2023年07月30日「聖徒の交わりを信ず(使徒信条の学び32)」

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聖句のアイコン聖書の言葉

12:12 丁度、体が一つでも、多くの部分があり、体の部分が多くても、一つの体であるように、キリストもそれと同様です。
12:13 私たちは皆、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマ(洗礼)を受けて、一つの体となりました。そして、皆、一つの御霊を飲んだのです。
12:14 実際、体はただ一つの部分からではなく、多くの部分から成っています。
12:15 たとえ足が「私は手ではないから、体に属さない」と言ったとしても、それで、体に属さなくなるわけではありません。
12:16 たとえ耳が「私は目ではないから、体に属さない」と言ったとしても、それで、体に属さなくなるわけではありません。
12:17 もし、体全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、体全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。
12:18 しかし実際、神は御心(みこころ)に従って、体の中に夫々の部分を備えて下さいました。
12:19 もし全体がただ一つの部分だとしたら、体はどこにあるのでしょうか。
12:20 しかし実際、部分は多くあり、体は一つなのです。
12:21 目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなた方はいらない」と言うこともできません。
12:22 それどころか、体の中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。
12:23 また私たちは、体の中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えよくするものでおおいます。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、
12:24 格好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところには、見栄えを良くするものを与えて、体を組み合されました。
12:25 それは、体の中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。
12:26 一つの部分が苦しめば、全ての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、全ての部分が共に喜ぶのです。
12:27 あなた方はキリストの体であって、一人ひとりはその部分です。コリントの信徒への手紙一 12章12節~27節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、使徒信条の中の「聖徒の交わり」を信じる、という告白を学びます。

 アメリカ合衆国長老教会の信条集では、使徒信条の各項目が上から下へ一つずつ順番に記されていますが、「聖徒の交わり」だけは「聖なる公同の教会」に続けて、すぐ右に記されています。「聖なる公同の教会」、すなわち、「聖徒の交わり」ということです。

 これは大事なことを示しています。教会は、天地の創り主・全能の父なる神を信じ、その独り子イエス・キリストを信じ、聖霊なる神を信じるだけの信者の単なる集りではなく、聖徒の交わりがあってこそ教会だということです。

 Ⅰコリント1:2に「聖徒」とあります。これはカトリック教会などが特別な信仰者について言ういわゆる「聖人」のことではありません。主イエスを心から信じ、受け入れ、依り頼んで罪を赦され、義とされ、神の子とされた普通の信者を指します。自分の罪や不信仰がよく分っている私たちは、自分を「聖徒」などとは、恥ずかしくてとても呼べるものではありませんね。しかし、私たちの信じるイエス・キリストの故に、神は、聖書でクリスチャンを聖徒と呼ばれるのです。

 大切なことは、教会の本質が聖徒の交わりにあることです。立派な教会堂があり、多くの信者がいて、整った組織があっても、聖徒の交わりが希薄なら、教会としては不十分なのです。

 では、聖徒の交わりとは何でしょうか。皆でお喋りをし、楽しい時を持つことも交わりの一つですが、聖書の言う交わりの本質は何でしょうか。

 新約聖書で「交わり」と訳されるギリシア語・コイノーニアは、「何かを共有する、何かに共に与る(あずかる)」という意味です。

 では何を共有し、何に共に与るのでしょうか。宗教改革のさ中、1563年にドイツで作られましたハイデルベルク信仰問答の問55は言います。

 問55「『聖徒の交わり』について、あなたは何を理解していますか。」

 答 「第一に、信徒は誰であれ、群れの一部として、主キリストとこの方のあらゆる富と賜物に与っているということ。第二に、各自は自分の賜物を、他の部分の益と救いとのために、自発的に喜んで用いる責任があることを、わきまえなければならない、ということです。」

 これは聖徒の交わりを二つの面で見ています。

 一つは、信者がキリストご自身とその救いのあらゆる富と賜物を共有していることです。

 Ⅰコリント12:12以降は、信者を体の各部分に喩えています。この比喩が教えることの一つは、体の各部分が一つの命に与っているように、信者もキリストの同じ救いの恵み、その中心に罪の赦しと永遠の命がありますが、その恵みの全体に共に与り、共有していることです。

 これは色々な点で言えます。例えば、「教会の生命は主の日の礼拝にある」と言われます。事実、主の日の礼拝は、最も大切な聖徒の交わりであり、聖書朗読、説教、賛美、祈り、献金などにより、信者はイエス・キリストの命に共に与るのです。説教により、神の真理と救いの知恵に与り、「教えと戒めと矯正と義の訓練」(Ⅰテモテ3:16)を受け、聖霊による慰め、励まし、清めに共に与るのです。その最終目的は天国の栄光と喜びです。

