聖書の言葉 5:16 いつも喜んでいなさい。5:17 絶えず祈りなさい。5:18 全てのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなた方に望んでおられることです。テサロニケの信徒への手紙一 5章16節~18節 メッセージ 聖書には、私たちを導く知恵が沢山見られます。聖書はまさに神の知恵の宝庫ですね。 Ⅱテモテ3:15が言いますように、聖書は私たちに「知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせる」ことが出来ます。事実、最終的には、ただ神の御子(みこ)イエス・キリストへの信仰だけで、本当に私たちを罪と永遠の死から救い、永遠の天の御国(みくに)の祝福に聖書は導いてくれます。 しかし、聖書は、最後に私たちが天国に入れるように知恵を与えるだけではありません。天の御国に至る途上でも、すなわち、この世での私たちの歩みにおいても、私たちを支え、イエス・キリストの救いの内に固く守り、罪に打ち勝たせ、私たちを私たちらしく生かす、という知恵をも与えます。 実際、辛いことで気持がひどく落ち込み、あるいは苛々し、何もかもがイヤになりそうな時でも、聖書は確かに私たちを救う知恵を、すなわち、私たちを私たち自身として固く保たせ、イエス・キリストの道をしっかり歩ませる知恵を与えることが出来る、ということでもあります。 先程お読みした所は、紀元1世紀の半ば過ぎに、周囲から嫌がらせや中傷や迫害を受けていた、今日のギリシアの北東部に位置するテサロニケという町の教会の信徒たちへの手紙の一部です。 彼らはよく忍耐していました。しかし、今後も襲ってくるかも知れない試練を思い、使徒パウロは、彼自身も神から授かり、助けられてきたその知恵の一部を教えます。もう一度読みます。16~18節「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全てのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなた方に望んでおられることです。」 しかし、余りにも辛い時は、いくらクリスチャンであっても、いつも喜び、絶えず祈り、全てのことにおいて感謝することなど、無理ではないでしょうか。 パウロもそれは分っていたと思います。実は「いつも」「絶えず」「全てのことにおいて」というのは、何より、喜びや祈りや感謝が習慣化することを強調する言葉であり、「喜んでいなさい。…祈りなさい。…感謝しなさい」という動詞も、ギリシア語原文では皆、継続を意味する動詞が使われています。つまりここでは、いつも習慣的にすることを教えていると言えるでしょう。 高熱や痛み、激しい咳や吐き気の真最中に、こうすることは、当然、誰にも難しいです。しかし、喜び、祈り、感謝することが習慣となり、常日頃からそうであることが大切だということです。これらが、いつも当り前のように習慣化することで、私たちは神に随分支えられると思います。 1964年(昭和39年)、42歳の時、朝日新聞の1千万円懸賞新聞小説に『氷点』で当選され、1999年、77歳で天に召された三浦綾子さんの信仰と著作活動を私たちもいくらか知っていると思います。病気のデパートと言われた位、色々な病気に苦しめられた彼女の体を思いますと、その中でも尚、人は如何に生きるべきかを深く問い、イエス・キリストの中に答があるのではないかと証しする彼女の濃密な著作活動と膨大な著作量に驚きます。 実際の彼女は、とても庶民的でお茶目な方だそうですが、喜び、祈り、感謝することが殆ど習慣となっておられたようです。ですから、神は祝福をもって応えられたのでしょうね。 60代後半に日記から抜粋した彼女の本があります。例えば、こんな内容です。「○月○日、今日は涙が出るほど嬉しかった。50年前、近所に住んでいた久枝ちゃんが、お兄さんの渡辺さん夫妻と一緒に訪ねて来てくれた。小学校以来、私は一度も久枝ちゃんに会ってはいなかった。しかし優しい笑顔で、優しい声で遊んでくれた人、久枝ちゃんは68になっていた。しかし…同じく優しい顔だった。 こんなにも懐かしい人を、神は既に50年前に私に与えて下さっていたのだ。そして50年間、恋しい思いで、いくどとなく思い出していた。不思議な時間、尊い時の流れ、全ては神の御業(みわざ)、神の恵み。」 ここには、嬉しいことを単に嬉しいで終らせず、「全ては神の御業、神の恵み」と捉え、喜び、感謝することが習慣となっておられた彼女の一面が伺えると思います。こういうあり方が彼女を一層神の近くにおらせ、多くの試練の中でも彼女を守り、ますます人を愛し、喜んで人に仕え、また大変人懐っこい人物に神はして下さったのだろうと思います。 私たちにもひどく気が滅入る時があります。しかし、そういう時でも、例えば、「今日はいい人に会った/ 今日は空がとても綺麗/ 今日はいい話を聞いた/ 今日は上手く出来た/ あっ、可愛い花」などとふと思うことがあるならば、それを神の愛と微笑みとして、喜び、祈り、感謝しますと、神を随分近くに私たちは覚えさせられます。そうやって、常に神の近くにおらせて頂き、私たちの愛し慕う主イエス・キリストに魂を守られ、天に召される時まで、良く生きることを、ご一緒に励まされたいと思います。 関連する説教を探す 2023年の祈祷会 『テサロニケの信徒への手紙一』
