2023年07月16日「我は聖なる公同の教会を信ず ⑵(使徒信条の学び31)」

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我は聖なる公同の教会を信ず ⑵(使徒信条の学び31)

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
エフェソの信徒への手紙 1章20節~23節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:20 この大能の力を神はキリストの内に働かせて、キリストを死者の中から甦らせ、天上でご自分の右の座に着かせて、
1:21 全ての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、唱えられる全ての名の上に置かれました。
1:22 また、神は全てのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、全てのものの上に立つ頭(かしら)として教会に与えられました。
1:23 教会はキリストの体であり、全てのものを全てのもので満たす方が満ちておられるところです。エフェソの信徒への手紙 1章20節~23節

原稿のアイコンメッセージ

 キリスト教信仰の大切な基本内容を確認するために、私たちは古代教会が告白した使徒信条を続けて学んでいます。そして聖霊なる神についての所まで進み、前回はその中の「聖なる公同の教会」を信じるという所を取り上げました。今朝はその続きを学びます。

 確認のために少し振り返ります。前回、まず学んだのは、教会は三位一体(さんみいったい)の神の御霊(みたま)・聖霊と密接な関係にあることです。Ⅰコリント3:16はコリント教会員に向かって言いました。「あなた方は、自分が神の宮であり、神の御霊が自分の内に住んでおられることを知らない」のかと。

 教会は神の御霊がおられる宮であり、イエス・キリストによる罪の赦しと永遠の命という救いの恵みを、聖霊が私たちに具体的に現される所であり、教会は聖霊の御業(みわざ)の中心にあると言える位、大切なものです。ですから、「我は…聖なる公同の教会を信ず」と使徒信条が言うように、私たちも教会を信じるのです。

 無論、偶像礼拝のように、訳も分らず教会を信じるのではありません。神の御言葉、聖書が教会について教えることを信じ、学びと奉仕と交わりを中心とする教会生活を大切にするのです。

 古代教会には迫害があり、殉教者や背教者も出ました。しかしそんな痛みの中でも、彼らは聖書により教会の重要性を認識し、教会を大切にし、福音に生き、その結果、多くの人が救われたのでした。

 そこで前回は、教会に関する聖書の御言葉を五つ見ました。それも振り返っておきます。

 エペソ1:22、23「神は全てのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、全てのものの上に立つ頭(かしら)として教会に与えられました。教会はキリストの体であり、全てのものを全てのもので満たす方が満ちておられる所です。」

 Ⅰテモテ3:15「神の家とは、真理の柱と土台である、生ける神の教会のことです。」

 イエスは弟子たちに言われました。マタイ16:19「私はあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上で繋ぐことは天においても繋がれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」恐れ多いことですが、教会にはいわゆる「鍵の権能」が与えられているのです。

 イエスはマタイ18:19~20で、心を合わせて祈る教会の祈りを天の父が叶え、二人か三人がイエスの名によって集まる教会には、「私もそこにいる」と言って祝福を約束されました。

 教会は、「神がご自分の血をもって買い取られた」(使徒20:28)ものです。ですから、私たちは教会を信じるのです。

 そこで、「教会を母とするのでなければ、神を父とすることは出来ない」という、確かに真理の一端のある昔からの言葉も紹介しました。

 さて使徒信条は、我は「聖なる公同の教会」を信じると言います。今朝はまず「聖なる教会」という点を確認したいと思います。

 聖なる教会!私たちはこれを信じ、告白出来るでしょうか。教会は、救い主イエス・キリストを信じ、罪を赦されたクリスチャンの集りです。とはいえ、まだまだ罪と弱さを持つ罪人の集りに他ならず、牧師も例外ではありません。

 歴史を振り返るとよく分りますように、教会も罪を犯し、間違いもして来ました。中世のローマ・カトリック教会はかなり腐敗したため、宗教改革が起りました。では、その後のプロテスタント教会は大丈夫だったでしょうか。いいえ、多くの教会もしばしば聖書から外れ、その時代の風潮に倣い、国家や権力者に迎合した時もありました。そうだとしますと、「聖なる」教会を信ず、と告白するのは、無理ではないでしょうか。

 これは、しかし、古代教会でも同じであり、当時の人々も現実の教会の弱さをよく分っていましたが、「聖なる教会を信ず」と告白しました。どうしてでしょうか。

 教会には、この世の集団とは違い、確かにきよさがあります。これは外から初めて教会に来た人にはよく分ります。こんなに真剣に神の前にきよく生きることや、謙遜に互いに仕え合い、愛し合うことを学んでいる所が、他にあるでしょうか。

