。それが、イエス様の復活のいのちを頂くときです。罪と死に勝利されたイエス様と同じいのちを頂くときです。

 「キリスト教は何を見つめているか?」弟子たちもステパノも、そして、ここにいるキリスト者たち、信仰者たちも見つめています。私たちが、この私がイエス様の復活のいのちを頂くときを。しかもイエス様がそのことを教え、約束されていたが故に、完全な希望を持って、この私がイエス様のと同じ復活のいのちを頂くときを見つめています。そしてそれが私たちに、この私に、与えられる「冠」であると信じています。ステパノという名前の由来はステファノスにあり、「冠」を意味する言葉でした。彼にふさわしい名前を神様は、与えてくださいました。ステパノはやがて確実に彼に与えられる勝利の「冠」を証しする人生を全うしたからです。

 [まとめ]

 今日のお話しに「冠を受けるために」と題をつけた意味はこういう理由からでした。私は、皆さんにお奨めしたいのです。共々にこの「冠」を頂こうではありませんかと。天の父なる神様は、限りなく慈しみ深い方です。求める者たちには、惜しみなくすべてを与えて下さる方です。そうして「冠」をすべての人が受けることを願っておられます。

 そのために必要なことは何でしょうか。見つめることです。イエス様の言葉をです。十字架に付けられたイエス様をです。そして復活されたイエス様をです。私たちがこのお方の言葉と姿を見つめるために、教会には聖書が与えられています。

 祈ります。

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