聖書には、私たちを導く知恵が沢山見られます。聖書はまさに神の知恵の宝庫ですね。
Ⅱテモテ3:15が言いますように、聖書は私たちに「知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせる」ことが出来ます。事実、最終的には、ただ神の御子(みこ)イエス・キリストへの信仰だけで、本当に私たちを罪と永遠の死から救い、永遠の天の御国(みくに)の祝福に聖書は導いてくれます。
しかし、聖書は、最後に私たちが天国に入れるように知恵を与えるだけではありません。天の御国に至る途上でも、すなわち、この世での私たちの歩みにおいても、私たちを支え、イエス・キリストの救いの内に固く守り、罪に打ち勝たせ、私たちを私たちらしく生かす、という知恵をも与えます。
実際、辛いことで気持がひどく落ち込み、あるいは苛々し、何もかもがイヤになりそうな時でも、聖書は確かに私たちを救う知恵を、すなわち、私たちを私たち自身として固く保たせ、イエス・キリストの道をしっかり歩ませる知恵を与えることが出来る、ということでもあります。
先程お読みした所は、紀元1世紀の半ば過ぎに、周囲から嫌がらせや中傷や迫害を受けていた、今日のギリシアの北東部に位置するテサロニケという町の教会の信徒たちへの手紙の一部です。
彼らはよく忍耐していました。しかし、今後も襲ってくるかも知れない試練を思い、使徒パウロは、彼自身も神から授かり、助けられてきたその知恵の一部を教えます。もう一度読みます。16~18節「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全てのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなた方に望んでおられることです。」
しかし、余りにも辛い時は、いくらクリスチャンであっても、いつも喜び、絶えず祈り、全てのことにおいて感謝することなど、無理ではないでしょうか。
パウロもそれは分っていたと思います。実は「いつも」「絶えず」「全てのことにおいて」というのは、何より、喜びや祈りや感謝が習慣化することを強調する言葉であり、「喜んでいなさい。…祈りなさい。…感謝しなさい」という動詞も、ギリシア語原文では皆、継続を意味する動詞が使われています。つまりここでは、いつも習慣的にすることを教えていると言えるでしょう。
高熱や痛み、激しい咳や吐き気の真最中に、こうすることは、当然、誰にも難しいです。しかし、喜び、祈り、感謝することが習慣となり、常日頃からそうであることが大切だということです。これらが、いつも当り前のように習慣化することで、私たちは神に随分支えられると思います。
1964年(昭和39年)、42歳の時、朝日新聞の1千万円懸賞新聞小説に『氷点』で当選され、1999年、77歳で天に召された三浦綾子さんの信仰と著作活動を私たちもいくらか知っていると思います。病気のデパートと言われた位、色々な病気に苦しめられた彼女の体を思いますと、その中でも尚、人は如何に生きるべきかを深く問い、イエス・キリストの中に答があるのではないかと証しする彼女の濃密な著作活動と膨大な著作量に驚きます。
実際の彼女は、とても庶民的でお茶目な方だそうですが、喜び、祈り、感謝することが殆ど習慣となっておられたようです。ですから、神は祝福をもって応えられたのでしょうね。
60代後半に日記から抜粋した彼女の本があります。例えば、こんな内容です。「○月○日、今日は涙が出るほど嬉しかった。50年前、近所に住んでいた久枝ちゃんが、お兄さんの渡辺さん夫妻と一緒に訪ねて来てくれた。小学校以来、私は一度も久枝ちゃんに会ってはいなかった。しかし優しい笑顔で、優しい声で遊んでくれた人、久枝ちゃんは68になっていた。しかし…同じく優しい顔だった。
こんなにも懐かしい人を、神は既に50年前に私に与えて下さっていたのだ。そして50年間、恋しい思いで、いくどとなく思い出していた。不思議な時間、尊い時の流れ、全ては神の御業(みわざ)、神の恵み。」
ここには、嬉しいことを単に嬉しいで終らせず、「全ては神の御業、神の恵み」と捉え、喜び、感謝することが習慣となっておられた彼女の一面が伺えると思います。こういうあり方が彼女を一層神の近くにおらせ、多くの試練の中でも彼女を守り、ますます人を愛し、喜んで人に仕え、また大変人懐っこい人物に神はして下さったのだろうと思います。
私たちにもひどく気が滅入る時があります。しかし、そういう時でも、例えば、「今日はいい人に会った/ 今日は空がとても綺麗/ 今日はいい話を聞いた/ 今日は上手く出来た/ あっ、可愛い花」などとふと思うことがあるならば、それを神の愛と微笑みとして、喜び、祈り、感謝しますと、神を随分近くに私たちは覚えさせられます。そうやって、常に神の近くにおらせて頂き、私たちの愛し慕う主イエス・キリストに魂を守られ、天に召される時まで、良く生きることを、ご一緒に励まされたいと思います。