十戒…第二戒 まことの神と偶像
- 日付
- 説教
- 服部宣夫 神学生
- 聖書 申命記 5章8節~10節
5: 8 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。
5: 9 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、
5:10 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。 (新共同訳 申命記5章8~10節)申命記 5章8節~10節
金田幸男著『十戒・主の祈り-講解説教集』(聖恵授産所 1998年)をベースにして
「3 まことの神と偶像」(pp.33-43) より
カトリック教会やルーテル教会では、十戒の数え方が異なっています。両者の間でもなお細かいところは多少の違いがありますが、私たちが第二戒としているものを第一戒に数え入れ、私たちが第十戒としているものを分割しています。
カトリックで…第二戒としているものを第一戒に数えるのか…聖画像の問題があるからです。 …会堂にいろいろの画像が置かれています。…信者はその前で拝礼を繰り返しています。この聖画像を拝礼するのは偶像礼拝ではないか、こういう疑問は古くからありました。
東方教会(ギリシア正教)の歴史には、聖画像破壊運動(イコノスクラズム A.D.726-843)といわれる激しい教会の内の争いがありました。キリストの神性を強調すればするほど、人性は後退します。東方教会では、キリストの、神であることが重んじられる傾向にあり、聖画像はそれに反すると見なされたのでした。しかし、後には、東方教会でも、聖画像、特にイコンと呼ばれる画像が礼拝堂に安置され、イコンは崇敬の対象となりました。ローマ教会でも次第に聖堂に彫像が置かれるようになりました。その場合、その口実は、文字を読めない民衆の教育、絵や像で信仰を教えるためというものでした。
いったん礼拝堂に置かれると、聖画像は拝礼の対象となります。特にキリストが高く祭り上げられる…神として絶対的な存在とされるようになると、そのキリストと人とを仲介するものとしての、聖母マリア…功徳を積んだ殉教者や聖人が代わって重んじられるようになり、それらを刻んだ像を崇敬して、キリストに執り成しを求めるようになった…。
第二戒を第一戒にまとめると、この偶像礼拝は緩和されます。つまり、偶像とは唯一の神以外の異教の神々の像ということになります。異教の神々を表象する偶像は、これを礼拝することは当然許されない。しかしながら、キリスト教の聖人らの像は、少なくとも異教の神像と同じではなく…キリストに仕える人々の思い出であり、記念でもあり、その忠実な信仰を伝え、功績を思い起こさせます。この像を崇敬することは、単なる偶像礼拝とは異なる。こういう具合にして、第二戒を単独の戒めとしないで、第一戒に組み込んで、聖画像崇拝の違法性を解消しようとしました。
改革派は、このような中世以来のローマ・カトリック教会のあり方と対峙するものでした。第二戒は神を形にして描くことそのものを禁じる戒めととります。…神的なものを可見的に描くことの禁止と受け止めます。偶像礼拝はむろんのこと、神を、そして神性を、目に見えるものとして描いたり、表現したりすることを禁じている…第二戒を単独の戒めとすることで、固有の意味をもつものとして、幅広い解釈となるのです。
カトリックでは、聖画像は無学な信徒の教材であるという主張がありました。宗教改革者たちはこれに猛烈に反対しました。このような主張は御言葉の学びを軽視するもので、信徒が自分で聖書を読めるようにする方が大切であるとし…読み書きという初等教育を重視しました。礼拝は御言葉とその説き明しからなるという礼拝観が確立します。
ところで、キリストを描くということについて、プロテスタントの中でも多少の違いがあります。例えば、日曜学校で、キリストの絵を用いてはならないとし、教材からイエス像を切り落としてしまう人がいます。しかし、これは極端で、キリスト理解からすれば正当と思われません。キリストは確かに神です。その神性を描くことは、この第二戒に明らかに反します。しかし、キリストは人でもあります。まぎれもなく、私たちと同じ人間性を取られました。…ただ、想像して描くことは芸術家の領分であると思います。キリストをそのような限界をつけて描くことは合法的であると言えます。
像を作るとはどういうことでしょうか。像は人間の思いや宗教心が反映します。人のあこがれ、願望が表されます。…像は、その場所にしばられます。…何よりも、神を像に刻めば、その像が表しているようにしか、神が表現されなくなります。神のイメージを狭くすることは神の栄光を損ないます。第二戒は…神性を可見的なものとしてはならない点と神の恵みは神の像のもつイメージに制限されてはならない(点で重要なのです)。
語り合いのために
・宗教改革の歴史は、第二戒の精神と直結していた。私たちは第二戒をどのように受け止めてきたか?
・前回(第一戒)では外なる偶像崇拝が、第二戒は内なる偶像崇拝が講解された。改革派の教会に像はないか?
・人間の罪性は神を像として形に表す傾向として指摘された。この面で改革派も注意すべきことは何か?