 しかし繰り返しますが、現実には問題もあります。それでも私たちは、「聖なる教会を信ず」と告白出来るのでしょうか。出来ます。

 聖書では、「聖」は元々「神のために取り分けられた」という意味です。同じ器でも、神殿で使われるために一旦取り分けられたならば、それは聖なる器とされました。

 教会も同じです。問題はありますが、教会がイエス・キリストを中心とし、常に神の言葉に聞き従うことを願い、福音宣教に用いられたいという熱い祈りと真実な奉仕があるなら、教会の手前勝手な自己理解でなく、教会は確かに「聖なる」ものなのです。

 そして事実、多くの教会は、弱さの中でも、尚、イエス・キリストのきよい福音に生き、多くの犠牲を払ってでも、福音宣教を、近隣地域だけでなく、使徒1:8でイエスが命じられたように、まさに地の果てまで行なって来ました。ですから、東洋の端にある日本にまでも多くの宣教師たちは命の危険を冒してでも来たのでした。

 また確かに教会は、この世に神の真理の光を掲げることに努めて来ました。この意味で、私たちも「聖なる教会を信ず」と告白し、そして一層、神の聖なる御用に自らを差し出す私たち信徒でありたいと思います。

 もう一つ、「公同の教会」を信ず、という点を見ます。

 「公同」とはカトリックという言葉であり、普遍的で一つという意味です。ローマ・カトリック教会は自らカトリックという名称を付けています。プロテスタントのように諸教派に分かれず、自分たちは教理と礼拝形式と教会制度において、世界中で一つだという確信と自負心もあると思います。

 では、プロテスタントはどうでしょうか。「公同の教会を信ず」と告白する資格はあるのでしょうか。あります。

 では、その根拠は何でしょう。信仰の中心的な点で一致していることです。すなわち、聖書で自己紹介をしておられる三位一体の神を信じ、その独り子イエスを私たちの罪と永遠の死からの唯一の救い主として、心から信じ、受け入れ、依り頼んでいることです。また使徒信条、ニカイア信条(ニカイア・コンスタンティノスポリス信条)、アタナシウス信条、カルケドン信条という4つの世界公同信条を受け入れているなら、それはまさに公同の教会です。

 確かに、教理のある点や礼拝形式や教会制度で違いはあります。しかし、そのことを互いに認め合って教派に分かれています。すなわち、私たちは、多様性のある一致という理解に立って、「公同の教会を信ず」と告白するのです。

 私たちは、自分の属する教派・教会が正しいと信じて、そこに留まります。しかし、それは他の教派の人たちも同じです。従って、私たちは徒に(いたずらに)他を裁くのではなく、カトリック教会や正教や聖公会も含め、多くの教派と教会の中に、目には見えない公同の教会が存在していることを信じるのです。また、夫々の特徴は保ちつつも、歴史を貫いて存在するその「目に見えない一つの公同の教会、本当の教会に仕える」という謙りと愛と熱心を大切にしたいと思うのです。

 私たちは、自分の教会と教派のために祈りますが、日本と世界の全ての「公同の教会」に常に関心を払いたいと思います。今、迫害や国の監視を受け、あるいは自然災害など大変な苦難の最中(さなか)にある教会もあれば、教理や生活の一部に問題のある教会もあります。いいえ、私たちにも弱さがあります。ですから、常に謙り、イエス・キリストの十字架による罪の赦しときよめを願い、教会の頭イエス・キリストが御言葉と聖霊によって絶えず教え、義に導いて下さるように、諸教会のために祈りたいと思います。

 こういうことを見て来ますと、諸教会のために祈ることが如何に大切かを、思わないではおられません。

 ナチスの台頭の下で、かつてドイツの諸教会は混乱しました。そんな中、自らも捕えられ、39歳で殉教したD.ボンヘッファーは言いました。「我々の教会が再び祈ることを学ぶということに、一切をかける必要がある。誠にルターが倦(う)まず語り続けたように、教会の祈りこそ、教会の力、集い、一致のための主要源泉である。」

 世界中に広がっている聖なる公同の教会を通して福音が遍く(あまねく)宣べ伝えられ、御言葉と聖霊のお働きの下に、多くの方々が救われ、また常に愛の働きを忘れず、神の栄光が現されるために、私たちは改めて祈りたいと思います。

 主イエスは「受けるよりも与える方が幸いである」(使徒20:35)と言われました。教会から霊的なものを受けるのは、当然です。もっと受けてかまいません。しかし、それだけでなく、それと同時に、如何にして「キリストの体」、「聖霊の宮」、「神の家」である教会に仕えるかという愛と奉仕に、改めて皆で努めたいと思います。

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