聖書の言葉 5:6 わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。申命記 5章6節 メッセージ 金田幸男著『十戒・主の祈り-講解説教集』(聖恵授産所 1998年) 「はじめに」(pp.3-5) より ❍ もしも、この書物が新しい性格をもっているとすれば、筆者の信仰の告白として書かれたということでしょう。 ❍ 改革派教会の信仰は、心、つまり精神活動に限定しません。信仰は生活そのもの、信じて生きることの全体を含むとします。その人生の全てにわたって、神と共に歩み、生き、そして、死ぬ。生きるにも、死ぬにも、神の栄光を表すというモットーこそ改革派信仰を特徴付けるものです。神の戒めを道標とし、祈りつつ歩むことは、信仰告白そのものです。 「1 十戒 信仰の告白として」(pp.11-21) より ❍ 十戒の教えは、どこにでも見られるような、道徳・倫理的なものと同じような印象を与えています。道徳は今や嫌悪の対象です。古い権威を振りかざし、人間の自由を拘束するもののように思われています。「戒め」と聞いただけでも、堅苦しさ感じ、息苦しいとも思われ、掟と聞けばそれだけでがんじがらめに縛られるような気がするというわけです。 ❍ 十戒の学びを拒否する人たちが、キリスト教信仰をどのように見ているのか…つまり、キリスト教は「愛の宗教」であるという考えの人が多い…。律法は愛と矛盾するというのです。あるいは、キリスト教は福音を信じる宗教であって、律法は福音に対立するものであるから、キリストが現れた以上、もはや律法など学ぶ必要はない、かえって有害である…。また、キリスト教は精神の安定、つまり心の安らぎを与えるものであるから、律法など学ぶとかえって修行を強いられるようで、両肩に荷を背負うようなものだ…。 ❍ しかし、キリスト教は人の心だけを取り扱うのではなく、人生そのもの、人間そのものと正面から向き合う宗教なのです。…キリスト教信仰が関わろうとしているのは、人がいかに生きるべきかです。この限られた人生を有意義に生きるというだけでなく、この世を越えてなお人生があることを前提にし、来るべき世での生と今の人生をつなげて「生きる」ということを追求していく信仰です。 ❍ 「序言」(わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、【主】である。) ❍ イスラエルはエジプトでの奴隷状態から救出されます。水の下をくぐり抜けて約束の地に導かれていきます。驚くべき救いに与ったイスラエルは神の民としてこれからも神の前を真実に歩むことが求められました。…神はイスラエルの神、イスラエルは神の民であることが確認されます。つまり、ここで契約が確認されたのでした。そこで与えられたのが律法であり、その中心が十戒でした。この律法の与えられた状況を軽視してはなりません。 ❍ 十戒の冒頭で神は「わたしは主(ヤハウェ)、あなたの神である」と宣言されます。この言葉は…神とイスラエルの契約関係を思い起こさせるものです。 ❍ 旧約の民だけではなく、新約の民である教会にも十戒は与えられています。イエス・キリストにおいて神は新しい展開をなさいました。イエス・キリストは神に遣わされ、十字架の死に至るまで忠実であられ、それによって贖いをまっとうされました。こうして信じた私たちは罪の奴隷状態から救出されました。…信じる私たちにとって、十戒は神を契約の神と信じ、その恵みに生きる手だてです。 ❍ イエス・キリストは私たちの救い主です。そのキリストは私たちに従うように求められます。キリスト者の生き方は服従の道です。服従の仕方は十戒に記されています。直接、キリストが十戒を守れと命じられたところは聖書にはでてきませんが、キリストの教え、使徒たちの教えからこのこと、つまり、十戒が服従の道として最高の規範であるという結論を引き出すことができます。…それは、キリストとともに歩む生き方を記しています。 語り合いのために ・私たちは十戒をどのようなものとして受け止めているだろうか? ・十戒の学びを拒否する信仰者が現実にいることを、私たちはどのように受け止めたらよいか。 ・イスラエルだけでなく、キリスト者にとっても十戒が服従の道として最高の規範であるのはなぜか。 関連する説教を探す 2023年の祈祷会 『申命記』