 ところで、「聖徒」と訳されているラテン語は、「聖なるもの」とも訳せます。ギリシア正教会は、これを聖餐式におけるキリストの実在と取り、聖餐式をキリストの聖なる性質に与る神秘的秘儀とします。私たちはそのようには考えませんが、大事なことを教えられます。聖餐のパンと葡萄酒に与るとは、キリストの命に与り、その血による恵みの契約を確かにされると共に、キリストの聖さ(きよさ)にも共に与るということです。聖餐式にそういう恵みの共有があることを、是非、覚えたいですね。

 教会の諸集会についても触れます。青年会や婦人会など、教会の諸集会では、聖書や教理を初め、神の御心や知恵を共に学び、話し合いもします。教会はまた歓迎会、送別会、親睦会などもよく持ちます。しかし、その最大の目的は何でしょうか。イエス・キリストの救いの恵みをこそ分かち合い、共に励まされ、成長させられることなのです。この点をしっかり心に留め、主のあらゆる恵みを分かち合い、皆で霊的に成長させられたいと思います。

 さて、聖徒の交わりの二つ目は何でしょうか。自分に与えられた主イエスの様々な恵みや賜物を、皆の益と救いのために喜んで献げることです。

 Ⅰコリント12章が言いますように、体には色々な部分があります。しかし、自分のためにだけ存在するものは一つもありません。皆、他の部分と全体のために存在し、働いています(2023年7月20日、祈祷会奨励「私たちは互いのために造られた」参照)。互いに助け合い、26節「一つの部分が苦しめば、全ての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、全ての部分が共に喜ぶ」という関係にあります。教会も同じです。27節「あなた方はキリストの体であって、一人一人はその部分です。」

 パウロはローマ12:3以降でもこう教えています。「私は、自分に与えられた恵みによって、あなた方一人一人に言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えて下さった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。一つの体には多くの器官があり、しかも、全ての器官が同じ働きをしていないように、大勢いる私たちも、キリストにあって一つの体であり、一人一人は互いに器官なのです。私たちは、与えられた恵みに従って、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまず分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい。」

 ここには、分け与えること、指導すること、慈善を行うことも言われています。聖徒の交わりはこれらをも含むのです。従って、障害者のためのキリスト教福祉施設や被災地で奉仕する教会に送る献金や献品、ヴォランティア活動も聖徒の交わりの一つなのです。興味深いことにローマ15:26で「援助をすること」と訳されているギリシア語はコイノーニアです。

 賜物を献げるという点で言いますと、祈りは正に(まさに)聖徒の交わりの一つです。「私は病気で献げる賜物が何もありません」と言うクリスチャンも時々おられます。しかし、それは違います。体は病気で動かなくても、祈りは出来ます。むしろ、健康な人より、鋭い豊かな感性を持っておられる方が少なくありません。それにより、人の痛みや悲しみを深く覚え、人のために、主の平安と守りを祈る本当に尊い奉仕が出来ます。

 「聖徒の交わりを信ず」とは、誰かのために自分にも必ず何か奉仕が出来ることを信じ、「私は主の恵みの故に、させて頂くのだ」と、この告白に自分を少しでも具体的に押し出すことと言えるでしょう。

 最後に一言。私たちは、天に召された無数の聖徒たちとの交わりをも心に留めたいと思います。無論、私たちは彼らと話は出来ず、彼らのために何も出来ません。ただ、私たちは、彼らもかつては弱さを持ち、失敗もしながら、尚クリスチャンとして霊の戦いをし、最後までイエス・キリストへの信仰を守り抜いたその姿に教えられます。

 また彼らの残した信仰の遺産は、正に(まさに)イエス・キリストの宝物です。それを私たちは受け継ぎ、分かち合うことが出来ます。ハイデルベルク信仰問答を初め、宗教改革者たちが残した数々の信条や改革文書などは、本当に素晴らしい宝です。福音のために命をかけ、究極的には、ただ神の栄光と人の救いのために自らを献げた彼らの熱い真実な信仰に触れ、時間と空間を超えて私たちは励まされます。そうです。私たちは、地上にいて自分自身の罪やこの世の圧力と戦う「戦闘の教会」ですが、何と天にある「勝利の教会」、「栄光の教会」とも、交わりを持つことが出来るのです。そういう意味の「聖徒の交わり」をも、私たちには許されている!何と素晴らしいことでしょう!

 現実の教会の姿にしばしばガッカリしながらも、古代教会の信徒たちが「聖徒の交わりを信ず」と、信仰によって告白したことの意義は、誠に大きいと言えます。教会に与えられている神の豊かな祝福を覚え、私たちも是非是非、これに応えたいと思います。

 ナチスに抵抗し、39歳で殉教したD.ボンヘッファーは言いました。「〈聖徒の交わり〉は常にくり返し崩壊するにも関らず、常に新しく生じ、消滅してはまた生起する。」

 私たちもこれを心に留め、聖徒の交わりを絶えず意識的に、また丁寧に、皆で育んでいきたいと思います。教会形成とは、このことに他なりません。

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