2020年07月05日「キリスト者の人格と使命」
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キリスト者の人格と使命
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- 田村英典 牧師
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マタイによる福音書 5章13節~16節
聖書の言葉
5:13 あなたがたは地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れることができません。
5:15 また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。
5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。
(新改訳聖書 2017年度版から)
マタイによる福音書 5章13節~16節
メッセージ
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マタイ5:3以降で、神の御子イエスは真(まこと)のクリスチャンの特徴を8つの面から描かれました。心貧しく、悲しみを持ち、柔和で、義に飢え渇き、憐れみ深く、心が清く、平和を作り、迫害されることです。
今日は13~16節に進みます。
ところで、今までの所とここはどんな関係にあるのでしょうか。3~12節は真のクリスチャンの人格を教え、13節以降ではクリスチャンの使命を教えていると言えます。
この前後関係から大事なことを教えられます。一つは、使命に先立って人格を問うことの大切さです。私たちクリスチャンのこの世に対する使命を論じ、実践することは非常に重要です。しかし、イエスによれば、その前にクリスチャンの人格が問われなければなりません。
自分の使命にとても熱心!しかし、何故か空回りし、周囲を躓かせるクリスチャンも時折います。どうしてなのでしょうか。
イエスは、真のクリスチャンの特徴が、3節「心の貧しい」こと、すなわち、真に謙虚であり、4節「悲しむ」、つまり、自分の罪と不信仰に悲しみ、辛さの中で泣いている人たちと共に悲しみ泣くという点を上げ、更に5節「柔和」という点も上げられました。正に(まさに)こういう人格が、13節以降の「地の塩」、「世の光」という神からの尊い使命による働きの実を結ぶのです。主によれば、使命論の前に人格論が来るべきなのです。
と同時に、もう一つ大事なことも示されます。人格や人柄だけでなく、クリスチャンは人や社会に対する使命や役割も忘れてはならないことです。人柄も良く、愛すべき人間性なのですが、社会に関する使命感や問題意識などの希薄なクリスチャンもいます。自分の魂のことには熱心で真面目。でも、神がクリスチャンに与えておられる人や社会への意識や姿勢の弱い人もいます。
しかしイエスは、クリスチャンの人格を教えると共に、世に対する使命をも確認させ、この両方により神の栄光と人の救いのために、私たちを用いようとしておられるのです。
もう一つ、使命論が10~13節に、すなわち、クリスチャンが世から迫害されるということの直後に言われている点も興味深いと思います。如何に罵られ迫害されようとも、クリスチャンは世に対する使命を神から頂いています。実際、迫害されても、なお、人格的に高潔で、心が清く、平和を造るクリスチャンの姿が、人々に対し、地の塩、世の光としてどれ程真実な証しとなり、多くの人が神に導かれたことでしょうか。
以上、3~12節と13~16節の前後関係から大切なことを学びました。
さて、地の塩、世の光という信仰者の使命を教えられた主イエスの心の内には、当然、当時のユダヤ人へのメッセージもありました。何故なら、当時の彼らの多くは、自分たちが神に選ばれ、救われたことの意味や目的を忘れ、自分の救いには神の戒めを守って非常に熱心でも、異邦人に神の愛と真理を証しし、彼らが救われることには、関心が薄かったからです。
そこでイエスは、新しい神の民であるクリスチャンに、あなた方は「地の塩、世の光である」と語り、信仰者の大切な使命について教え、自覚を促されるのです。従って、私たちがイエス・キリストへの信仰を与えられ、救いに与ったことにも、かつてのユダヤ・イスラエル民族同様、尊い使命があるわけです。
イスラエルの先祖で信仰の父と呼ばれたアブラハムに、神はかつてこう言われました。創世記12:2、3「あなたは祝福の源となりなさい。…地の全ての部族は、あなたによって祝福される」と。アブラハムとその子孫であるユダヤ・イスラエル民族は、実は罪と悲惨の中にある全人類の祝福の源となるために、神に選ばれ、信仰を頂いて救われたのでした。
私たちクリスチャンも同じです。自分の力でではなく、神の一方的な恵みにより、イエスの十字架の贖いを信じる信仰を頂いて救われた私たちも、ただ自分が救われ、幸せであれば良いのではありません。いまだ真(まこと)の神もイエスの十字架の救いの愛と恵みも知らず、先祖伝来の空しい生活をしている多くの人が救われるための祝福の源となるために、私たちは救われたのです。ですから、イエスは言われます。「あなた方は地の塩です。あなた方は世の光です。」こうしてイエスは、旧約時代から世の終りまで貫く信仰者の大切な使命(ミッション mission)を改めて教え、私たちを立ち上がらせようとしておられるのです。