金田幸男著『十戒・主の祈り-講解説教集』(聖恵授産所 1998年)
「はじめに」(pp.3-5) より
❍ もしも、この書物が新しい性格をもっているとすれば、筆者の信仰の告白として書かれたということでしょう。
❍ 改革派教会の信仰は、心、つまり精神活動に限定しません。信仰は生活そのもの、信じて生きることの全体を含むとします。その人生の全てにわたって、神と共に歩み、生き、そして、死ぬ。生きるにも、死ぬにも、神の栄光を表すというモットーこそ改革派信仰を特徴付けるものです。神の戒めを道標とし、祈りつつ歩むことは、信仰告白そのものです。
「1 十戒 信仰の告白として」(pp.11-21) より
❍ 十戒の教えは、どこにでも見られるような、道徳・倫理的なものと同じような印象を与えています。道徳は今や嫌悪の対象です。古い権威を振りかざし、人間の自由を拘束するもののように思われています。「戒め」と聞いただけでも、堅苦しさ感じ、息苦しいとも思われ、掟と聞けばそれだけでがんじがらめに縛られるような気がするというわけです。
❍ 十戒の学びを拒否する人たちが、キリスト教信仰をどのように見ているのか…つまり、キリスト教は「愛の宗教」であるという考えの人が多い…。律法は愛と矛盾するというのです。あるいは、キリスト教は福音を信じる宗教であって、律法は福音に対立するものであるから、キリストが現れた以上、もはや律法など学ぶ必要はない、かえって有害である…。また、キリスト教は精神の安定、つまり心の安らぎを与えるものであるから、律法など学ぶとかえって修行を強いられるようで、両肩に荷を背負うようなものだ…。
❍ しかし、キリスト教は人の心だけを取り扱うのではなく、人生そのもの、人間そのものと正面から向き合う宗教なのです。…キリスト教信仰が関わろうとしているのは、人がいかに生きるべきかです。この限られた人生を有意義に生きるというだけでなく、この世を越えてなお人生があることを前提にし、来るべき世での生と今の人生をつなげて「生きる」ということを追求していく信仰です。
❍ 「序言」(わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、【主】である。)
❍ イスラエルはエジプトでの奴隷状態から救出されます。水の下をくぐり抜けて約束の地に導かれていきます。驚くべき救いに与ったイスラエルは神の民としてこれからも神の前を真実に歩むことが求められました。…神はイスラエルの神、イスラエルは神の民であることが確認されます。つまり、ここで契約が確認されたのでした。そこで与えられたのが律法であり、その中心が十戒でした。この律法の与えられた状況を軽視してはなりません。
❍ 十戒の冒頭で神は「わたしは主(ヤハウェ)、あなたの神である」と宣言されます。この言葉は…神とイスラエルの契約関係を思い起こさせるものです。
❍ 旧約の民だけではなく、新約の民である教会にも十戒は与えられています。イエス・キリストにおいて神は新しい展開をなさいました。イエス・キリストは神に遣わされ、十字架の死に至るまで忠実であられ、それによって贖いをまっとうされました。こうして信じた私たちは罪の奴隷状態から救出されました。…信じる私たちにとって、十戒は神を契約の神と信じ、その恵みに生きる手だてです。
❍ イエス・キリストは私たちの救い主です。そのキリストは私たちに従うように求められます。キリスト者の生き方は服従の道です。服従の仕方は十戒に記されています。直接、キリストが十戒を守れと命じられたところは聖書にはでてきませんが、キリストの教え、使徒たちの教えからこのこと、つまり、十戒が服従の道として最高の規範であるという結論を引き出すことができます。…それは、キリストとともに歩む生き方を記しています。
語り合いのために
・私たちは十戒をどのようなものとして受け止めているだろうか?
・十戒の学びを拒否する信仰者が現実にいることを、私たちはどのように受け止めたらよいか。
・イスラエルだけでなく、キリスト者にとっても十戒が服従の道として最高の規範であるのはなぜか。