さて、真の神を知らない多くの人のために、クリスチャンが地の塩、世の光という使命を帯びて世に派遣され、世に置かれていることを、もう少し考えてみます。
このことを、自分の弱さや未熟さ故に、正直な所、重荷に感じるクリスチャンもいるかも知れませんね。どうでしょうか。
これは止むを得ないかも知れません。一体、どんなクリスチャンが、自信たっぷりに「私は地の塩、世の光という使命に燃えている!私はやるぞ!」などと言えるでしょうか。むしろ、そういう人は却って危険かも知れません。
心の貧しい真に謙虚なクリスチャン、自分の罪と不信仰を覚え、悲しむクリスチャンであれば、世への使命などというと、少々たじろいでも変ではありませんね。
その点を覚えつつ、でも、私たちが地の塩、世の光としての使命を神から頂いていることの尊い意義を最後に学びたいと思います。
第一に、この使命は何と尊く光栄あるものでしょうか。
世の中には色々な使命があります。使命は、漢字で「命を使う」と書きます。それ位、使命と呼ばれるものはどれも尊い。けれども、万物の創り主にして、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変の霊であられる神!私たちの生きる意味と目的、生と死も一切がこの方の内にあり、しかし、御子を十字架につけられた程に私たちを愛しておられる生ける真の神を皆に知ってもらうこと程、尊い使命が他にあるでしょうか!最終的に永遠の死から、キリストによる永遠の命の祝福に人に与ってもらうこと以上に、偉大な光栄ある使命があるでしょうか。
弱い私たちの出来ることは限られています。しかし、僅かな塩でも、食べ物全体を驚く程美味しくし、小さなローソク一本でも部屋全体を明るく照らすように、主の御霊が働かれるなら、私たちは必ず主の道具とされます。私たちが使命を忘れなければ、イエス・キリストが私たちに働かれ、地の塩、世の光としてお用い下さるのです。この光栄をまず覚えたいと思います。
第二に、隣人や社会への自分の使命に生きることは、必ず私たち自身を祝福します。辛いことも多いですが、生きてきて良かったと思える清い充足感や感謝が、これには必ず伴います。
世の中には、幸福を求めて色々なことを次々行う人がいます。しかし、思い通りにならず、幻滅を感じ、それを繰り返す内に心を病む人が現代社会には多いようです。何が問題なのでしょうか。幸福自体を目的として追及することです。
スイスの精神科医ヴィクトール・フランクルは、第二次世界大戦の時、アウシュビッツなどナチスの強制収容所に入れられ、愛する妻も殺される中、辛うじて生き残り、そこでの体験記『夜と霧』を書きました。彼の本は何冊か日本語に訳され、大事なことを語っています。明治大学文学部の諸富祥彦教授がフランクルを紹介し、こんな主旨のことを述べておられます。「『私の幸せはどうすれば手に入るのか。私の自己実現はどうすれば可能なのか』という『私中心の人生観』をやめ、『私は何のために生れてきたのか。私の人生にはどのような意味と使命(ミッション mission)が与えられているのか』という『生きる意味と使命中心の人生観』へと、生きる構えを180度転回すること、これが大切だ」と。
これはとても重要なことを語っています。ユダヤ人のフランクルの根底には、人間と世界を造られた神の支配や、人の生きる意味、目的、使命についての認識が如何に大切かという思いが見られます。そして、これに基づく治療で多くの人が癒されてもいます。
細かい点は省きます。自分の幸福追求を目的に生きますと、却って人は駄目になります。しかし、自分に何が求められ期待されているのかという自分の生きる意味、使命を覚え、誠実にそれに打ち込む時、人は困難の中でも潰れず、結果的に深い充足や喜び、感謝、つまり、幸せを経験することが出来るわけです。
決して体が丈夫ではないフランクルでした。しかし、強制収容所の中で、多くの人が早々と精神的に壊れ、死んでいく中、実は彼の妻は既に死んでいたのですが、それを知らない彼は妻のことを常に考え、愛し続けました。また精神科医としての自分のやり残している論文や本の出版を考え、隠れて紙切れにメモをいっぱい書きました。そうやって、他者のための使命に生きたことで、自分が守られ、地獄のような苦難を克服したのでした。
イエスの言われる「地の塩、世の光」という光栄ある使命を覚え、自分を整え、自分を献げることには、当然苦労も伴います。しかし、神の御心に従う故の苦労は、決して無駄にはなりません。私たちを人格的に練り清め、世が与えることも奪うことも決して出来ない永遠の御国に連なる幸せを、私たちは必ず味わうことを許されるでしょう。
最後にⅠコリント15:58を読んで終ります。「私の愛する兄弟たち、堅く立って、動かされることなく、いつも主の業に常に励みなさい。あなた方は、自分たちの苦労が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」